翻訳とは
 山岡洋一

翻訳 者の責任


  最近、翻訳者の集まりに出席する機会があった。翻訳者の地位向上がテーマだというので、どのような話になるか、興味津々だった。だが、正直 に言って失望した。こんな話をしているようでは、翻訳者の地位が高まるはずがないとすら思えたほどだ。

 例をあげよう。社内翻訳者の苦労が話題になった。社内体制が整っていないので苦労ばかりだという意見が強かった。たとえばある男性は、外資系企業に勤め ていて、本社で書かれる顧客向けの文書を訳しているが、社内の専門家によるチェックもなく、そのまま顧客に配付していると憤慨していた。別の翻訳者が、自 分の会社では翻訳者が英訳したものにネイティブ・チェックをかけてくれないと嘆いていた。話のタネはつきず、同様の問題や苦労が何人もの出席者から指摘さ れていった。翻訳に理解のある上司がいないから苦労をするのだということのようだった。

 その集まりに出席したのははじめてだったので黙って聞き役にまわっていたが、正直に言って信じられない思いだった。みな、かなりのベテランのようだし、 社会人としての経歴が長い人ばかりのようだった。それなのに、失礼ながら、社会人としての基本が分かっていないのではないかと思えたのだ。翻訳者として雇 われるか、翻訳を担当するポストを任された以上、翻訳して作成する文書について最終責任を負うのが当然ではないのか。たとえば社内の専門家に聞く必要があ れば、質問して問題を解消する責任を負うのは自分であって上司ではない。そんなことは社内のどの部署にいても常識だ。翻訳担当の部門だけが例外だとする理 由はあるはずもない。

 だが、この日に集まった人たちは、少なくとも社内体制の不備について憤慨していた人たちは、そうは考えていないようだった。自分たちの責任は訳すことだ けであり、それをちゃんとした文書に仕上げるのは誰か他人の責任だと考えているようであった。訳しているのはかなり専門的な文書なので、翻訳者である自分 たちに理解できるはずがない。自分たちの役割は外国語の文書を日本語にし、日本語の文書を外国語にするこころまでであって、それ以上の責任はとりようがな いと考えているようであった。

 このような考え方は翻訳者の間にきわめて根強い。その証拠はあちこちに転がっている。いくつか例をあげてみよう。

 ある出版社でこういう話を聞いた。ベテランの翻訳者からの持ち込み企画で、きわめて分厚い本を訳すことになった。量が量なので、とても印税ではできな い。翻訳期間中の生活を保証してほしい。何人もの下訳者を使うので、その支払いもお願いしたい。そういう条件だったが、きわめて魅力的な企画だったので要 求をのむことにした。2年か3年して原稿が完成したが、翻訳の質があまりに低いので仰天した。翻訳者に修正を要求したところ、翻訳は終わっており、あとは 編集者の役割だと突っぱねられたという。編集者が泣く泣く修正しているころ、翻訳者は翻訳の蘊蓄を傾ける本を執筆していたのだそうだ。

 別の出版社から、翻訳チェックを依頼されたことがある。アメリカの著名人が書いた軽いエッセーなのだが、半分ほどが政治と経済をテーマにしていて、翻訳 者の不得意な分野なので、チェックしてほしいという。著者に魅力があったので引き受けるつもりだったが、届いた翻訳原稿をみて仰天した。あちこちに英文の ままのところがあって、「意味不明」などと書かれている。それも少し調べれば分からないはずがない表現が「意味不明」とされていたのだ。冗談ではない、こ んな原稿は突き返すべきだと担当編集者に言い、チェックはお断りすることにした。後で聞いた話では、偉い先生なので突き返すわけにもいかず、出版時期が 迫っていたので、編集者が手を入れて、何とか形にして出版したのだという。

 この手の話は山ほどある。こういう問題にぶつかるたびに、翻訳された文書を読まされる読者は気の毒だと感じる。翻訳者の地位向上は容易ではないとも感じ る。翻訳とは完成された文書を作ることではなく、編集者なり専門家なり、だれかが手を入れてはじめて製品になる半製品を作ることだと考えている翻訳者が多 いのだ。もちろん、そうとしか考えられない翻訳者の限界をよく知っていて、半製品を仕上げて製品にする責任を負ってくれる人がいる場合もある。だが、たい ていは半製品でしかないものが、世の中にでていく結果になる。それを読み解くのは読者の責任ですといわんばかりに。

 翻訳者の一部(といってもかなり大きな部分)のこうした考え方について、2つの点を指摘しておきたい。第1に、翻訳者はそもそも翻訳によって作られる文 書に対して全責任を負う立場にある。翻訳の歴史をみていけば、これが当然だということがわかる。訳文に対して全責任を負わないのは、いわば堕落した考え方 であり、歪んだ考え方である。第2に、全責任を負うからこそ、翻訳は面白いし、意味のある仕事になる。全責任を負わないのでは、翻訳は機械的な作業にな り、社会的な意味があまりない仕事になる。

翻訳者の責任
 世間で翻訳が話題になるとき、たいていは悪口であり嘆きである。誤訳の指摘や、不適切な翻訳の指摘が大部分なのではないだろうか。これほど悪口や嘆きが 多いのは、翻訳者が責任を果してこなかったからなのだろうか。そうではないと思う。翻訳者は日本の長い歴史のなかで、基本的にはその責任を果たしてきたと 考える。翻訳の歴史を考えれば、それ以外の結論になるはずがない。

 なぜそう考えるのか。過去2000年近く、当初は主に中国語から、最近では主に欧米語から、日本の翻訳者は大量の文書を翻訳してきた。大量の業績を細か く検討した結果なのか。そうではない。世界の翻訳者はともかく、日本の翻訳者が基本的に責任を果してきたことは、目の前にある現実からすぐに読み取れる。

 そもそも翻訳とは、外国の進んだ考え方や技術などを母語で取り入れるために行われるものだ。だから、外国の進んだ考え方や技術などが母語で取り入れられ てきたかどうかをみれば、翻訳者が基本的に責任を果してきたかどうかを判断できる。いまの日本で、これはすべて日本で作られたものだといえる考え方や技術 などがどれだけあるかを考えてみればいい。たぶん、ほとんどないというのが正解のはずだ。いまの考え方や技術などはほぼすべて、何らかの形で外国の優れた 考え方や技術などを取り入れた結果なのだ。そして、取り入れる際には、文字通りか事実上かは別にして、ほぼかならず翻訳者が介在している。外国の進んだ考 え方や技術などを学んで、学んだ結果を母語で伝えた人が事実上の翻訳者、外国の進んだ考え方や技術などが書かれた本や文書を訳した人が文字通りの翻訳者 だ。この2種類の翻訳者の活躍があったから、いまの日本があるといっても過言ではないはずだ。

 たとえば、翻訳者が基本的に責任を果していなければ、電気はつかないし、電車や自動車は動かないし、建物は崩れ落ちるし、溶鉱炉や石油化学プラントは爆 発するし、芸術も芸能も育たないし、法律は機能しないし、政治や経済、社会の組織は動かないはずだ。もちろん細かくみていけば、技術にも産業にも芸術や芸 能にも政治にも経済にもさまざまな問題がある。だが基本的には、外国の進んだ考え方や技術などをうまく取り入れてきたといえるはずだ。目の前にある現実を みれば、そう結論づけることができるはずである。

 そして過去の事実をみていけば、外国の進んだ考え方や技術を取り入れる仕事が、ときには文字通り命をかけた仕事か、少なくとも一生をかけて悔いのない仕 事であることがわかる。たとえば翻訳に頼って近代的な軍隊を作り上げた人たちは、文字通り命をかけていた。翻訳が間違っていれば、戦いに負け、自分が命を 落とすのはもちろん、日本という国が滅び、日本民族すら滅びることになりかねなかった。また、日本に石油精製、石油化学などの技術を導入した人たちは、日 本人が(つまり欧米人でない人間が)プラントなんぞを作り操業すれば、爆発して命はないと脅されながら、必死になって技術を学んだ。数学や哲学、法律や経 済・経営、建築や土木など、どの分野でも、文字通りか事実上の翻訳者が外国の進んだ考え方や技術を取り入れることに命をかけ、一生をかけてきた。そして命 をかけ、一生をかけるとき、翻訳について全責任を負うのは考えるまでもないほど当たり前のことであり、自分たちの責任は訳すことだけだなどとは誰も考えな かった。

 外国の進んだ考え方や技術などを母語で取り入れるという本来の目的で翻訳が行われているかぎり、翻訳者が全責任を負うのは当然である。翻訳者の役割は外 国語の文章を母語に訳すことだけだなどとは誰も考えない。翻訳者は語学だけの専門家だなどとは誰も考えない。どんな分野の文章を訳すにしても、自分にとっ てはまったく専門外の分野の文章を訳すにしても、翻訳を引き受けたからには、その分野の専門家並みに、いや専門家以上に内容を理解し、理解した内容を母語 で伝えることに全責任を負う。これが当然である。これが翻訳の本来の姿である。

 だが、翻訳の成果が積み重なってくると、外国の進んだ考え方や技術などを十分に吸収できているという安心感が生まれる。そうなると、外国の進んだ考え方 や技術などを取り入れることに、それほど切迫感や使命感が感じられなくなる。そうなったときに生まれてきたのが、翻訳は語学の仕事だという考え方だ。翻訳 者は外国語で書かれたものを母語にするか、母語で書かれたものを外国語にするだけであって、内容には責任を負わず、文章にも責任を負わないという腑抜けな 考え方だ。内容を伝えるという肝心要の役割を忘れた考え方だ。

 専門化が進んでいくのが世の中のつねだから、外国の進んだ考え方や技術などを取り入れる際にも、語学の部分と内容の理解の部分とに専門が分化していくの は当然だという見方もあるだろう。だが、こう考えていては、語学の部分すら満足な力をもてなくなる。

 先人は外国の進んだ考え方や技術などを取り入れるために、命をかけて、あるいは一生をかけて学んだ。学ぶ手段のひとつが外国語だった。外国語で学び、そ の内容を母語で伝えるにはどうすべきかを考えた。その過程で、外国語についても、その背景にある物の見方や考え方についても、さらには学んだ内容を日本語 で表現する方法についても、徹底して考えた。訳語を考え、何万、何十万もの訳語を作ってきた。

 いまでは、誰でも先人が考えた結果を、結果だけを気軽に使えるようになっている。外国語の文法に関する研究が進んでいるし、たいていの語に訳語がつけら れているので、外国語で書かれた文章の意味を徹底して考えなくても、訳文らしきものを作ることはできる。意味が理解できていなくても、訳文なら作れる。た いていの人が「翻訳」という言葉で考えているのは、そのようにして作られた訳文のことなのだ。

 翻訳者が訳した文章を専門家のチェックも経ないでそのままだされてはかなわないと悲鳴をあげ、上司の無理解を嘆くのは、翻訳をそのようなものだと考えて いるからだ。意味は分かりません、外国語を母語に直しただけですという。意味が伝わるようにするのは、翻訳者の役割ではありませんという。翻訳者は語学だ けを専門にしているからという。

 冗談はやめてほしい。そのように主張する人たちはまず間違いなく、外国語の文章が読めていないのだ。読めていれば内容が理解できているはず。内容が理解 できていないのなら、読めているとはいわない。そして、外国語の文章が読めていて、内容が理解できていれば、専門家によるチェックなどなくても、読者に意 味が伝わる訳文が書けるはずだ。書けないというのなら、意味が分かっておらず、外国語が読めていない。専門のはずの外国語の力が弱いのだ。それ以外の答え はあろうはずがない。

翻訳の醍醐味
 翻訳は面白い。翻訳の過程でそれまで知らなかった知識や情報、考え方や物の見方を知ることができる。外国語と母語の違いを深く考えるようになり、言葉と いうものの面白さに気づかされる。翻訳とは基本的には母語で文章を書く仕事だから、訳語をあれやこれや考えていく過程で、日本語の豊かさ、面白さ、美しさ にも気づかされる。そしてもちろん、外国の進んだ考え方や技術を日本の読者に紹介する一助になれる。だから翻訳は面白い。これほど面白く、これほど社会的 意義のある仕事はそうそうあるものではない。

 だが、翻訳の醍醐味を味わえるのは、内容を理解し、それを母語で伝えることに全責任を負うときだけである。全責任を負わないのであれば、負えないのであ れば、翻訳ほどつまらない仕事はないといえるかもしれない。何も作らない。何も達成できない。完成品は作れない。中途半端な半製品を作って、肝心な点は他 人にお任せであれば、何の面白みもない。達成感もない。それでも収入が抜群に良ければ我慢するが、翻訳者の収入は嘆きの対象になっても、自慢の対象にはな るはずがない。

 どうも、このあたりの事情が分からない人が多いようで、いつも不思議に思っている。たとえば、自分でものを書くなんてとんでもないことだが、翻訳なら何 とかできそうだという。そう考える理由は多種多様なので、なかにはそう考えるからこそ、翻訳に適していると思える人もいる。だがたいていは違う。翻訳とい う仕事について勘違いしているのだ。自分でものを書いた場合、質が低くても自分ひとりが恥をかくだけだ。他人にはそれほど迷惑をかけない。だが、翻訳の質 が低ければ、自分が恥をかくだけではない。原著者に迷惑をかけるし、原著者に熱心な読者がいれば、その人たちも失望する。だから、翻訳は自分でものを書く より責任が重い。だから翻訳は面白い。だから、翻訳はやり甲斐があるのだ。

(2003年10月号)