翻 訳の新しい動き
山岡洋一

古典新訳の本格化

  2006年は、日本の翻訳の歴史で時代を画す年になるだろう。来年には古典新訳の動きが本格化すると予想されるからだ。

 古典新訳ならたえず行われているし、明治初期の大翻訳時代、昭和初期の円本・文庫ブーム、高度経済成長期の1960年代後半のような爆発的なブームがい ま起こるとは考えにくいという意見もあるだろう。たしかに爆発的なブームにはならないかもしれない。だが、日本の翻訳の歴史のなかで新しい時代がはじまる 可能性が十分にある。なぜか。それは、翻訳の各種スタイルの力関係が大きく転換するとみられるからだ。

 ほぼ150年前、日本は欧米の圧倒的な軍事力に直面して、軍事力の背景にある科学技術や思想などを急速に取り入れる必要があることを痛感した。当時の日 本が全体的にみて、欧米に大きく遅れていたのかどうかは疑問であり、とくに経済的には世界的の最先端に近いほど発達していたとする見方もあるほどだが、当 時の人が軍事、科学技術、思想などの点で遅れを痛感し、危機感をもっていたのは否定のしようのない事実だ。遅れを取り戻して急速な近代化をはかることが当 時の日本にとって課題になり、その手段のひとつとして使われたのが翻訳であった。

 明治の半ばにかけて、欧米に追いつくための手段として効率的に翻訳を行う方法が確立した。それまでほぼ1000年にわたって先進国中国から進んだ思想を 取り入れるために使われてきた方法、漢文読み下しの方法を応用して、いわゆる翻訳調で訳す方法が確立したのである。理解することなどとてもできない欧米の 名著を、その表面だけでも取りあえず日本語にして、日本語で学べるようにするための方法、それが翻訳調である。原文の意味ではなく、表面を日本語で伝える ための方法、それが翻訳調なのだ。原文の語のそれぞれ、原文の構文のそれぞれに「正しい訳し方」を決め、「誤訳」のないように訳していく、それが翻訳調 だ。これは欧米の科学技術や思想が理解することなどとてもできないほど進んでいるとの認識を前提にして、やむを得ない便宜的な方法としてとられてきたもの である。したがって、翻訳調とは基本的に「後進国型の翻訳スタイル」なのである。

 幕末から150年が経過し、欧米と日本の違いは大幅に縮小した。いまでもアメリカは日本にとって異質であり、イギリスやフランスなどもそれぞれ少しずつ 違った意味で日本にとって異質である。いまでもアメリカと違っている点(ほんとうはアメリカの一部と違っている点)を取り上げて、日本が遅れている証拠だ といいたてる人はいる。しかし、欧米の科学技術や考え方が呆然とするしかないほど、理解することなどとてもできないと思えるほど進んでいるとは考えられて いない。異質なのは何も困ったことではなく、異質だから学べるものや楽しめるものがあるというだけである。

 150年にわたる努力が実って、日本は欧米以外の国には不可能だといわれていた近代化を達成でき、後進国の立場から脱出することができたのだ。だから、 翻訳調の翻訳によって、欧米の科学技術や思想を日本語という母語で学べるようにした努力も、当初の目標を達成できたといえる。幕末から150年の日本の歴 史は、翻訳の栄光の歴史だといえるのである。

 だが勝利はつぎの敗北の芽になり、栄光は堕落をもたらす。たぶん、翻訳も例外ではない。翻訳調の翻訳は、原著の意味を伝えることを目的としていない。意 味を理解することなどとてもできないという認識のもと、とりあえず原文の表面を日本語にし、日本語で意味を考えていく手掛かりにすることを目的としてい る。だから、翻訳調の翻訳を読んでも、それだけでは原著が伝えようとしたことは理解できない。いいかえれば、翻訳調の訳書はきわめて「難解」である。翻訳 書は単独で読むものではなく、原著と解説書との三点セットにして読むものだった。だが、「難解さ」は知識独占の手段にもなる。はったりと虚仮〔こけ〕威し の手段にもなる。おそらくはそのためだろうが、翻訳調という後進国型の翻訳スタイルが、後進国ではなくなったいまでも使われている。欧米がはるかに遠かっ た時代に便宜的な方法として作られた翻訳調が、いまでは知識独占の便利な手段として使われている。はったりと虚仮威しの手段として使われているのである。

 はったりをかまされる側は当然ながら、こうした「難解さ」に反発する。この反発から生まれたのが「分かりやすく読みやすい」と称する幼稚な翻訳だ。不必 要に難しくした翻訳調と読みやすいと称する幼稚訳という2つのスタイルが表裏一体の関係にあって対峙しているのが翻訳の現状である。

 古典とは、時の試練を受けて生き残ってきた名著である。だから、古いから良いといえるものだ。したがって古典には賞味期限のようなものはあまりないのが 普通だろう。古典の翻訳はどうだろう。古典の翻訳にも古く良いといえるものがある。たとえば森鴎外の翻訳をそれ以降の翻訳と比較すると、いま読む価値があ るのは鴎外訳だけではないかと思えることがある。だが、鴎外は漱石とともに、いまの日本語を作ったともいえるほどの作家だ。だから鴎外の翻訳が素晴らしい のは当たり前なのだ。鴎外のような特別な例を除けば、古典の翻訳には賞味期限がある場合が多い。21世紀に入ったいま、翻訳調の翻訳は賞味期限が切れてい るといえるはずである。

 翻訳の賞味期限が切れていることを読者は敏感に感じ取っており、古い古典翻訳を読まなくなっている。その結果、古典翻訳は売れなくなり、絶版になり、簡 単には買えなくなっている。だが、古典を読む理由がなくなったわけではない。先行きが不透明な時代や危機の時代には基本に戻り、古典に帰るのが普通だ。豊 かで安定した時代にも、古典を読む人が増えるのが普通だ。そして人生のなかでも、古典を読む時期がある。青年期に読み、引退した後の静かな時期にもう一度 読み返したくなるのが古典だ。だからどの時代にも、古典を読む人はかならずいる。翻訳の賞味期限が切れていなければ。

 古典とは古いから良いといえる世界だが、いま、翻訳のスタイルに関しては逆に、古いものは良くないといえる。新しいスタイルで訳され、賞味期限が切れて いない翻訳が必要になっている。翻訳調ではないスタイルで訳された古典翻訳が必要になっているのである。

 ではどのようなスタイルが必要なのだろう。「分かりやすく読みやすい」と称する幼稚なスタイルでないことだけはたしかだ。このスタイルは猿でも分かる式 の単純なノウハウ書や、お気楽な小説などに相応しいものだ。これなら内容と形式が一致する。古典は長く読みつがれてきた名著であり、人生や世の中を深く考 えるヒントが得られるものだ。幼稚なスタイルはまったく相応しくない。

 いま、古典新訳に求められている翻訳スタイルは、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」だと考える。つまり、原著者を理解などと てもできないほど遠くて偉大な存在だととらえるのではなく、単純にし矮小にして分かりやすくするのでもなく、原著者を等身大の偉人としてとらえたうえで、 原著の意味を日本語で伝える翻訳だと考える。原著を強いて「難解」にすることも、強いて単純にすることもなく、原著の意味を翻訳者の解釈にしたがって伝え る翻訳である。

 そのような翻訳にはたとえば、森鴎外や吉田健一らの例があるし、いまでも長谷川宏のヘーゲル訳がある。だがこれまでは、いうならば小さな流れでしかな かった。古典新訳のシリーズ化によって、これが大きな流れになるだろう。古典翻訳はいうならば翻訳調の牙城であり、これを攻め落とすことの意味は小さくな いはずだ。

古典翻訳の担い手
 昭和初期や高度経済成長期の古典翻訳ブームのとき、出版社は古典翻訳の訳者を探すのにそれほど苦労しなかったはずだ。例外もあるが、たいていは学者に依 頼すれば良かったからだ。出版したい本が決まれば、それぞれの分野、それぞれの原著者の研究で第一人者とされている学者に依頼すれば良かった。

 翻訳調は「学者訳」とも呼ばれている。これは翻訳調の担い手が主に学者だったからだ。学者が副業として翻訳を行っていたのではない。翻訳こそが学者の本 業であった。学者なら翻訳ではなく研究をすべきだという人もいるが、それは当時の状況を知らないからだだろう。後進国日本にとって何よりも重要だったの は、欧米の進んだ科学技術や思想を取り入れることであり、その手段の柱が翻訳だったのだ。

 時代が変わり、学者の世界も変わった。だが、学者が行う翻訳のスタイルは変わらない。いまだに学者訳、いまだに翻訳調である。だから、21世紀の古典新 訳の担い手は基本的に学者ではない。少なくとも、各分野の第一人者とされる学者に翻訳を依頼すれば安心というわけにはいかない。学者として、研究者として の評価がどれほど高くても、質の高い翻訳ができるとはかぎらない。それに、翻訳を依頼しても断られることが多いだろう。昔と違っていまの学界では、翻訳は 業績にならないからだ。

 では、21世紀の古典新訳は誰が担うのか。結論をいうなら、翻訳家である。ここでいう翻訳家とは、質の高い翻訳をする人という意味だ。世間的な肩書は何 でもいい、出版翻訳者や産業翻訳者でもいいし、中学高校や大学の教員でもいいし、ごく普通の勤め人でもいいし、主婦でもいいし、定年退職後の元勤め人でも いい。翻訳調ではなく、「分かりやすく読みやすい」と称する幼稚訳でもなく、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」ができる人であ ればいい。

 このように選択の幅が広がったのはいいことだが、逆にいえば、出版社の編集者にとって、ひとりひとりの翻訳を読んで質を判断していく以外に、古典新訳に 相応しい訳者を探せなくなっていることも意味する。また、古典の新訳に取り組みたい人にとって、決まった道がないことも意味する。

 翻訳調の学者訳の時代には、高等教育機関が翻訳者を養成し、選別する機能を果たしていた。だからこそ、一流大学の教授に依頼すれば良かったわけだ。いま では、翻訳者の養成と選別の機能を果たしている機関はない。大学はその機能をもっていない。翻訳学校はというと、もうほとんど冗談だとしかいえない。

 出版翻訳者はもちろん、古典新訳の担い手として第1の候補である。とくに、エンターテインメント分野には、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろ うと思える翻訳」を行っている翻訳家がおり、古典新訳の担い手になる(古典文学の大部分は当時の娯楽小説なのだ)。また、訳書と原著がすぐに手に入るのが 普通なので、翻訳の質を検討しやすい。それでも、何百人、何千人もいる出版翻訳者の訳書を検討していくのは容易ではない。訳書の点数などを基準に、ごく少 数の出版翻訳者に絞り込んだ後でなければ、検討していくことすらできない。だが、点数が多ければ質が高いとはかぎらない。翻訳点数は5点に満たなくても、 素晴らしい翻訳ができる人はいるはずだが、そういう翻訳者を探し出すのは容易ではない。

 出版翻訳者としての実績がない人、それよりも何よりも翻訳の経験がない人のなかから、古典新訳の担い手がでてくる可能性もある。いや、そうならなければ 古典新訳の流れは大きな潮流にはならないといえるほどである。翻訳のスタイルがほんとうに変わるとするなら、その担い手も変わるはずだからだ。以前なら興 味をもたなかった層が翻訳に進出するようになるはずだからだ。

 では、出版翻訳者としての実績は少ないか、まったくない人、さらには翻訳の経験がない人が古典新訳の担い手になるにはどうすればいいのか。その点を考え た結果を次項で示すことにしたい。

(2005年10月号)