翻訳とは何か

翻訳は日本語だ

山岡洋一
 
中学のころ、豆タンクというあだ名の先生がいた。背が低くて太った先生だが、この先生がサッカーの審判をしていて、授業中にその話をしてくれた。審判は選手よりも走らなければならないので大変なんだという。走っているときにつまずいたらどうするのか。簡単だよ、ころっと一回転してそのまま走ればいいんだとこともなげいう。この話には正直、おどろいた。つまずいたら転んで、額や鼻の頭に擦り傷を作るほど鈍い子供だったからだ。

 めったに見ないテレビでワールド杯の試合をほんの少し見ていて、数十年前の驚きを思い出した。サッカーをやるには、つまずいたらころっと一回転してそのまま走る芸当ができなければいけないんだ、怪我をするようでは駄目なんだと。運動がまったく苦手は人間はこんなことも考える。

 だが、間違ってもそんなことを選手の前でいってはいけない。つまずいても怪我しないようにころっと一回転できるなんてすごいとか、そういう芸当ができないとワールド杯には出られないんですねとかいってはいけない。そんなことは当たり前なのだから。

 似たような話が翻訳にもある。翻訳をやっているというと、英語ができるんですか、すごいですねという話になることが少なくない。英語で書かれた本が読める、そんなことは当たり前である。読むだけなら、だれでも少し慣れれば読めるようになる。自慢にもならない(翻訳に必要な水準まで読めるようになるのはそう簡単ではないが)。だが、一般の常識は違う。常識ではこう考えられている。

 翻訳を考えるときのカギは外国語だ (たいていは英語だ) 。翻訳とは外国語で書かれた文章を訳すことだ (あるいは外国語に訳すことだ) 。翻訳の善し悪しは外国語をどこまで正確に訳せているかで決まる。翻訳という仕事は外国語を扱う仕事だ (語学の仕事だ) 。これらはすべて誤りである。翻訳を理解するためには、何よりもまず、この誤解から自由になっていなければならない。

 これらの考えがいかに間違っているのかは、翻訳書を読むときにどのようにして読んでいるかを考えてみればよく分かるはずだ。「原書」を横において読んでいるだろうか。辞書を引き引き読んでいるだろうか。そんなわけがない。読むのは訳書だけに決まっている。翻訳書だけを読む。そこに外国語が絡んでくる余地はない。日本語で読んでいるのだ。「原書講読」の授業のためなど、特別な事情がないかぎり、外国語は関係ない。

 もちろん、原著者は外国語で書いている。だが、原著者が書いた内容を日本語で読むのが翻訳書の読み方である。日本語だけで読むのが、翻訳書の通常の読み方である。日本語の質が低ければ、原著者が書いた内容を読み取れるはずがない。それ以前に、読み進める気持ちにすらなれないことも多いはずだ。この点を考えれば、翻訳でもっとも大切なのが日本語の質であることが分かる。

 この点を訳者の側からながめるなら、翻訳という仕事は何よりも、日本語での執筆だといえる。原著者が書いた内容を日本語で読者に伝える。これが翻訳という仕事の本質である。外国語の解釈は正確無比だと誇ったとしても、日本語の質が低ければ、原著者が書いた内容が読者に伝わるはずがない。それよりも何よりも、読者が読んでくれるとは思えない。

 それでも、と反論したくなるだろうか。外国語で書かれた原文が正確に訳されていなければ翻訳書を読む意味がないではないかと。たしかに訳者にとって、外国語で書かれた原文をしっかり理解することは、翻訳の質を高めるために必要不可欠な手段である。だが、訳者が原著の内容を伝えるときに使う直接の手段は日本語であって、外国語ではない。直接の手段が日本語、間接の手段のうちのひとつが外国語なのだ。

 だから、翻訳でもっとも大切なのは日本語の質である。翻訳の質を見分けるには、何よりもまず日本語の質に注目するべきだ。日本語の質が高ければ、すぐれた翻訳である可能性が高く、日本語の質が低ければ、質の低い翻訳だと考えて間違いはない。翻訳を考えるときのカギは日本語であり、外国語ではない。翻訳は何よりも日本語の仕事であり、外国語の仕事ではない。

 だが、日本語の訳文だけで翻訳の質を判断するのは危険ではないだろうか。なめらかで、自然で、流れが良く、美しく、明晰な訳文だが、じつは原著の内容とかけ離れているという可能性はないのだろうか。たしかに可能性がないわけではない。

 だが、読者の立場で翻訳の善し悪しを考える際には、この可能性は無視してもいいといえる。なぜか。その理由は大きくわけて2つある。第1に、原著と比較しなければ翻訳の質がほんとうには判断できないのが事実だとしても、翻訳書を読もうとするときに原著を同時に買って翻訳の質を判断してから読むのは馬鹿げている。買うのは原著か訳書か、どちらか一方だけに決まっている。だから読者の立場からは、訳文の質だけで判断するのが正解である。訳文の日本語の質が低いと判断すれば、訳書を買わないし、読まない。これが正しい態度だといえる。年間に6万点の新刊書がでてくる今の時代には、類書がない本などほとんどないので、訳文の日本語の質が低い翻訳書を読まなければならないとする理由はまずない。学術的な目的で読まなければならない場合はあるだろうが、その場合には訳書を読むのがそもそも間違いである。原著を読むべきだ。原著が英語で書かれている場合にはとくにそういえる。

 第2に、よく知られているように、訳文の日本語の質が低いとき、ほとんどの場合、訳者は外国語で書かれた原文をよく理解できていない。訳文を読むだけで、誤訳をかなりの程度まで指摘できる。そして、逆もなりたつ。訳文の日本語の質が高ければ、ほとんどの場合、訳者は外国語で書かれた原文をしっかり理解している。なぜなのか。おそらく、言語能力はひとつだからなのだろう。日本語を書く能力が高い人は、外国語を理解する能力も高い。日本語を書く能力が低い人は、外国語を理解する能力も低い。このため、もちろん例外がないわけではないが、原文と比較せずに日本語の訳文だけで翻訳の質を判断しても、たいていは間違いにはならない。

 最後に、翻訳を考えるときのカギは外国語だとする考えが間違いだと主張する以上、この考えが常識になったのはなぜなのかを考えておくべきだろう。この考えが常識になったのは、外国語がごく一部のエリートだけのものであったからだと思える。外国語を学ぶのはごく一部のエリートだけであり、まして外国語を使いこなせるようになるのは、そのなかでもとくに優秀な人だけだと考えられていた。幕末から昭和の半ばまでの時期、日本は後進国という立場を自覚して、欧米先進国からすぐれた知識を学ぶことに懸命になってきた。欧米の進んだ知識を学ぶ役割を担ったのが一部のエリートであり、そのための道具が外国語だった。そして学ぶ手段のひとつが翻訳であった。このような時代背景があって、外国語力が不釣り合いなほど重視されてきたのだと思える。

 後進国社会であった当時の日本で、外国語力が貴重だと考えられたのは、もちろん庶民には聞いてもわからない言葉を理解できるからではあるが、それだけではない。日本国内にすら、南は沖縄から北は青森、北海道まで、聞いてもわからない方言がたくさんある。近隣諸国には聞いても分からない言語がさらにたくさんある。外国語力という場合、当時の言葉を使うなら「語学力」という場合、国内の方言や、近隣諸国の言語は対象にはなっていない。対象はあくまでも欧米の言語だ。欧米の言語の場合、母語とは違うというだけではない意味があった。言語が違うだけでなく、書かれている内容、話されている内容が進んでおり、洗練されており、後進国の人間にはとても理解できないものだと思われていたのである。だから、外国語力が不釣り合いなほど重視された。母語ではない言葉でも、慣れればすぐに話せるようになり、読めるようになる。どうやら人間にはそういう能力が備わっている。周囲を見回してみれば、そう考えるのが正しいと思わせる事実がいくらでもあるのに、「語学」という言葉で欧米語の能力が神秘化されていた。

 要するに、翻訳を考えるときのカギは外国語だとする考えは後進国型の考えなのだ。今の日本社会にはふさわしくないと思える。いや、日本は後進国に後戻りしており、日本人の感覚はふたたび後進国型になったというのだろうか。そうかもしれないが、それはまた別の問題である。

第2期第1号より

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