翻訳教育の可能性

山岡洋一

英語教育の盲点としての翻訳教育

  アメリカ南部の小都市に行って間もない友人から手紙がきた。英語には自信があったのに、話がほとんど聞き取れず、「小学生なみの会話能力」 しかないと嘆いていた。

 こういう話を聞いたとき、人が考えることはだいたい決まっている。ためしに周囲の人にこの話をしてみるといい。話はこう発展していくはずだ。英語に自信 があるというのは、学校で英語の成績が良かったというだけのことだろう。日本の英語教育は文法偏重で読解力に偏っているから、何年やっても日常会話だって ろくにできるようにならない。もっと会話を重視しなければ駄目なんだよ……。

 これが常識になっていて、だれに聞いてもたいていは同じ答えが返ってくるのであれば、ほんとうにそうなのか、疑ってみるべきだと思う。常識的で決まり きった答えというのは、じつはだれも真剣には考えていない答えであることが多いからだ。真剣に考え、事実をみていけば、違った答えがでてくる可能性だって ある。もちろん、常識が正しい場合の方が多いだろうが、正しいとはかぎらないのである。

 たとえば、こういう体験をしたことがある。アメリカ人、それも深南部の出身者とオーストラリア人が話しているのだが、どちらも相手の話が聞き取れないよ うで、ちんぷんかんぷんになっている。その場に日本人や韓国人が何人かいたのだが、みな笑いだしてしまった。後でそのアメリカ人にあったとき、あのオース トラリア人の英語はほんとうに分からない、半分ぐらいしか聞き取れないというと、アメリカ人が驚いてこういった。「ほんとうに半分も聞き取れるのか、おれ なんか4分の1も聞き取れないぞ」

 英語教育とか英語学習とかいうとき、英語とはひとつのものだと思っている。もちろん、イギリスとアメリカで違いがあることは知っているが、それでも標準 的な英語、標準的な米語があって、それを学べばいいと考えている。だが事実は違っている。たとえば、アメリカ深南部の出身者、イギリスのオックスブリッ ジ、シンガポールの貿易商、オーストラリアの田舎者の4人が話しているのを聞いたら、昔流行った四か国語麻雀のようで、英語を話しているのはオックスブ リッジだけだろうと思えるはずだ。インドの技術者や、イギリスのフーリガンや、スコットランドの田舎者や、シリコンバレーの起業家や、ニューヨークの弁護 士や、アメリカ軍下士官や、職業も肌の色も違う人たちが集まれば、話が通じるとは思えない。英語はそれを母語にする人たちの間ですら、じつに多様なのだ。 嘘だと思うのなら、ヒギンズ教授に聞いてみるべきだ。

  そのうえ英語は国際語であり、いまや世界語といってもいいほどになっている。だからこそ英語を学ぶのだ。たとえば韓国人や中国人、アラブ人、ロシア人、ド イツ人などと話すときにも英語を使うのが普通だ。世界各国にはさまざまな英語があり、日本人にとって話が聞き取りやすい場合もあれば、聞き取りにくい場合 もある。

 いや、英語に限ったことではない。どの言語でも多かれ少なかれ同じことがいえる。日本語の場合、テレビの影響で地域差が少なくなり、方言で困ることは少 なくなったが、それでも職業や趣味や世代による言葉の違いはかなり大きい。隠語のような片仮名語だらけの話についていけないと思った経験は誰にもあるはず だ。たとえば、スプリットタンって知ってるだろうか。知らない方がいいかもしれない。知ったら吐き気がする人もいるだろうから。

  アメリカ南部の小都市に暮らして、地元の人たちが話している言葉が聞き取れなくても、それは当たり前の話にすぎない。日本の英語教育が文法偏重だろうが何 だろうが、それとはまったくといってもいいほど関係のない話なのである。

 帝国大学文科大学英文科を卒業して2人目の文学士になった夏目金之助がロンドンに留学したとき、英語が分からなくて困ったという。明治時代にも日本の英 語教育は文法偏重で読解力に偏っていたからだという話があるが、とんでもないことだ。2人目の文学士を誰が教育したのか。お雇い外国人に決まっている。お 雇い外国人はキングズ・イングリッシュを話す。ロンドンの下町に下宿した夏目金之助がコクニーに難儀したのは当たり前ではないか

 敗戦後に占領軍が来たとき、英語教師のほとんどはろくに会話もできなかったという話もある。戦前に教育を受けた英語教師なら、キングズ・イングリッシュ を学んでいる。GI米語を理解できなかったとしても、何の不思議もない。それに敗戦国の国民が占領軍の将兵とまともに話せるはずがない。骨がある人間な ら、話そうと思うはずがない。

 会話は慣れである。短期間の海外旅行の場合、話をする相手のほとんどは、こちらが英語に不慣れなことをよく知っているので、ゆっくり分かりやすく話して くれる。それでもはじめはなかなか聞き取れないし、英語が口からでてこないが、1週間もすると慣れてくる。外国に住んだ場合はそうはいかない。相手のほと んどは言葉が不得意な外国人と話すことには慣れていないので、なかなか話が通じないものだ。

 最悪のケースは非英語圏で、まったく言葉が通じない国に住んだときだが、その場合でも数か月もすれば、日常会話には苦労しなくなる。だが、たいていは日 常会話以上にはなかなか上達しない。よほどの努力をしなければ、何年たっても少し難しい話になるとお手上げということになりかねない。

 英語圏に住んだ場合には少し事情が違う。たいていの人は英語が苦手だと思っている。学校で苦手意識をたたきこまれているのだ(学校英語の最大の問題はこ こにある)。だが、苦手意識を払拭すると、数か月もすればやはり日常会話に苦労しなくなる。それだけでなく、その後も上達して難しい話にもついていけるよ うになるし、読み書き聞き話すというすべての面で、英語力が飛躍的に高まっていくことが少なくない。

 非英語圏と英語圏とでこのような違いがあるのは、日本人が一般にしっかりした英語教育を受けてきているからではないだろうか。

 このような事実をみていけば、日本の英語教育は文法偏重で読むことに偏っているから、何年やっても日常会話だってろくにできるようにならないという常識 はどこかおかしいことに気づくはずである。ほんとうにそうなのかと疑うようになれば、英語教育について違った問題がみえてくるかもしれない。

 もう10年近く前の話だが、しばらく翻訳学校に行っていたことがある。数年たって、つくづく嫌になった。翻訳の教育などできるはずがない、できるはずが ないことをやって、わずかではあれお金をいただくのは、詐欺のようなものではないかと思ったのだ。詐欺にひっかかるのならともかく、詐欺を働くのはいやだ と考えて、翻訳教育はやめることにした。

 その理由はいくつかあったが、そのひとつはこうだ。翻訳学校に通う人たちはみな、英語に自信をもっている。自慢の英語力を活かした仕事がしたいというの が、たいていの人の動機だ。なぜ英語に自信をもっているかというと、帰国子女かそうでなければ学校で英語の成績が良かったからだ。ところがである。得意な はずの英語をしっかりと読める人はほとんどいないのだ。とくに、英文の文法構造を間違いなく解析できる人がほとんどいない。主部とか述部とかも分からない 人が多いし、並列や代名詞、代動詞を正しく読みとける人はきわめて少ない。英文法も分からないのに、翻訳なんぞできるはずがない。そう考えたのだ。

 だが、結論を早まったかもしれないと、今では考えている。みなが決まり文句のように文法偏重は良くないといい、読むことに偏りすぎるのは良くないといっ ているとき、日本の英語教育の質がじつは、肝心の文法と読解力の点で大きく低下しているのである。自慢の英語力を活かした仕事がしたいからと、翻訳学校に 通ってくる人たちすら、文法知識が不足していて、英文を読みこなす力がない。英文を読みこなせないのであれば、いくら会話がうまくても、英語で重要な知識 を学ぶことはできない。本や論文を読んで学ぶことができないだけでなく、授業などを聞いて学ぶこともできないはずだ。難しい話を聞いて内容を理解するに は、同じことが書かれている文章を読みこなせる力が不可欠だからだ。そうであれば、英語教育の質が低すぎるから翻訳教育などできないと考えるのではなく、 逆に、英語教育のほんとうの欠陥、文法と読解力の軽視を補う方法を考えることができるかもしれない。

 英語教育では、英会話も必要だろう。日常会話ぐらいは覚えておく方がいい。だが、会話についてはもっと重要な点を教えておくべきだ。第1に英語がじつに 多様であることを教えるべきだ。じつに多様だから、はじめはまったく聞き取れないのが当たり前なのだと。第2に、慣れれば誰でも会話ができるようになるこ とを教えるべきだ。はじめはまったく分からなくても、何度でも聞きなおしていれば、数か月もすると慣れてくる。慣れれば、日常会話は誰でもできるようにな る。慣れるまで使えと教えておくべきなのだ。

 そのうえで、英語教育は文法と読解力をもっと重視するべきだと思う。帰国子女か、学校で英語の成績が良かった人が集まる翻訳学校で、英文をまともに読め る人がほとんどいないのだから。

 文法偏重は良くない、文法を詰め込むのは良くないという意見が強い。このためだろうが、文法は嫌われている。文法なんぞにこだわらず、英語を英語とし て、自然に感覚で理解できるようにすべきだと思っている人が多い。日本語文法などろくに知らなくても、日本語の読み書きや会話に苦労していないではないか と。

 たしかに日本語の文法など、誰もほとんど知らない。だが、文法というものはそもそも、そういうものなのだ。日本語文法の研究は江戸時代にはじまったとい う。その目的は古文を正しく読めるようにすることにあった。古文は日常的に使っている言葉とは違う。日常的に使っているわけではない言葉で書かれたものを 読むには、文法を知る必要がある。これがそもそも文法というものが意識されるようになった理由なのだ。ヨーロッパでもそうだ。日常的に使っている言葉なら 文法はそれほど重要ではない。文法が重要になったのは、ラテン語など、日常的には使っていない言葉を学ぶ必要に迫られたからである。

 日本語を母語にして育ったものが英語を学び、英語で何かを学ぶためには、文法は不可欠である。文法偏重は良くないなどと言われてその気になってはいけな い。文法を学ばなければ、英語を学ぶことはできないし、英語で何かを学ぶことはできないのだ。

 ではどうすればいいのか。文法と読解を学ぶ方法、教育する方法はあるのか。日本の英語教育の歴史を振り返ってみれば、おそらくは恰好の方法が使われてき た時期があることが分かる。どのような方法なのかというと、翻訳を教える方法である。歯が立たないと思えるほど難しい本を読み、翻訳する方法である。

 この方法にはいくつもの利点がある。第1に、歯が立たないと思えるほど難しい文章は、勘や感覚では読めない。文法構造を解析し、正しく理解しないかぎり 読み解けない。だから、いやでも文法の重要性を意識するようになり、文法を学びなおしたいと思うようになる。

 第2に、英文を読むだけでなく、日本語に翻訳するので、原文の内容を日本語で理解する訓練を積むことができる。外国語を外国語として学ぶべきだという意 見があるが、少なくとも日本で生まれ暮らしている場合にはそれは不可能だと考えておくべきだ。日本語でものを考えるように脳の配線ができあがっているか ら、日本語で理解しないかぎり、何もほんとうの意味では理解できない。外国語を学ぶのは、外国語を使って何かを学ぶためなので、学んだことを日本語で理解 する訓練を積むのはきわめて重要なことだ。

 第3に、英語の文章を日本語に翻訳しようとすると、英語の論理や感覚と、日本語の論理や感覚との違いに敏感になる。その結果、英語の論理や感覚と、日本 語の論理や感覚とをどちらも理解できるようになる。言い換えれば、考える力がつくのだ。

 英語で暮らし、学び、仕事をしていれば、数か月もすると英語で話し、書くのが自然だと思えるようになる。頭のなかでいちいち翻訳作業をしていては時間が かかるので、英語で直接に反応する配線が脳のなかに作られてくるのだ。英語で考えていると思えるようになるが、ほとんどの場合、これは錯覚にすぎない。根 本のところでは長い年月をかけて作られた日本語の配線で考えている。この配線を活用しなければ、思考能力が低下する。英語の論理や感覚と、日本語の論理や 感覚との違いをしっかり把握するように努めれば、脳のすべての配線を活用できるようになるだろう。

 翻訳教育は明治から大正、昭和の半ばまで学校でしっかりと行われてきた。いまでもある年齢より上の世代の人間には、翻訳はできて当たり前だという感覚が ある。翻訳学校に通う人がいるのは信じがたいことだと思われている。中学から大学まで、何のために教育を受けてきたのかというわけだ。だが、この世代で翻 訳教育を受けた人のうち、ほんとうの意味で翻訳ができる人はきわめて少ない。たいていは、英文和訳ができるとしても、翻訳はできない。英文和訳と翻訳の違 いを理解できていない。文法を学び、単語の訳語を学んでも、翻訳ができるとはかぎらないのだ。文法が分かり、単語の訳語が分かっても、それでほんとうに理 解できるほど、外国語は簡単ではないからだ。

 したがって、翻訳教育を行っても、翻訳者を養成できるとはかぎらない。だが、少なくとも英語で何かを学ぶ力を伸ばすことはできるはずだ。日本は明治以 降、翻訳教育に力をいれてきた。この点と、欧米以外の国のなかで真っ先に近代化をなし遂げることができた点との間に関係がないとは思えない。だから、翻訳 教育を馬鹿にできないことは確かだと思える。

2004年2月号