翻訳論のために
山岡洋一

翻訳 論の出発点

  欧米では近年、翻訳論とでも呼ぶべき分野の研究が盛んになってきたという。自分の仕事に関する理論なのだから、もちろん興味があり、主要な 論文をいくつか読んでみた。だが、翻訳論がはたして役に立つものなのかどうか、疑問だと感じた。もちろん翻訳論を研究すれば、大学に職を得る手掛かりにな るという人もいるのだろう。そういう意味では実利に直結しているのだろうが。

 翻訳論はたいてい、既存の理論の応用分野か特殊分野という形をとっているようだ。言語学の応用研究であったり、文学論や文化論の特殊分野であったりす る。哲学や思想の応用研究という場合もあり、ポスト・モダンやポスト・コロニアリズムなど、最新流行の思想を下敷きに翻訳を研究する人もいるようだ。翻訳 論にはこのように多彩な立場からの研究があるのに、翻訳そのものを真正面から論じる人は少ないのではないかという奇妙な印象を受ける。翻訳を理論的にとら えようとするとき、対象を具体的に確定するのは難しく、出発点を確定するのは一層難しいのかもしれない。

 どのような理論でもそうだが、実務に取り組むものの感覚というのはまず当てにならない。理論というからには実務から何歩か離れて、幅広い視野から全体像 をとらえなければならない。いつも目先の仕事に追われているものに、そのような視野がもてるはずがない。200年以上前、経済学の源流といわれる『国富 論』が刊行されたとき、商売をしたことがない著者に経済のことが分かるはずがないと非難した人がいたという。アダム・スミスは公益という観点から商工業者 の貪欲と独占欲に悪口雑言を浴びせたのだから、これぐらいの厭味をいわれることは想定の範囲内だったかもしれない。その後、アダム・スミスが商売をしたこ とがないからこそ、経済の動きを明らかにできたのだとみられるようになり、『国富論』は経済学の古典中の古典とされるようになった。この例からも明らかな ように、実務に取り組んでいるものの感覚というのはたいてい当てにならない。だが、その点を承知のうえで、実務の感覚から翻訳論を探ってみたいと考えてい る。

 翻訳論の出発点になりうるもののひとつに、たとえば資料1のような訳文がある。フランス語で書かれた原文の日本語訳と英語訳を比較したものである。

資料1 フランス語原著の日本語訳と英語訳

 ところで, 言語(langue)とはなんであるか? われわれにしたがえば, それは言語活動(langage)とは別物である; それはこれの一定部分にすぎない, ただし本質的ではあるが. それは言語能力の社会的所産であり, 同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体である. 言語活動は, ぜんたいとして見れば, 多様であり混質的である; いくつもの領域にまたがり, 同時に物理的, 生理的, かつ心的であり, なおまた個人的領域にも社会的領域にもぞくする; それは人間的事象のどの部分にも収めることができない, その単位を引きだすすべを知らぬからである. (フェルディナン・ド・ソシュール著小林英夫訳『一般言語学講義』岩波書店、1972年、21ページ)
  But what is language [langue]?  It is not to be confused with human speech [langage], of which it is only a definite part, though certainly an essential one.  It is both a social product of the faculty of speech and a collection of necessary conventions that have been adopted by a social body to permit individuals to exercise that faculty.  Taken as a whole, speech is many-sided and heterogeneous; straddling several areas simultaneously--physical, physiological, and psychological--it belongs both to the individual and to society; we cannot put it into any category of human facts, for we cannot discover its unity. (Ferdinand de Saussure, Course in General Linguistics, trans. Wade Baskin, McGraw-Hill Paperback Edition, 1966, p. 9)

 このあいまいは, 当面の三個の概念を, あい対立しながらあい呼応する名前をもって示したならば, 消え失せるであろう. われわれは, 記号という語を, ぜんたいを示すために保存し, 概念(concept)と聴覚映像(image acoustique)をそれぞれ所記(signifié)と能記(signifiant)にかえることを, 提唱する; このあとの二つの術語は, 両者間の対立をしるすにも, それらが部分をなす全体との対立をしるすにも, 有利である. 記号は, それで満足するとすれば, それにかわるものを知らぬからである; 日用語には満足なものが見当たらないのだ. (同上97ページ)
  Ambiguity would disappear if the three notions involved here were designated by three names, each suggesting and opposing the others.  I propose to retain the word sign [signe] to designate the whole and to replace concept and sound-image respectively by signified [signifié] and signifier [signifiant]; the last two terms have the advantage of indicating the opposition that separates them from each other and from the whole of which they are parts.  As regards sign, if I am satisfied with it, this is simply because I do not know of any word to replace it, the ordinary language suggesting no other.  (Ibid., p. 67)


 この翻訳を読むと、たいていの人は日本語訳より英語訳の方が分かりやすいという印象をもつのではないだろうか。同じ原文を翻訳した文章を読んだとき、母 語である日本語に訳されたものより、外国語である英語に訳されたものの方が内容を理解しやすいと感じる。これはとんでもなく意外なことのはずだ。仰天する しかない現象である。なぜこのようなことが起こるのか、じっくり考えてみる価値があるはずだ。

 だが実際には、この事実に驚く人はそう多くないかもしれない。意外だとも問題だとも思わない人が少なくないはずだ。そうした人たちの見方はおそらく2つ に分かれている。第1が諦めと無関心である。この種の翻訳は所詮こういうもので、読んでも理解できるはずがないと考えている。だから、読もうとは思わな い。関心がないのだから、英語で読めば内容を理解しやすいという話を聞いても、とくに驚くはずがない。このような反応を示す人がおそらく大多数を占めてい るとみられる。第2が満足である。このような翻訳で満足している人も少数いる。アダム・スミスが『国富論』第4編第9章で指摘していることだが、人は誰し も他人が理解していないことを自分だけは理解していると思いたがるものだ。このため、たいていの人が理解できないはずの翻訳だからこそ、喜んで読む人がい るのだ。この見方については後に触れることにして、まずは第1の諦めと無関心について考えていこう。

 この種の翻訳は読んでも意味を理解できるはずがないとたいていの人が考えている。この種の翻訳というのは、言語学などの学問分野の翻訳という意味でもあ るが、それ以上にいわゆる翻訳調の翻訳という意味だ。資料1を読むだけでもこの見方は正しいといえるはずだが、翻訳者の実感からもこの見方の正しさが裏づ けられると思う。翻訳者はたいてい締め切りに追われているので、原文の意味をしっかりと理解したうえで訳文が書けるとはかぎらない。原文を理解するために 時間を使う余裕すらない場合や、原文をいくら読んでも意味が理解できず、資料を調べても、インターネットで検索しても理解できない場合にどうするか。最後 の手段として頼るのが直訳と呼ばれる方法である。英和辞典に書かれている代表的な訳語を使い、学校英語の英文法と英文和訳で教えられる公式通りに訳すのが 直訳だ。この方法は漢文読み下しの方法を応用して、意味が分からなくてもそれらしい訳文を書けるように作られているので、こういう場合に便利なのだ。もち ろん、いわゆるかたい文章、こなれていない文章、翻訳調の文章になる。それでも読者は理解できるのかもしれないし、少なくとも原文に何が書いてあったのか を伝えることができると期待する。それに、原文通りに訳したのだから、誰にも文句をいわれることはないとも考える(実際には、原文の訳し方として学校英語 で教えられる通りに訳したにすぎないのだが)。

 要するに、資料1に示したようなスタイルの翻訳は通常、書き手である訳者が意味を理解できないままに書いたものだ。だから、読んでも理解できるはずがな いという感覚はまったく正しい。理解できると考えるほうがおかしい(ただし、理解がまったく不可能だというわけではない。訳文から原文を推測できれば、意 味が分かる可能性がある)。

 だが、以上は翻訳者の実感に基づく議論である。実務家の感覚というと少しは恰好良く聞こえるが、要は締め切りに追われて悲鳴を上げた体験を語っているに すぎない。並みの翻訳者の場合、意味を理解できない部分を訳さないわけにはいかないから、最後の手段として使うのが翻訳調なのだが、小林英夫が翻訳調で訳 したときに、同じように考えていたとは思えない。事情が違っていたはずだと考えるべきだろう。

 なぜかというと、ひとつには、小林英夫が言語学の第一人者であり、とくにソシュールの紹介と研究で知られる学者だからである。それに、引用箇所は『一般 言語学講義』でもとくに有名な部分だ。ソシュール言語学の入門書や解説書ではかならずといってもいいほど取り上げられる。そのうえ、引用は1972年版か らだが、小林英夫は1928年と1940年にも同じ本を翻訳している(ただし題名が違っていて、『言語學原論』だった)。これは3回目の訳なのだから、並 みの翻訳者が原文を理解していなかったときに苦し紛れに使うのと同じスタイルで訳しているからといっても、小林英夫が原文の意味を理解していなかったとは 考えられないはずである。

 もうひとつ、小林英夫は自分の翻訳について、並みの翻訳者とはまったく違った見方をとっていたといえる事実がある。資料2に、『一般言語学講義』の「訳 者のはしがき」と、『言語學原論〔改譯新版〕』の「譯者の序」から、いくつかの部分を引用した。

資料2 小林 英夫の見方

 ここでわたしの自らに課したしごとは, じぶんながらに理解しえたCoursの思想を, できるだけわが身にちかい現代語で再現することである; 本文の訳出にあたっては, うらには万端の用意を控えながら, つねに等量の移植をはかることである. 翻訳である以上, 過不足の出ることはつつしまねばならない.  (『一般言語学講義』「訳者のはしがき」viページ)

 もちろん原書の予想する読者層は, 必ずしも訳者の予想するわが国のそれとは一致しないであろう. 戦後わが国に言語学熱が急速に高まったとはいえ, まだまだCoursを受け入れるだけの予備知識には欠ける所が多いにちがいない. ことに国語学徒などは, ヨーロッパ語のいくつかを習得する余裕はないことであろう. またここ数年らい, 構造主義のブームにつれて, 哲学者, 文化人類学者, 民族学者, その他多方面の学徒から,  Cours理解の要求が熾烈になりつつある.
 そのような, いわば言語学のズブのしろうとの方がたにも, なんとかして本書を近づけて上げたい, というのが, このたびの訳者の悲願なのである.  (同上vi〜viiページ)

 翻訳にあたってわたしのもっとも重要視するのは, リズムを写すことである, よしんば対象が学術書であってもである. 文勢とはそのことをいう. 文勢を欠く文章は死んでいる. 語を生かして文を殺し, 文を生かして文章を殺す. そのような死んだ文章がひとを動かせる道理はない.  (同上xページ)

 そのようにして朱を加えられた原稿にもとづいて初校刷りをえたが, こんどはこれを国語学者亀井孝氏の閲に供した. わたしが氏から拝借しようとしたのは鋭敏な語感である. 国語・国文にたいする氏一流の潔癖は, わたしの訳文の, 想いもよらぬ所に盲点をあばいてみせた.  (同上xiページ)

 國語学者龜井孝氏には,別の役割を受け持つていただいた. 氏は專ら譯文の聞手となられた; 眼によりも耳に訴へて,朗々誦すべき文章に仕上げるといふのが私の主張の一つであつたから. 期せずして,私は振仮名癈止論を實踐することとなつた. 私は氏から國語に關する該愽な知識と纖細な感覺とを拜借したのである. (『言語學原論〔改譯新版〕』「譯者の序」9ページ)



 資料2の文章は、主張と文体の両面で仰天するしかないものではないだろうか。翻訳調はもともと、欧米の文献を訳すために、日本語のリズムや特徴をかなり の程度まで無視して作られた人工言語のようなものだ。だから、訳者は翻訳調が本来の日本語とは違ったものであることを自覚しているのが普通だ。この点を示 すように、典型的な翻訳調で訳された本でも、たとえば「訳者後書き」では、別の文体が使われているのが通常である。ところが、言語学の第一人者であり、言 語に人一倍敏感なはずの小林英夫は違っている。「訳者のはしがき」ですら翻訳調を使い、これが「わが身にちかい現代語」なのだと断言しているのである。念 のためにつけくわえるなら、この「訳者のはしがき」が書かれたのは1972年であって、それほど昔ではない。

 たとえば、「国語・国文にたいする氏一流の潔癖は, わたしの訳文の, 想いもよらぬ所に盲点をあばいてみせた」という文章が翻訳調だと思うのは、言語感覚が鈍いためなのだろうか。句点も読点も使わず、ピリオドとコンマを使 い、セミコロンすら使っているのをみて目をおおいたくなるのは、「国語に潔癖」でないためなのだろうか。「それは言語能力の社会的所産であり, 同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体である」という文章は眼にも耳にも訴えるはずがないと思うのは、眼も耳も悪いた めなのだろうか。「Coursの思想」のように、固有名詞をすべてアルファベットで表記している(ちなみにCoursは『一般言語学講義』の原著を意味す る)が、コンピューター雑誌などで欧米の固有名詞をアルファベットで表記しているのをみて腹立たしく感じるのは「言語学のズブのしろうと」だからなのだろ うか。小林英夫訳なぞ読むべきではなく、少々不自由でもフランス語の原著か、英訳を読むべきだと思うのは、「学徒」ですらないためなのだろうか。

『一般言語学講義』の訳文を読み、「訳者のはしがき」を読めば、言語学の碩学、小林英夫がどのような文体を理想としていたのかがよく分かる。翻訳調と呼ば れる文体こそが正しいと考えていたはずだ。翻訳調と呼ばれる文体こそが日本語の理想であり、格調の高い文体であり、「朗々誦すべき文章」であり、「生きた 文章」だと考えていたはずだ。「日本語らしい日本語」などと呼ばれる文体は、『一般言語学講義』で使われた言葉を借りるなら「俚語〔りご〕」、つまり田舎 の言語、卑しい言語、俗っぽく低級な言語、下品な言葉にすぎないと考えていたはずだ。そしてこのような見方を支えていたのは、「ヨーロッパ語」こそが高級 な言語だという感覚なのだろう。日本語のさまざまな文体のうち、「ヨーロッパ語」にもっとも近いものが高級であり、「ヨーロッパ語」から遠いほど低級な文 体である。そういう感覚がなければ、上に引用したような文章を書くはずがないと思う。

 小林英夫は言語に敏感であるべき言語学者なのに翻訳調の悪文で訳し、悪文を書いていると考えるのは間違っていると思う。言語学者であり、「鋭敏な語感」 をもっているからこそ、このような文体で訳し、書いているのである。

 小林英夫は凡庸な言語学者ではない。言語学の第一人者である。ソシュールの『一般言語学講義』は並みの本ではない。言語学の出発点とされる名著である。 言語学を学ぶものなら、誰でも読むはずの本だ。そして言語学は翻訳の理論を考えるうえで無視するわけにはいかない分野だ。だから、翻訳論を云々する以上、 必読の本である。その本が日本語訳では理解しにくく、英語訳を読んだ方が理解しやすい状況にあるのだ。しかも、この翻訳に使われた文体は格調が高く、「生 きた文章」だと主張されているのである。

 翻訳とは何なのかを考えるとき、絶好の出発点になりうるのではないだろうか。

 小林英夫のソシュール訳のような翻訳をどう考え、どう分析するかが翻訳論の出発点になりうると考える理由はもうひとつある。翻訳論を論じようとする人 に、このような翻訳を喜ぶ人が少なくないように思えることである。

 翻訳論の基礎とされることの多い言語学、哲学、思想の分野では、小林英夫の亜流のような翻訳が多い。こうした翻訳を喜んで読む人は前述のように、他人が 理解していないことを自分だけは理解していると思いたがる人である場合が多い。そして、翻訳の実務から何歩か離れて幅広い観点から理論を考えようとするの ではなく、翻訳の実務とは無縁なところに、理論のための理論を構築しようとする場合が多い。そうした人たちが翻訳論研究の中心になっていけば、おそらく、 翻訳の実務と翻訳の理論とはまったく接点がない状態になるだろう。

 翻訳の実務という観点からいえば、それでもとくに問題はないともいえる。翻訳論というものがあっても、自分たちにはまったく無縁だし、不要だという姿勢 をとることも可能だからだ。現に、大きな書店に行けば何冊かは並んでいる翻訳の理論や翻訳の技法などの本をまじめに読んでいる人は、翻訳者のなかではごく 少数にすぎないはずである。翻訳の理論も翻訳の技法も安心して無視できる。そんな本を読んでも翻訳の実務に役立つわけではないし、逆に邪魔になることが少 なくないからだ。

 もう10年以上前に翻訳出版のベテラン編集者から聞いた話が忘れられない。翻訳のノウハウ書を書いた翻訳者は何人かいるけど、みな、お世辞にも翻訳がう まいとはいえない、ノウハウをまとめたりすると、それに縛られて翻訳がぎこちなくなるのでしょうねというのだ。この話を聞いてから、翻訳のノウハウ書を読 もうとは思わなくなった。おそらく、翻訳の理論でも同じことがいえるだろう。

 だが、翻訳の実務にたずさわるものとして、明確にしておきたい点がある。

 小林英夫が苦心して作った用語は現在、ほとんど使われていない。「言語」は「ラング」、「言語活動」は「ランガージュ」、所記は「シニフィエ」、能記は 「シニフィアン」と呼ばれるのが普通になっている。これらの片仮名語を使った知ったかぶりが、翻訳の理論だとされることがある。こうした議論を好む人たち は、20世紀前半ならともかく、いまの時代の翻訳を理解するうえで不利な立場にあるはずである。いまの時代に優れた翻訳を行っている翻訳家には、こうした 記号遊びのむなしさを知っている人が多いからだ。

 小さな子供が遊んでいる様子をよく観察してみるといい。子供は言葉が大好きだ。意味が分からない言葉をつぎつぎに覚えていく。まず言葉(小林英夫のいう 能記)を覚え、つぎにその言葉の意味内容(小林英夫のいう所記)を覚える。お隣りのクロ、お向かいのミケなどの具体的で直接的な対象を知り、そこから抽象 的な概念を示す「猫」という記号を覚えるのではない。まず「猫」という記号を覚え、つぎにこの記号をお隣りのクロやお向かいのミケなどに結び付けていくの である。だから、動物園に行ったことがなくても、「ライオン」とか「象」とかの記号を知っている。

 少し大きな子供と話すと、大人がまったく知らない言葉を大量に知っているのに驚かされる。たとえば、ポケモンというと、大人が知っているのはピカチュウ ぐらいだが、子供は何十もの名前を知っている。そして、そうした言葉、意味内容がほとんどない記号をどれだけ知っているかで、子供の間の序列が決まるよう でもある。

 大人になるとは、抽象的な記号を覚えて喜ぶ愚をさとり、具体的で直接的な知識の面白さを知ることでもある。だが、大人になりきれない人たちもいる。そう いう人たちはいい年をして、シニフィエとかシニフィアンとかの記号で遊ぼうとする。そして、シニフィエがほとんどないシニフィアンをどれだけ知っているか で、人の序列が決まると思い込んでいる。

 翻訳は一歩誤れば外国語の記号を母語の記号に置き換えていくだけの作業だとされかねない性格をもっている。だから、記号遊びから抜けきれない人には理解 が難しいと思う。

翻訳通信2005年5月号