翻訳についての断章
山岡洋一

翻訳に求められるもの

 
 もうかなり前になるが、商社マンからアラブ圏に駐在していたときの苦労話を聞いたことがある。当時はアラビア語が堪能な日本人はほとんどおらず、仕事に 使う言語は英語だった。重要な発表がアラビア語の新聞だけに突然掲載されることが少なくないので、大変だという話だった。たとえば、大規模な入札予定の発 表に気付かないと商談に乗り遅れるし、ビザに関する規則が突然変わったのに気付かないと、不法滞在者として豚箱に放り込まれかねない。英字新聞もあるが、 ほとんどあてにならないので、翻訳者を雇って、重要な記事を翻訳してもらったという。翻訳者はアラブ圏の人で、お世辞にもうまいとはいえない英語に訳して くれる。それを読めば、何が書かれているか見当がつくので、もっと詳しい情報が必要かどうかぐらいは分かる。あの国で、翻訳者が雇えただけでも好運なの で、それ以上を望むのは無理だという。かなり前の話なので、いまでは事情が様変わりしているかもしれないが、当時はそんな状況だったようだ。

 何とも極端な例だと思われるかもしれないが、翻訳に何が求められているのかを考えるとき、たぶん、これが原点なのだろう。まったく理解できない言語で書 かれた文書の内容を知りたいというとき、日本語に訳してくれなくても、英語など、理解できる言語に訳してくれれば、役に立つ。翻訳の質を問うことはない。 まったく分からないより、少しは分かる方がいいに決まっているからだ。

 日本は幕末のころから翻訳文化が発達していたので、ここまで極端な例はないと思えるかもしれない。しかし、1980年ごろに産業翻訳の世界をかいまみる ようになったとき、質よりも価格で勝負する部分に関係していたためでもあるが、正直なところ、これに似ていなくもない状況だった。

 いまから考えれば、何とも牧歌的な時代だった。翻訳にあたって、OA機器を使うことはまずなかった。翻訳会社ならコピー機はあったが、ファックスすら珍 しかった時代だ。和訳には400字詰めの原稿用紙を使った(だから当時、和訳の単価は400字詰め原稿用紙1枚当たりいくらという風に設定していた。たぶ ん、翻訳会社の売値が1500円前後、翻訳者への払いは1000円前後が普通だった)。英訳なら、電動タイプライターを使ったが、機器といえるのはこれだ けだ。ワープロもなければ、電子メールもない。インターネットはもちろんない。

 知っているかぎり、当時の翻訳には「分野」という考えが希薄だった。翻訳者は英語、フランス語、ドイツ語、中国語などの言語で分かれていた(2つや3つ の言語を扱える翻訳者も少なくなかった)。たとえば英語の翻訳者なら、日英も英日も扱うのが当然だったし、コンピューターだろうが、原子力だろうが、法律 だろうが、経営だろうが、広告だろうが、ファッションだろうが、どのような分野の仕事でもこなすことが珍しくなかった。

 翻訳者なら、言語は選ぶが、分野を選ぶことはあまりない。いまから考えれば、なぜそのようなことができたのか、不思議なようにも思うが、当時、よく聞い たのは、辞書さえあれば翻訳はできるという言葉だった。辞書と文法書さえあれば、という人もいたが、文法書を読んでいるようではだめだともいわれた。文法 知識は完全に頭に入っていないとだめだというわけだ。いずれにせよ、文法知識+辞書で翻訳はできると、当時は考えられていたのだ。

 なにしろ、パソコンもなかった時代だ。電子辞書はもちろんないし、インターネットでの検索もない。辞書といえば、紙の辞書しかない。研究社の英和大辞典 と小学館のランダムハウス英和大辞典、分野別の辞書があっただけだ。これだけを武器に、あらゆる分野の翻訳をこなしていたのだから、当時の翻訳者はたいへ んだった。

 なぜ、このようなことができたのかというと、翻訳に求められる質の基準が低かったからだと思う。日英など、外国語方向への翻訳はもちろんだが、英日な ど、日本語方向への翻訳でも、最終的な読者は、原文が読めないはずだとされていた。だから、アラビア語の新聞記事が英語に翻訳されたというだけで役立った ように、理解しがたい英語の文書が日本語で読めるというだけで役立ったのだともいえる。

 だから、当時の翻訳は「語学」の仕事であった。外国語が不得意な人のために、日本語に翻訳する。日本語が読めるはずがない外国人のために、英語やフラン ス語などに翻訳する。翻訳者に要求される能力はたったひとつ、「語学力」だったのである。

 もちろん、これは極論だ。翻訳の世界のうち、ごく狭い範囲の見聞に基づく話でしかない。だが、当時の翻訳がこのような性格をもつ背景には、もうひとつ、 明治半ば以来の翻訳の伝統が色濃く残っていたという事情があった。理解することなどとてもできないと思えたほど進んでいた欧米の技術や思想を急速に取り入 れるために、明治半ばに、語学という観点で原文を読み解くように訳す方法が使われるようになった。欧米と日本の関係が大きく変わっても、同じ方法が使われ つづけてきた。出版翻訳の世界で、エンターテインメント小説など、ごく一部に例外はあったが、「語学」の仕事としての翻訳が主流であったことは間違いな い。とくに専門分野の翻訳書はもともと、原書を読む読者のために訳されていた。原書を読む際に、語学力の不足を補うために、翻訳書を参考にするというの が、当初の目的だったのだ。100年近く経って事情が変わってもこの伝統が維持され、産業翻訳にも影響していたのは確かだと思う。

 この常識のもとでは、日本語方向への翻訳に使われる言葉や文体は、日本語の普通の文章に使われるものとは違っていた。学校英語の英文和訳で使われるよう な言葉や文体、翻訳調と呼ばれる言葉や文体で訳すことになっていた。

「語学」の仕事としての翻訳がどういうものであったかを、具体的に示してみよう。実例は手元にいくらでもあるが、はるか以前の翻訳を取り上げて、訳者を非 難する結果になるのは好まない。仮想例を作って、イメージがつかめるようにする。原文はアメリカ労働省の発表をもとに作成した。


  Nonfarm payroll employment declined by 100,000 in November to 110 million (seasonally adjusted).  Thus far in 19X8, payroll employment decreased by an average of 90,000 jobs per month compared with average increase of 100,000 per month in 19X7.

訳例1
 非農業賃金台帳雇用は11月に10万下落して、1億1000万(季節調整済み)になった。19X8年には現在まで、賃金台帳雇用は、19X7年の月当た り平均10万の増加と比較して、月当たり平均9万職、減少した。

 戯画化しすぎているとお叱りを受けるかもしれないが、「語学」の時代の翻訳はこんなものだった。当時使われていた代表的な経済用語辞典をいくつかみる と、nonfarm payroll employmentのような使用頻度の高い用語すら、掲載されていない。そういう場合、当時の翻訳者は大英和辞典や経済用語辞典を引き、それぞれの単語 に出ている訳語を組み合わせて訳すのが普通だった。これを「非農業部門雇用者数」と訳すと、payrollの訳が抜けているし、「数」にあたる言葉は原文 にないと叱られたものだ。「そういう訳だと、原文を読む読者が戸惑います」といわれたことがある。その次のdeclineを「減少する」と訳したいとき は、「辞書に出ていない訳語を使って意訳しましたが、よろしいでしょうか」とお伺いをたてる必要があった。お伺いをたてると、原文のdeclineと decreaseをどちらも「減少する」と訳すのはいかがなものかといわれかねない。だから、辞書に出ている訳語のなかから、「下落する」を選ぶのが安全 だった。

 当時の翻訳の規範になっていたのは、学者による専門書の翻訳だが、その場合の翻訳もこれに似ていた。ただし、学者による翻訳は研究の成果を発表するもの なので、細かく訳注をつけるのが常識になっていた。たとえば、nonfarm payroll employmentがどういうものかを訳注で解説した。

 訳例1に示すように、当時の翻訳は原文にどう書かれているかを、一語一句、辞書に書かれている訳語を使い、英文和訳で教えられる語順にしたがって訳して いくものであった。いいかえれば、当時の翻訳は基本的に、原文の「意味」を伝えることは直接の目的にしていない。だから、訳文を一読すれば意味が分かると いうわけにはいかなかった。専門書の場合には、訳者は大量の訳注を書き、解説を書き、さらに解説書を書いて、原文の意味を伝えることになっていた。産業翻 訳の場合には、意味は読者が読み解くものだとされていた。訳例1のような訳文から意味を読み解くには、かなりの熟練が必要だった。

 訳文を読んだだけでは意味が分からず、訳注や解説が必要になったり、解読のために熟練が必要だったりするというのは、奇妙なことだとも思える。だが、漢 文読み下しが翻訳調のもとになったことを考えれば、そうなる理由は簡単に理解できるはずだ。たとえば、「子曰徳不孤必有隣」という漢文を「子曰く、徳孤な らず、必ず隣あり」と読み下す。これで漢文の読み方は分かるが、孔子がどのような意味をこめてこういったのかは、解説がなければ分からない。

 語学の仕事だった翻訳が大きく変わったのは、1980年代末ごろからだったように思う。産業翻訳は、1985年のプラザ合意後の円高で激変した。ひとつ には、円高のために輸出産業が打撃を受け、製品輸出に伴って発生していた外国語方向への翻訳が減少した。そのうえ、円高で日本の給与水準が高くなったため だろうが、外国人が大量に日本に移り住むようになり、日本語をしっかりと学んだ外国人の数が飛躍的に増えた。そのため、日英などの外国語方向への翻訳は、 外国人の翻訳者に任せることが多くなった。翻訳は母語方向に行うものという常識がようやく、日本でも通用するようになったのである。

 もっと大きかったのは、たぶん、日本人が外国語、とくに英語に自信をもつようになり、同時に日本語にも自信をもつようになったことだろう。1990年代 になると、翻訳調の翻訳は嫌われるようになる。当時、外資系企業の翻訳発注担当者から、こんな話を聞いたことがある。数年前までは、製品カタログの翻訳が 翻訳調になっていないと、もっとバタ臭い文章でないとありがたみがないと営業部門から苦情がでたが、いまでは翻訳調だと逆に、これでは顧客が読んでくれな いと文句をいわれるようになったというのである。ほんの数年の間に、翻訳に関する要求が大きく変わったのである。

 翻訳の読者はもはや、翻訳調で書かれた訳文を解読する作業を行おうとはしなくなった。読めば理解できる訳文を書くよう要求するようになった。別の表現を 使うなら、原文がどうなっているかではなく、原文がどのような意味を伝えているかを示すよう求めるようになったのである。

 先ほどの例文を使って、この時期以降に求められるようになった訳文の例を示してみよう。

訳例2
 11月の非農業部門雇用者数(季節調整済み)は前月より10万人減少し、1億1000万人になった。19X8年の1月から11月には、非農業部門雇用者 数は月平均9万人、減少している。19X7年には逆に、月平均10万人の増加だった。

 訳例1と訳例2を比較すると、翻訳にあたっての自由度が飛躍的に高まっていることが分かるはずだ。たとえば、declineと「減少する」と訳してもい いし、jobを「人」と訳してもいい。「辞書に書かれていない訳語を使わないように」などといわれる心配はない。語順も英文和訳の常識から自由に離れてい い。

 だが、自由に訳すのは、そう簡単ではない。決められた訳語、決められた語順で訳していくのであれば、原文にこう書かれていたのでこう訳しましたという言 い訳がきくが、原文の意味を伝えるために自由に訳すのであれば、そうはいかない。何よりも、原文の意味を正しく読む能力が必要だ。そして、適切な日本語を 書く能力が必要だ。

 たとえば、ほとんどの辞書にでていないとしても、「非農業部門雇用者数」という言葉が使えなければならない。また、原文にそうは書かれていなくても、 declined by 100,000が「前月より10万人減少した」という意味であることを知っていなければならない。因みに、米国ではこの文脈で(とくに季節調整済みの数値 で)decline by XXXXとかrise by XXXXとかの表現は、前月比の増減を意味するのが常識だが、日本では前年同月比を使うことが多い。だから、日本語で書くのであれば、前月比であることを 明確にしておく方がいい。

 こうして、翻訳が「語学」の仕事であった時代は終わった。翻訳は原文を読み、理解し、日本語を書く能力、つまり総合力で勝負する時代になったのである。

 そうなると、分野を問わず、日本語方向への翻訳も外国語方向への翻訳もすべて扱うという翻訳者像は成り立たなくなってきた。母語が日本語であれば、日本 語方向への翻訳だけを扱い、しかも、分野を絞り込むのが常識になってきた。コンピューターだろうが、原子力だろうが、法律だろうが、経営だろうが、広告だ ろうが、どのような分野の文書でも意味を十分に理解できるとは考えにくいのであれば、自分が理解できる範囲に分野を絞り込むしかない。

 分野を絞り込んでも、原文の内容を理解し、適切な日本語を書くのは容易ではない。この点は、原著者と翻訳者で分野の幅がまるで違うことを考えてみればす ぐに分かる。専門化が進むいまの世界では、原著者は何年もかけて、ときには何十年もかけて、ひとつの専門分野をきわめようとする。翻訳者は分野をいくら絞 り込んでも、原著者が考える専門分野の何十倍も広い範囲を扱うのが普通だ。それに、原著者と翻訳者では、ひとつの作品なり文書なりに使える時間がまるで違 う。原著者が何年もかけて調査し、議論し、考えてきた結果をまとめたものを、翻訳者は長くても数か月、ときによっては数日のうちに訳すように求められる。

 翻訳が「語学」の仕事だった時代には、翻訳と執筆とどちらが難しいかなどと考える人はたぶん、いなかった。翻訳の方がはるかにやさしいのは疑問の余地が なかったからだ。だが、総合力が問われるようになると、翻訳は執筆より難しいかもしれないと思えるようになってきた。執筆なら何を書くのかを選べるが、翻 訳では原著者が書いたことを訳すしかないという点だけでも、そう思える。

 幸い、1990年代には別の動きがあり、翻訳はある意味でかなり楽になった。何よりも、OA機器が普及し、とくにインターネットの検索機能が使えるよう になった点が大きい。このため、意味を伝える翻訳には決定的な意味をもつ情報収集が圧倒的に楽になった。内容の理解に不可欠な情報を入手するには、イン ターネットが欠かせない。大辞典や分野別の辞書を調べても意味が分からない語句にぶつかったとき、インターネットで探した用例をいくつかみていけば、理解 できるようになることが多い。適切な日本語表現も、インターネットの検索機能をうまく使えば、探し出せることが多い。いまでは、インターネットの検索機能 が使えなかった時代にどうやって翻訳を行っていたのか、想像もつきにくいほどである。だが、インターネットが普及したのは1990年代半ば以降だから、ま だ10年少ししか経っていないのである。

 もうひとつ、1990年代末に「語学」の仕事としての翻訳から抜け出す動きを支える出来事があった。出版翻訳のなかで翻訳調の牙城ともいえる哲学の分野 で、長谷川宏訳のヘーゲル著『精神現象学』が異例の大ヒットになった。とりわけ難解だといわれてきた『精神現象学』を、翻訳調ではない普通の文体で訳して おり、訳注を必要としない明快さで原著の意味を伝えている。長谷川宏はそれ以前から、『哲学史講義』(1992年)など、ヘーゲルの翻訳をだしていたのだ が、『精神現象学』が大きな話題になったのは、翻訳調の呪縛を解いた点で、まさに画期的な出来事であった。

 哲学のなかでもとりわけ難解だとされてきた『精神現象学』でも自由に訳せるのだから、たいていの翻訳なら、「語学」の約束事に縛られる理由はないといえ るようになった。翻訳者は決められた訳語や決められた語順にしたがう必要はなくなり、原文の意味を読者に伝えるために、自由に訳せるようになったといえ る。

 これで翻訳はほんとうに面白い仕事になった。翻訳が「語学」の仕事だった時代には、産業翻訳者は数年経つと筆が荒れてくるといわれていた。どのような分 野の文書でも、入ってくる仕事を分野を問わずこなしていれば、原文の意味を理解できないまま、機械的に翻訳していかなければならない。これでは、筆が荒れ るのも当然である。これに対して、原文の内容を十分に理解し、意味を適切に伝えられる優れた文章を書こうと努力するのであれば、翻訳はいつも新しい挑戦に なる。年数が経てば筆が荒れるどころか、円熟していけるようになる。だから、翻訳者にとって、総合力で勝負できるというのはじつにありがたいことなのだ。

 いまでも、翻訳者は「語学」の専門家であるべきだと主張する人はたくさんいる。たとえば、翻訳者は原文を忠実に訳すことに徹すればよく、専門用語などの 仕上げは専門家に任せればいいという意見がある。だが、この見方は完全に間違っている。専門用語を知らないのは、原文を読む力がないことを意味する。原著 者が何をどのように主張しようとしているのか、理解できないことを意味する。読者に何を伝えるのかが分かっていないことを意味する。翻訳者が分かっていな いことが、訳文を読む読者に伝わるはずがない。もうひとつ、翻訳者は原文を忠実に訳せばよく、文章を磨くのはそれを専門にしている人に任せればいいという 意見もある。この意見も完全に間違っている。原文が伝えようとしている意味、とくに微妙な感情や論理、ニュアンスは、翻訳者が読み取って訳文で表現するし かない。中途半端な訳文に基づいて文章を磨こうとすれば、伝言ゲームのように、意味がずれていくことになる。

 何よりも、翻訳が「語学」の仕事ではなくなり、原文を読み、意味を理解し、適切な日本語を書くという総合力の勝負になったのは、翻訳者にとってありがた いことなのだ。翻訳はこれで、ほんとうにやりがいのある仕事になった。この特権を譲り渡すことはない。

(2008年11月号)