翻訳についての断章

山岡洋一

翻訳 の理論のために

 
 翻訳とはどういう仕事だろうか。鳥にたとえるなら、不如帰〔ほととぎす〕か鶴だろうか。血を吐くようにして訳文を書いていく点では不如帰に似ているし、 原著者への思いから、自分の身を削るようにして訳文を書いていく点では鶴の恩返しに似ている。

 五里霧中、暗中模索ともいえる状態で翻訳の仕事を続けていると、道標かビーコンがほしくなる。名訳を探し、名訳者を探すのはそのためだが、もうひとつ、 しっかりした理論があればと願うようにもなる。翻訳という仕事の本質、目指すべき方向を解きあかし、翻訳にまつわるさまざまな俗説と誤解を批判する、そう いう理論があればと願う。だが、翻訳という分野には、まともな批評すらないのだから、まともな理論はないようにも思える。

 もちろん、翻訳論と銘打ったものは少しはある。世の中には学界という不思議な世界があって、論文を書かなければ生き残れない仕組みになっているようだ。 だから学界の人たち、学界に入りたい人たちは必死になって論文を書く。論文を書くとき、翻訳という分野はいわば穴場になっているようだ。これまであまり研 究されてこなかったため、気楽に取り組めるテーマがいくらでも見つかる。だが、そうやって書かれた論文は、翻訳者が道標にしうるようなものではない。

 いや、いくつかは定評のある翻訳論もあるといわれるかもしれない。たしかに、ナイダやムーナン、ベヌーティといった人たちの著書があるし、ドライデンや ベンヤミンらのエッセーにも面白いものがある(興味のある方は、たとえばThe Translation Studies Reader, edited by Lawrence Venuti, Routledgeを参照)。

 だが、正直にいうなら、欧米の翻訳論はたいてい、道標にもビーコンにもならないように思える。欧米の翻訳論を下敷きにした日本の翻訳論はたいてい退屈 だ。なぜなのか。

 なぜなのかが分かれば、自分で翻訳論を組み立てられる。翻訳で苦労することも、たぶんなくなる。分からないから苦労している。だが、いくつかの点は指摘 できるように思う。

 既存の翻訳論はたいてい、文学か言語という観点から書かれている。それはそれでいいのだが、社会、歴史という観点が抜け落ちていることが多い。ところが 翻訳は、いつでもどこでも社会的な現象である。社会という要素を捨象したとき、翻訳の本質はみえにくくなる。

 翻訳というものの出発点は、2つの共同体、言語を共通項とする共同体の接触である。たとえば、英語を共通項とする共同体と日本語を共通項とする共同体が 出会う。そのとき、2つの共同体がどのような関係を結ぶかによって、翻訳が発生する場合もあるし、発生しない場合もある。

 2つの共同体が出会っても、どちらも相手から学びたいもの、取り入れたいものがとくにないと感じた場合には、通常、翻訳は発生しない。翻訳が発生するの は、通常、相手から何かを学びたい、何かを取り入れたいと強く望む場合である。言語の違う共同体から何かを学ぼうとするとき、その方法は大きく分けて2つ ある。第1が相手の言語を学ぶ方法である。外国語を学び、外国語で学びたいものを学ぶ。これはごく自然な方法であり、この方法をとった場合には、翻訳は成 立しない。翻訳が行われるのは、それほど自然ではない第2の方法がとられたときだ。第2の方法は相手の共同体の言語で書かれたものを、自分の共同体の言語 に翻訳して学ぶものである。

 個人が外国の個人から学ぶのであれば、翻訳は不必要だ。翻訳を行うのは、学んだ内容を同じ言語を使う共同体に伝えるときである。だから、翻訳は、いつで もどこでも社会的な現象なのだ。何をどのように翻訳するのかは、2つの共同体の関係によって変わる。そして、翻訳は2つの共同体の関係に影響を与える。

 以上はきわめて大雑把だが、翻訳の社会性を考えるヒントになるのではないかと思う。この社会性をはっきりと意識した場合、みえてくるものがたくさんある と思う。たとえば、ヨーロッパの以前の翻訳論では「翻訳不可能性」が大きなテーマになっていた。このテーマで対象になっていたのは、古代ギリシャ語やラテ ン語で書かれた韻文であることが多い。「翻訳不可能論」という主張は、古典語を学び、古典語で学ぶべきだとする主張だと考えれば、理解しやすくなる。学ぶ べきものは何でも翻訳して学ぶのが常識になっていれば、「翻訳不可能論」という主張はあらわれにくい。翻訳が不可能なら、学ぶことができなくなる。いかに 難しくても、学ぼうとするはずである。

 この社会性を捨象したとき、翻訳論がいかにつまらなくなるかを示すのが、ナイダの一連の著作ではないかと思う。四半世紀ほど前には、翻訳論といえば、 ユージン・ナイダのdynamic equivalentの概念が真っ先にあげられることになっていた。いまではあまり話題にならなくなっているが、それには理由があるのだと思う。

 ナイダは聖書翻訳の大家であり、聖書を翻訳するなかで翻訳論を考えてきた。そして、ナイダがとくに関心をもっているのはおそらく、ヘブライ語で書かれた 旧約聖書、古代ギリシャ語で書かれた新約聖書を自分の母語である英語に翻訳することではない。後進国での布教のための翻訳、たとえば、英語からアマゾンに 住む原住民の言語への翻訳なのだろう。翻訳は、他の言語共同体から何かを学びたい、何かを取り入れたいと強く望むときに発生するのが普通だが、ナイダが関 心をもつ翻訳は、他の共同体にキリスト教を教えたいという望みから発生している点で、かなり特殊なものだといえるはずである。ナイダの翻訳論は、そういう 特殊な翻訳を基礎にしているようなのだ。

 ナイダは自分が対象としている翻訳が、社会的な要因を考慮したとき、いかに特殊なのかを考えてもいなかったのだろう。だから、ごく特殊な翻訳で得られた 考えを、翻訳の一般的な理論として提示している。教えるための翻訳でぶつかる問題は、学ぶための翻訳でぶつかる問題とは大きく違う。学ぶための翻訳で苦労 しているものにとって、ナイダの理論は心に響くものがないように感じるはずである。だから、一時の流行に終わって、いまではほとんど話題にならなくなって いるのではないかと思う。

 最近、よく話題になるのはベヌーティのdomesticationとforeignizationだが、これもある意味ではナイダに似ているといえる。 ベヌーティはアメリカの読者向けにイタリア語の小説を英語に翻訳する仕事を基礎にしている。通常、この種の翻訳では、イタリア語で書かれたイタリアの小説 であることを意識させらるような翻訳は好まれない。当初から英語で書かれた小説であるのように翻訳するよう求められる。この翻訳スタイルをベヌーティは domesticationと呼び、批判している。

 社会的な要因という観点で考えれば、アメリカの読者がイタリア語を共通項とする共同体から学ぼうとしないことをベヌーティは批判していると考えられる。 ベヌーティ自身は、イタリア語で書かれた小説に憧れ、そこから学べる点がたくさんあると感じている。ところがアメリカの読者は面白い小説が読めればいいと 考えている。そこに問題があるのだろう。外国から学ぼうとしない読者を相手に苦労しているという点で、ナイダに似ているともいえるのである。

 このように、定評あるとされている翻訳論もたいていは、翻訳が社会的な現象であること無視しているために魅力が欠けているように思える。ポストコロニア ル翻訳論なら社会的な要因を真っ正面から取り上げているという意見もあるかもしれない。だが、知っているかぎりでは、ポストコロニアル翻訳論は欧米先進国 の学界向けに書かれているという点で、どうも馴染めない。

 では、どういう翻訳論なら読もうと思うのだろうか。ひとつには、文学からそれ以外の分野に視野を広げてほしいと思う。現実に翻訳されている量を考えれ ば、小説などのフィクションの分野はたぶん、10%にも満たない。はるかに重要なのが、論理を扱う分野だ。自然科学や技術、社会科学などの分野は翻訳量が はるかに多い。それに、他の共同体から学ぼうとする姿勢がはっきりしていることも多い。これらの分野の翻訳も視野に入れて翻訳論を組み立てていくのであれ ば、社会的な要因、歴史的な要因を考える機会も多くなるように思える。それに、言語を共通項とする共同体が他の共同体に出会い、学ぼうとするとき、主戦場 になるのは、文学ではなく、論理の世界のはずである。

2007年8月号