翻訳の未来
山岡洋一

翻訳 はもっとよくなる

 最近、翻訳者の小さな集まりで翻訳の未来をテーマに話す機会があった。いつものこ とながらこのときも、準備していた点の半分も伝えられないうちに時間が尽きてしまった。そこで、内容を若干変更して、そのときに伝えたかった点を書いてい くことにする。

 2007年の抱負というと、翻訳がもっとうまくなりたいということに尽きてしまいます。2007年というと、もう何年も前からいわれてきたように、いわ ゆる団塊の世代が定年を迎えるようになる年です。2007年問題というそうです。私事になりますが、戦後のベビー・ブームの後半に生まれていますので、こ の2007年問題という言葉を聞くたびに、あと何年で60歳になるという事実を思い出すことになります。ここ1〜2年、同世代の友人や知人が早期退職で引 退したという話も聞くようになっています。

 60歳という年齢は一昔前なら、赤いちゃんちゃんこを着せられる年齢なわけです。いまでは定年ということで、世の中の役には立たなくなったとされてお役 御免になる年齢です。ハッピー・リタイアという言葉を聞くこともありますが、ほんとうにハッピーだといえる人はそう多くないはずです。人の一生のなかでい ちばん見苦しい年齢だなどとは、誰にもいわせないようにしなければならない、そういう年齢でしょう。

 その年齢が近づいてきているというのに、仕事がもっとうまくなりたいというのは冗談だろうと思われるかもしれません。ですが出版翻訳というのは少し変 わった世界で、世間一般とは年齢の感覚がかなり違っています。もちろん、人によって違いがありますが、普通なら40歳では若手扱い、50歳でようやく中堅 というところでしょうか。ほんとうの意味で働き盛りになるのは、60歳前後になってからということが多いようです。その後、耄碌したとされるようになるま でが勝負の時期だといえます。ですから、幸か不幸か出版翻訳という仕事にたずさわるものにとって、還暦が近づいている時期というのは、前途をおおいに期待 できる時期なのです。

 考えてみれば、これほどありがたい仕事もないかもしれません。たいていの仕事では若い人ほど有利です。経験を積んでいくと、高く評価されるようになるど ころか、厄介者扱いされるようになりかねません。老人にみられた方が有利だという職業はめったになく、出版翻訳以外ですぐに思いつくのは落語家ぐらいでは ないでしょうか。

 それだけでなく、出版翻訳のもう一方の極である読者にとっても、この年齢は悪くない時期だといえるはずです。人の一生のなかでいちばん本が読める時期と いえば、おそらく20歳前後でしょうが、そのつぎは間違いなく60歳前後から後のはずです。生活に少しは余裕ができ、通勤の電車のなかでしか本が読めない 状況ではなくなります。戦後のベビー・ブームの時期に生まれた世代には、若いころに読書に親しんできた人が少なくないので、仕事と子育てに忙殺されていた 時期が過ぎれば、ふたたび読書に楽しみを求めるようになるのではないでしょうか。そうなれば、「読みやすく分かりやすい」という名の幼稚な本ばかりがもて はやされることもなくなり、読みごたえのある本格的な本が着実に売れるようになるのではないでしょうか。出版翻訳者の立場からこの点を考えると、今後にま すます期待できるように思えてなりません。

翻訳はもっとよくなる
 ですから、翻訳がもっとうまくなりたいと思うのですが、それだけではありません。もうひとつ大きな理由があります。翻訳はもっともっとよくなるはずだと 思うのです。理想的な翻訳を100点とすると、現在の自分の翻訳はせいぜい35点ぐらいではないかと考えています。だから、100点までにはまだまだ改善 の余地があるはずです。

 このようにいうと、謙虚ぶっているといわれるかもしませんが、そうではありません。なぜかというと、35点というのは、理想の翻訳を100点とするとい う絶対評価によるもので、他人の翻訳と比較したときの相対的な点数ではないからです。ちなみに相対的な評価について触れておくなら、さまざまな翻訳家の翻 訳を読んで、40点をつけたくなることがありますが、それはごくごく例外的です。30点以上の点をつけることすら、めったにありません。たいていは10点 から20点しかつけません。ごく少数の例外を除いて自分以外はみんな下手、これがたいていの翻訳者の本音のはずであり、わたしも例外ではありません。そう 思っていなければ翻訳のように労多くして功少ない仕事はやっていけません。一方にこのような傲慢さがあり、他方に、自分で本を執筆したときに本当の意味で 一流のものが書けるはずがないという現実感覚があるのでなければ、翻訳という仕事は続かないと思います。一流のものが書けないのであれば、一流のものを紹 介する方が楽しいというのが、翻訳家のうちかなりの人の本音なのではないでしょうか。

手本が見当たらない
 つまり、翻訳はもっともっとよくなるはずだと思うのは、自分の翻訳についての見方ではありますが、それだけでなく、日本の翻訳全体についての見方でもあ るのです。21世紀初めの読者を前提にしたとき、これが理想的だといえる翻訳があるのであれば、話は簡単です。100点をとる翻訳家がいて、とくに自分と 同じ分野にそういう翻訳家がいて、自分の翻訳がせいぜい35点だというのであれば、とるべき方法が2つあります。

 第1に、理想的だといえる翻訳を研究し、徹底して真似る方法があります。出版翻訳という仕事は幸い、ノウハウを秘密にしておくことができません。訳書は もちろんすぐに買えますし、原著もすぐに入手できるのが普通ですから、両者を対照して読んでいけば、ノウハウを学ぶことができます。ノウハウはいうならば 公開されているわけですから、理想の翻訳を目指して奮闘努力すればいい。話はじつに単純です。年数がかかることはあっても、普通は簡単でもあります。思い 悩むような問題はありません。

 ですが、この方法をとっても自分では100点に近づけないという場合もあるでしょう。その場合にも幸い、第2の方法があります。第2の方法は、職を変え るか、少なくとも分野を変えることです。勝てない戦をしてはいけない。翻訳という職で、あるいは翻訳のなかのある分野で勝てないのであれば、勝てる職か分 野を探せばいいのです。話はじつに単純です。自分が勝てる職か分野を探すのは簡単ではないかもしれませんが、少なくとも勝てない戦を続けるよりは精神衛生 上もいいはずです。

 21世紀初めの読者を前提にしたとき、これこそ理想的だと思える翻訳がないという場合には、話はそう単純でも簡単でもなくなります。もちろん、毎年何千 点も出版される翻訳書のうち、読んでいるのはごくごく一部にすぎませんから、素晴らしい翻訳を見逃しているという可能性もあります。ですから、この翻訳は ほんとうに素晴らしかったという意見があれば、是非とも聞かせていただきたいと思います。しかし名訳を探す作業はもう20年近く続けてきましたので、40 点の翻訳が見つかる可能性はあっても、それ以上の翻訳が探し出せる可能性は低いように思います。

 要するに、自分の翻訳に強い不満と苛立ちを感じる一方で、真似るべき手本も少なくとも手近なところでは見当たらない状況にあるのです。この点は、自分が 扱っている分野、つまり主に論理を伝える翻訳についてとくに強く感じていますが、それだけではありません。自分の翻訳はせいぜい35点であるのに対して、 ごくごく少数とはいえ、40点をつけたくなる翻訳書がありますが、その大部分はエンターテインメント小説の分野の翻訳書です。ですがこの分野でも、40点 を大きく超えると思える翻訳書にはまだ出会ったことがありません。ですから、はるかによくなるはずだと思うのは、論理を伝えるための翻訳だけにかぎった話 ではありません。

霧のなかを彷徨う
 では、どのような翻訳であれば理想的なのかと質問したいと思われているのではないでしょうか。そんなべらぼうな話があるかと思われるかもしれませんが、 この質問に対しては、それが分かれば苦労はないと答えるしかありません。いまあるのは、翻訳の現状に対する漠然とした不満にすぎません。現在の自分の翻訳 がせいぜい35点ぐらいだというのは、その不満が漠然とはしているが、相当強いというにすぎません。しっかりした採点基準があるわけではないのです。

 出版翻訳家や翻訳書の編集者に意見を聞いていったとしても、21世紀初めの翻訳の理想像が浮かび上がってくるとは思えません。どちらかといえば、翻訳書 の価値のうち、原著の質には敏感でも、翻訳の質には鈍感な人が多いように思います。だからといって、翻訳の現状に満足しているわけではなく、翻訳とは所詮 こんなものと諦めている場合が多いのではないでしょうか。読者の意見を聞いても、「読みやすくて分かりやすい翻訳がいい」といった一時代前の決まり文句が 返ってくるだけで、翻訳の理想像を考えるうえで参考になる話が聞けることはめったにありません。これが未来の翻訳だといえるものを翻訳家や出版社の側が提 供できていないのですから、読者に答えを要求するのは酷というものでしょう。

 というわけで、現状は暗中模索、五里霧中の状態だといえます。それ以上に悪いかも知れません。闇のなか、霧のなかにいる状況に慣れてしまい、先を見通せ る状況がどういうものかを忘れているとすらいえるからです。そういう状況でとるべき方法はいくつかあります。まずは、翻訳の現状のどこに不満を感じている のか、少しずつでも明らかにしていく方法をとってみましょう。

論理性と明晰さ
 抽象的な話ばかりになっていますので、具体的な例をあげましょう。論理を伝える翻訳を仕事にしている関係で、真っ先に気になるのが、いまの翻訳の文体で は論理を十分に伝えられないのではないかという点です。たとえば、この例をみてください。これは「翻訳通信」の2006年12月号でミルの『自由論』を材 料に、明治初めから昭和の高度経済成長期までの翻訳の変遷を論じたときに使ったものです。原文の一部と、塩尻公明・木村健康訳(岩波文庫)の訳を取り上げ ます。

  The object of this Essay is to assert one very simple principle, as entitled to govern absolutely the dealings of society with the individual in the way of compulsion and control, whether the means used be physical force in the form of legal penalties, or the moral coercion of public opinion. (J.S. Mill, On Liberty)

  この論文の目的は、用いられる手段が法律上の刑罰というかたちの物理的な力であるか、あるいは世論の精神的強制であるかいなかにかかわらず、およそ社会が 強制や統制のかたちで個人と関係するしかたを絶対的に支配する資格のあるものとしてひとつの極めて単純な原理を主張することにある。(塩尻公明・木村健康 訳『自由論』24ページ、岩波文庫、1971年)

 この原文と訳を比較したときすぐに気づくのは、後ろから前に訳す方法がとられていることです。原文の構造を解析し、それぞれの部分がどの順番で訳されて いるかをみていけば、この点が一目瞭然になります。

 この原文を読む人はおそらく、つぎのように区切って読んでいきます。

(1)  The object of this Essay is  
(2)  to assert one very simple principle,
(3)  as entitled to govern absolutely
(4)  the dealings of society with the individual
(5)  in the way of compulsion and control,
(6)  whether the means used be physical force in the form of legal penalties,
(7)  or the moral coercion of public opinion.

 このように読んでいったとき、原文はとくに難文ではなく、明快で論理的な文章だと思えるはずです。塩尻公明・木村健康訳ではこうなっています。

(1) この論文の目的は、
(6) 用いられる手段が法律上の刑罰というかたちの物理的な力であるか、
(7) あるいは世論の精神的強制であるか
(6) いなかにかかわらず、
(4) およそ社会が
(5) 強制や統制のかたちで
(4) 個人と関係するしかたを
(3) 絶対的に支配する資格のあるものとして
(2) ひとつの極めて単純な原理を主張することにある。

 まるで千鳥足のような迷走ぶりだと思いませんか。これで車を運転したら、大事故を起こして刑務所に放り込まれかねないような酩酊ぶりだと。文章の順序は 思考の順序を示しているのですから、ここまで迷走すると、明快で論理的な文章が難解で理解しがたい文章になります。論理を伝えることができない文章になり ます。

 だったら前から順に訳していけばいいではないかと思われるかもしれません。現に、翻訳は頭から訳せと主張する人がいます。もちろん、この文章を頭から訳 そうと思えばできないわけではありません。ですが、別の例をみてみると、話がそう単純ではないことが分かるはすです。短い文章を示します。やさしい文章で すから、この場で訳してみませんか。

  The flow of the river is ceaseless and its water is never the same.  The bubbles that float in the pools, now vanishing, now forming, are not of long duration:  so in the world are men and his dwellings.

 ここでとくにお聞きしたいのは、第2センテンスのthat以下をどう訳すかです。この部分を前から訳すべきだといえるでしょうか。それとも塩尻・木村流 に後ろから訳すのが正解なのでしょうか。

 翻訳に正解はないはずだといわれるかもしれませんが、これは正解がある珍しい例です。正解はこうです。

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、か つ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。(鴨長明『方丈記』)

 この英文は、ドナルド・キーンによる英訳です(Anthlogy of Japanese Literature from the Earliest Era to the Mid-Nineteenth Century, Donald Keene, Grove Press, 1960)。もうひとつ例をだしてみましょう。

 The months and days are the travellers of eternity.  The years that come and go are also voyagers.  Those who float away their lives on ships or who grow old leading horses are forever journeying, and their homes are wherever their travels take them.

 もう騙されないはずです。誰でも知っている『おくのほそ道』の冒頭部分です。英訳はやはりドナルド・キーンです(ドナルド・キーン訳『対訳 おくのほそ 道』、講談社インターナショナル、1996年)。念のために、原文もあげておきます。

 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて 老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。(松尾芭蕉『おくのほそ道』)

 ここで、「行かふ年」と「舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物」がともに関係代名詞を使って後ろから前に訳されていることに注目したいと 思います。『方丈記』の「よどみに浮かぶうたかた」もそうでした。

 こうした例をみると、意外なことが分かるはずです。関係代名詞の構文を後ろから前に訳す方法は、たとえば『自由論』の塩尻・木村訳をみると、直訳調で日 本語の生理を無視した悪訳だと思えるかもしれませんが、実際には日本語らしい日本語なのです。たとえば、The years that come and goは「行かふ年」と後ろから前に訳すのが正解です。まさか、松尾芭蕉の文章が直訳調の悪文だという人はいないはずですから、これが日本語の生理にあった 日本語らしい日本語だというしかないのです。こうした点を考えて、幕末から明治初期にかけて、関係代名詞の構文の訳し方が確立したのであって、その点を無 視してはいけないと思います。

 何をいいたいのか、お分かりいただけるでしょうか。塩尻・木村訳の『自由論』のような訳文はいま、翻訳調だとして嫌われています。日本語らしい日本語で 訳すよう求められています。そしてたしかに、後ろから前に訳していく方法をとると、千鳥足のような悪文になります。だったら前から順に訳していけばいいの かというと、それこそ日本語の生理を無視した訳文になりかねません。問題は一筋縄ではいかないのです。

 日本語らしくというのも、じつはきわめて危ない見方です。「よどみに浮かぶうたかた」や「行かふ年」の例からあきらかなように、直訳調とみられているも のが日本語らしい文章だったりするのですが、それだけではありません。翻訳というからには、外国語で書かれた文章から優れた点を学ぶのが使命です。学ぶも ののひとつに、外国語の文体や表現があります。外国語の文体や表現を学び、日本語に取り入れて、日本語を豊かにしていくのが翻訳者の使命のひとつなので す。日本語らしさを強調しすぎると、この使命を果たせなくなるでしょう。

 前述のように、論理を伝える翻訳を仕事にしている関係で、いまの翻訳の文体では論理を十分に伝えられないと思える点が問題だと考えています。ミルの明快 な文章が塩尻・木村訳で明快さを欠いた難文になっているのがその一例です。ここで取り上げたのは訳出の順序という点だけですが、他にもさまざまな要因が あって、原文の論理をうまく伝えられなくなっています。

 こういう話をすると、そうそう日本語は感情表現は得意だが、論理的で分析的な表現は不得意だからと、したり顔で話しだす人がいます。こういう与太話を信 じてはいけません。日本語は論理的な言語です。ある部分では、たとえば英語とは比較にならないほど論理的だと思えるほどです。ですが、現在の翻訳の文体で は、英語などの欧米の言葉で書かれた論理を十分に伝えられない場合があります。原文の明快な論理が、訳文では十分に伝えられないことがある、ここに問題が あるのです。

古い翻訳を読む
 翻訳の現状で不満がある点は、論理性と明晰さだけではありませんが、ここで別の方法も試してみましょう。それは、温故知新という方法です。古きをたずね て新しきを知る、これは現状に不満を感じていながら、どこにどう問題があるのかがよく分からないときに便利な方法です。

 世の中は複雑で、逆説に満ちているといえますが、逆説のひとつとして、昔に戻ろうとする運動こそが前進をもたらすことが少なくない点があげられます。た とえば明治維新は復古運動ですし、ヨーロッパでもルネサンスや宗教改革はあきらかな復古運動です。翻訳で昔に帰れと呼びかけるとするなら、帰るべき昔は明 治から大正にかけてしかないように思います。たとえばさきほどの『自由論』にしても、明治初期の中村正直訳『自由之理』は群を抜いています。引用しておき ましょう。

 予コノ論文ヲ作ル目的ハ人民ノ會社〔即チ政府ヲ言フ〕ニテ、一箇〔ヒトリ〕ノ人民ヲ 取リ扱ヒ、コレヲ支配スル道理ヲ説キ明ス事ナリ。即チ或ハ律法刑罰ヲ以テ、或ハ教化禮儀ヲ以テ、總體仲間ヨリ銘々一人エ施コシ行フベキソノ限界ヲ講ズル事 ナリ。(中村正直訳『自由之理』、『明治文化全集第五巻』14ページ、日本評論社、1926年)

 明治4年に出版された『自由之理』には、原著の理解という点でたしかに色々な問題があります。しかし、この部分を読んだだけで、論理性と明晰さという点 で、たとえば塩尻・木村訳とは比較にならないほど優れていることが分かるはずです。考えてみれば、これは当たり前のことなのかもしれません。中村正直は幕 末期を代表する儒者であり、論理を扱い、論理を伝える文章を書くことに熟達していたはずだからです。


文章の力
 もうひとつ、中村正直の訳を読んで気づくのは、文章に力があることです。中村正直だけでなく、昔の文語体の翻訳には、いまの文章にはない力がある場合が ありました。別の例でみてみましょう。『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」から、有名な部分を引用してみましょう。まずは新共同訳をみて、つぎに文語訳 をみてみます。

新共同訳
……イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受けるときが来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だ が、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者 は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者がいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださ る。」(「ヨハネによる福音書」12.23−26)

文語訳
……イエス答へて言ひ給〔たま〕ふ。『人の子の榮光を受くべき時きたれり。誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、も し死なば、多くの実を結ぶべし。己〔おの〕が生命〔いのち〕を愛する者は、これを失ひ、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠〔とこしえ〕の生命 に至るべし。人もし我に事〔つか〕へんとせば、我に從へ、わが居る處〔ところ〕に我に事〔つか〕ふる者もまた居〔を〕るべし。人もし我に事〔つか〕ふるこ とをせば、我が父、これを貴〔たふと〕び給はん。……(「ヨハネ傳福音書」12.23−26)

 読みやすさ、分かりやすさという基準でみれば、新共同訳の方がはるかに優れています。しかし、力強さという点では比較にもならないというべきでしょう。 「読みやすく分かりやすい」口語体の訳文が力強さを欠いているのはあきらかです。

 読みやすさと分かりやすさという点を除けば、新共同訳より文語訳がはるかに優れていることはほとんど常識だといってもいいでしょう。翻訳にあたって、原 文に聖書からの引用があったとき、文語訳を使う人が多いのはそのためです。たとえばごく最近、2006年11月に出版された小尾芙佐訳『ジェイン・エア』 (光文社古典新訳文庫)でも、聖書の引用には文語訳を使っていました。これが正解だと思います。

 ですが、引用以外の部分では、21世紀初頭の読者を対象に翻訳を行うとき、中村正直や文語訳聖書のような文体を使うわけにいかないことははっきりしてい ます。小尾芙佐訳の『ジェイン・エア』でも、文語訳聖書のような文体はもちろん使っていません。そのとき、文章の力強さを犠牲にしなければならないので しょうか。この点も、いまの翻訳に不満をもつ点のひとつです。

記憶に残る文章
 もうひとつ、聖書の例を引きましょう。以下の2つの訳のうち、どちらが記憶に残りやすいでしょうか。

文語訳
幸福〔さいわい〕なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。幸福〔さいわい〕なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。……(「マタイ傳福音書」 5.3−4)

新共同訳
心の貧しい人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである。
    その人たちは慰められる。……(「マタイによる福音書」5.3−4)

 これも考えるまでもないはずです。わたしのように、翻訳の必要に迫られてときどき聖書を読むだけのものでも、「幸福なるかな、心の貧しき者」という言葉 は覚えているほどですから。

 いま、出版社は書店の棚をめぐって熾烈な競争を繰り広げています。優れた本を出版しても、書店の棚を確保できなければ書店に行く読者の目に触れなくな り、売れるとは予想できなくなるからです。昔の本はおそらく、読者の記憶をめぐって、はるかに厳しい競争を繰り広げていたのでしょう。読者の記憶に残れば 勝ち、残らなければ負けだったはずです。このため、昔の本、日本語でいえば文語体で書かれていた時代の本は、いまの本と比較して、はるかに記憶に残りやす く書かれていると思います。そのためにさまざまな手段が使われていたように思います。

 いまでも、読者の記憶に残る文章を書くことが重要な場合があります。翻訳にあたって、ここぞという箇所は記憶に残りやすくなるように、そして引用されや すくなるように、訳文を工夫します。しかし、これがなかなかうまくいかないのです。そう意識したときに思い浮かぶのはたいてい、何らかの意味で古い文体、 文語体に近い文体の文章なのです。ところが前後の文体との釣り合いがとれなくなって、たいていは、そのままでは採用できなくなります。記憶に残りやすい文 章が書きにくい点も、現在の翻訳の文体で満足できない理由のひとつです。

口語体という名の文語体
 明治から大正にかけての翻訳というと、上田敏訳『海潮音』の耳に心地よい音とリズム、森鴎外訳『即興詩人』『ファウスト』の格調の高さも忘れるわけには いきません。どちらも、いま使われている口語体という文体ではなかなか実現できません。

 しかし最後にどうしても指摘しておきたいのは、いわゆる口語体の訳文がほとんどの場合、本来の意味での口語、つまり話し言葉とかけ離れていることです。 口語体の訳文の典型例として、たとえば、先程紹介したミルの『自由論』の翻訳のうち、水田洋訳をみてみましょう。

 この評論の目的は、法的処罰という形における物理的な力か、世論という道徳的拘束か の、いずれの手段がもちいられるにしても、社会が個人を強制および統制というやりかたでとりあつかうときに、そのとりあつかいかたを絶対的に支配する権限 をもつ、ひとつのきわめて単純な原理を主張しようということなのである。……(水田洋訳「自由について」、『世界の大思想U−6』15ページ、河出書房、 1967年)

 どのような場面でも、たとえば講演や演説でも、このような話し方をする人はいません。この文章は黙読用に書かれています。黙読することによってしか理解 することができない文章です。これを朗読しても、聞き手にはほとんど意味が伝わらないはずです。朗読した場合の意味の伝わりやすさという点では、いわゆる 文語体の訳文の方がはるかに上です。文語体に慣れていない若い人でもおそらく、朗読を聞きくらべた場合、この水田洋訳よりも、先程の中村正直訳の方が理解 しやすいはずです。中村正直訳は当時の話し言葉からはかけ離れていたにしても、少なくとも音読され、朗読されることを意識した文章になっているのですか ら。

 いわゆる口語体は明治の言文一致運動からはじまったものですから、言と文が近いように錯覚されていますが、実際には話し言葉と書き言葉の完全な隔絶を生 み出しています。誰も、話すようには書かないし、書くようには話さない。そのために話し言葉が堕落し、書き言葉が堕落しているのが現状ではないかと思いま す。千鳥足のように迷走し、一読しただけでは意味が理解できない訳文が生まれるのは、この言文不一致のためでもあるはずです。朗読されることを前提にすれ ば、耳で聞いだだけでは分からないような複雑な文章にはならないだろうし、文章のリズムや美しさ、力強さといった点にもっと配慮するはずです。

 ちなみに、ミルの原文は音読され、朗読されるべきものとして書かれています。ミルのこの文章にかぎらず、英文で書かれた論文や小説はほとんどそうです。 話すように書かれています。ミルが家族や友人と談笑しているときに、この文章のような話し方をしていたというわけではありません。ですが、親しい友人との 間でも、たとえば自由について議論する際には、『自由論』の一部を音読することも多かっただろうし、そうでなくても、まさにこの文章と同じ話し方をしてい たはずです。そういう意味で、英語では言と文が一致しています。水田洋訳は黙読用でしかありえない点で、原文に忠実な訳にはまったくなっていません。い や、水田洋訳だけでなく、現在のほとんどの翻訳はこの点で原文に忠実にはなっていないといえるでしょう。

飛躍の余地は大きい
 否定的な話ばかりしていると思われるかもしれませんが、そうではありません。現状のどこに問題があるのかをみていけば、どこに飛躍の余地があるのか分か ります。現状の翻訳が理想にはほど遠いものであることが分かれば、新人や若手の皆さんにとって、ベテランの壁を突き崩す余地がどこにあるかが分かります。

 20年ほど前には、翻訳の批評というとほとんどが誤訳の指摘でした。他人の翻訳の揚げ足取りで得意になるというのが一般的なパターンでした。ここ10年 ほど、誤訳の指摘がもてはやされることはめったになくなりましたが、その代わりに決まり文句のように求められるようになったのが、「読みやすく分かりやす い文章」でした。その結果が、現在の幼稚な文章なのです。どちらも、なんとも不毛な動きだったといえるはずです。

 今回取り上げたのは、翻訳の未来のために考えるべき基準のうちのいくつかです。論理性、明晰さ、力強さ、記憶に残る文章、音とリズム、格調の高さといっ た点は、誤訳の指摘の際にも、「読みやすく分かりやすい文章」を求める際にも、ほとんどといってもいいくらいに無視されてきましたが、今後の翻訳を考える うえでは重要なポイントになると思います。これらの点でいまの翻訳がいかに不十分かが意識されるようになれば、それだけ、飛躍の余地が大きくなるでしょ う。

翻訳者がやらずに誰がやる
 気づいた方もいるでしょうが、以上に述べてきた点は、じつは翻訳で使われている文体にかぎったことではありません。翻訳でなくても、いまの日本語に共通 してみられる点ばかりです。論理的な文章は翻訳調で書くべきだと考えている人が多いので、当然といえば当然ですが、論理性と明晰さが目立つ文章にお目にか かることはめったにありません。力強い文章もめったにありません。記憶に残る名文もめったにありません。リズムが心地よい文章もめったにありません。格調 の高い文章となると、これはもう、ないものねだりだというべきでしょう。

 これが日本語の現状だとするなら、そして、誰かが日本語を鍛えなおす作業の先頭に立つべきだとするなら、翻訳者ほどその役割に適した立場のものはいない のではないかと考えます。翻訳者は日常的に外国語に接していて、外国語の優れた部分を取り入れられる立場にあります。そして、何を書くのかではなく、どう 表現するのかだけに注意を集中できる立場にあります。日本語の歴史をみても、翻訳者が日本語を鍛えなおした例があります。だからこそ、翻訳がもっとうまく なりたいと考えるのです。翻訳はこんなものではない、もっともっとよくなるはずだと思うのです。

(2007年1月号)