翻訳についての断章
山岡洋一

香辛 料を少々、電子辞書で探して

  自分が無知であることも知らなかったころ、下町にはめずらしく洒落た喫茶店に入って、カレーを食べていた。ふと見ると、カレーに奇妙なもの が入っている。どうみても木の葉だ。早速、文句を言った。店の人はできた人だから、「ローリエですよ、香辛料の。月桂樹の葉という方が分かりやすいかな」 と、丁寧に教えてくれた。「盛りつけるときに注意しているのに、入ってしまったんですね」ともいってくれた。お陰でひとつ賢くなった。料理に木の葉とか枝 とかが入っていても、文句をいってはいけない。だが、料理についてはいまだに何もしらないので、間違った香辛料が入っていても、その辺の木から風に飛ばさ れてきた葉が入っていても、見分けがつかない。

 最近、評判のいい翻訳家が訳した評判のいい作品をつぎつぎに読んでいる。そのひとつを読みはじめて、3行目で止まってしまった。こう書かれていたから だ。

 この話には、鈍色〔にびいろ〕の雲と激 しい雨が似つかわしい。(芹澤恵訳トマス・クック著『夏草の記憶』文春文庫、11ページ)
 It goes with gray clouds and heavy rain, .... (Thomas Cook, Breakheart Hill, Bantam Books, p. 3)

 調べた範囲では、「鈍色」は源氏物語で喪服の色を表現する言葉として何度も使われているし、「鈍色の雲」という表現も有島武郎の『カインの末裔』などで 使われている。死と雲を連想させる言葉だから、文脈にあっていないわけではない。だが、旧字旧仮名で文語調の文章ならともかく、この訳の文体にはどう考え ても似つかわしくない。原文を読んでも、「鈍色」といわなければならないようには感じられない。

 では訳者はなぜ、こんな言葉を使ったのだろうか。答えはたぶんはっきりしている。同じ著者の『緋色の記憶』が前の年に評判になり、そこでこのような言葉 が頻繁に使われていたのだ。たとえば、このように。

……しかし、そのときの彼女がどれほど美しかったか、深緋〔こきひ〕色の襟に真っ白な 頸〔くび〕がどんなに映えていたか、それだけはよく憶えている。……(鴻巣友季子訳トマス・クック著『緋色の記憶』文春文庫、19ページ)
... I do know how beautiful she was, however, how immaculately white her throat looked against the wine-red collar of her dress. (Thomas Cook, The Chatham School Affairs, Bantam Books, p. 8)

『緋色の記憶』はその年のベスト・ミステリーに選ばれるなど、かなりの評判になった。鴻巣友季子にとっても、いうならば出世作になった。そして、wine -redのように誰でも知っている言葉を「深緋色」のようにほとんど誰も知らない言葉で訳すのが、鴻巣友季子のスタイルだった。

 前年に『緋色の記憶』が成功したように思えたのだから、芹澤恵が『夏草の記憶』を訳すにあたって、無意識にそれを真似ようとしたとしても不思議ではな い。冒頭の3行目でgray cloudsという言葉にぶつかったとき、思わず電子辞書で「灰色」の類語を探し、「鈍色の雲」という訳語を選んでしまったのだろう。はっきりいってしま えば、芹澤恵は鴻巣友季子とは比較にもならない。翻訳者としての総合力がまるで違う。少なくとも『夏草の記憶』と『緋色の記憶』を比較したかぎりでは、そ ういえるはずだ。だから、不思議だと思える。年下だし、力がはるかに劣る人の文章を真似ることはないはずなのだ。だが、出版の世界では売れれば官軍であ る。売れた本を真似ようとする気持ちがはたらくのは、ある意味で仕方がないことなのかもしれない。

 だが、問題はそこにはない。年下だろうが、力が劣っていようが、良いことなら真似ればいい。問題は『緋色の記憶』のスタイルが良いか悪いかである。

 答えは少し考えてみればすぐにわかる。「深緋色」という言葉を知っているだろうか。知らなくても恥にならない。広辞苑にすらでていない言葉なのだから。 インターネットで調べると、和服の色などにまれに使われていることがわかる。それでも、ほとんどの読者が知らない言葉であるのはたしかだ。ほとんどの読者 が知らない言葉を使うのは良いことなのか悪いことなのか。それは場合による。必要があり、しかも良い言葉であれば使うべきだ。必要がなかったり、文脈に合 わなかったりする場合には、使うべきでない。

 そこで、「深緋色」について考えてみよう。まず文脈上、適切な言葉だろうか。おそらく、2つの点で適切だとはいえない。第1に、これは老人が15歳の少 年のころを回想している場面だ。「深緋色」という言葉は15歳の少年に相応しいだろうか。どう考えても相応しくない。老人ならこの言葉を知っている可能性 があるが、こんな文脈でこんな使い方をしようと考えるはずがない。万一使うとしても、「あの時に目に焼きついた色が『深緋色』と呼ばれていることを後に 知った」というような書き方をするはずだ。第2に原文のwine-redは「深緋色」とはかなり違う。色の表現はむずかしく、色見本をみても分からない場 合が多いのだが、それでも、wine-redと「深緋色」では違いすぎる。

 つまり、原著者の意図を適切に表現するという観点からは、「深緋色」という訳語がでてくるはずはない。ではなぜ、訳者はこの言葉を使ったのか。

 答えはひとつしかない。こんな言葉を知っていると、自慢したかったのだ。要するに、はったりなのである。裏が透けてみえるから、虚仮威し〔こけおどし〕 にすぎないといえる。読者は虚仮にされている。虚仮の一念で化けの皮をはがしてやろうとする人もいるだろうが、なかにははったりに負けてありがたがる人も いる。これを名訳だなんぞと持ち上げる人まででてくる。

 繰り返すが、ほとんどの読者が知らない言葉を使うのが良くないと主張しているのではない。文脈にそぐわない言葉をわざわざ使うことに問題があるといって いるだけだ。そういう例を2つだけ指摘しよう。

 旧風の色濃いニューイングランドの村に降りたった若い女性の姿を、そのまま永遠に封 じこめたいと願うのでは、もちろんない。老いの境地まで生きたものであれば、かならず人生からある明快な真実を学ぶ。せめてそれをあの人に忠告するまで、 時が歩みを止めてくれたらと思うのである。すなわち、“人の情は幾久しくつづかず、ならばその思い、長らえさせることこそ、人のつとめなり”という真実 を。……(20ページ)
  It's not that I want to freeze her there for all eternity, of course, a young woman arriving in a quaint New England town, but that I merely wish to break the pace long enough to point out the simple truth life unquestionably teaches anyone who lives into old age: since our passions do not last forever, our true task is to survive them. (p. 9)

「人の情は幾久しくつづかず、ならばその思い、長らえさせることこそ、人のつとめなり」というのがどういう意味なのか分かるだろうか。正直にいって、さっ ぱり分からない。「幾久しく」とか、「長らえさせる」とか奇妙な言葉が使われているなぁ……と思うばかりで、意味が伝わってこない。「幾久しく」は結納式 や結婚式に「末長く幾久しく」などの形で使われる言葉だ。それ以外にどういう場面でどう使われるかを調べてみた(インターネットで検索すると、用例がいく つかでてくる)。やはり、めでたい場面や願いごとをする場面で使う言葉のようだ。だから、「つづかず」がつづくはずがない。ちなみに、『新明解』には、 〔「幾久しく栄え有れ」の意の圧縮表現〕と書かれている。

 訳文を読んでも意味が分からない。仕方なく原文を読むと、なんということもない教訓が書かれている。なぜこのような奇妙な訳文ができあがったのかは分か らない。おそらく、はったりをかますのに忙しくて、原文を読みこむ暇がなかったのだろう。あるいは、survive themがsurvive the passionsであることに気づかなかったか、気づいたのだがsurviveの意味を知らなかったのだろう。もうひとつ、passionの意味が分から なかったのだろう。「情」というのはふつう、落ちついた感情だが、passionは激しい感情だ(だから、長くはつづかず、passionが冷めた後が重 要なのだという話になる)。

 もうひとつの例は、「訳者あとがき」の冒頭である。原文はないので、文章の全責任が訳者にある。

 本書は、トマス・H・クックが一九九七年度のアメリカ探偵作家クラブ賞、最優秀長編 賞を捲土重来〔けんどちょうらい〕ついに掌中にしたThe Chatham School Affair(一九九七年)の全訳である。(395ページ)

 たぶん、「捲土重来」は「けんどじゅうらい」ではなく「けんどちょうらい」と読むのだと書いてあるのを読んで、使ってみたかったのだろう。そうとしか考 えられないほど、不釣り合いな言葉だ。そして「掌中にした」と書くのは、「掌中」の意味を知らないからだろうとしか思えない。まさにはったりだが、これで 驚くのはよほど愚かな人だけだろう。

 たいていの読者は愚かではない。とくに読書家と呼ばれる人たち、本をいちばん買ってくれる人たちは愚かではない。その事実を知らないから、このような不 用意な表現を使うのだ。

 それまで知らなかった言葉にぶつかると、意味も文脈もろくに知らないまま、使ってみたくなる。そういう時期が人生に2回あるように思う。最初は言葉を覚 えはじめた時期だ。大人がしゃべっている言葉を聞きかじって使ってみる。たとえば、親戚の結婚式に出席し、「どうか幾久しく」とか「末長くお幸せに」とか の言葉を聞いて、さっそく使ってみたくなる。この年齢の女の子や男の子はほんとうにかわいい。2回目は20歳前後の生意気盛りのころだ。自分が知らなかっ た言葉ではなく、友人や親が知らないはずの言葉を使ってみたくなる。そうやって必死に背伸びして書いた文章は、「若書き」という。数年もすると、生意気盛 りのころに書いた文章を読んで、赤面するようになるのがふつうだ。

 大根役者が大見得を切ったような若書きの文章は、ふつうなら見向きもされない。ふつうなら見向きもされないことが、翻訳の世界ではもてはやされている。 もてはやされるから、若書き風の文体を使ってみたくなる人が増える。たとえば先月号で紹介した「あやめもわかぬ頻闇」がそうだ。たとえば、以下の訳文もそ うだ。

 ここは空気が異なり、心なしか澄んでいる。光が冴え、木の葉の縁や建物の輪郭が、記 憶に劣らず際立っている。この場所が屋敷と呼ばれていたころと変わらぬ光の中で、思い出が五感にしみわたる。午後遅くの雨で甘美にすすがれた、爽涼たる夕 刻。(越前敏弥訳ロバート・ゴダード著『惜別の賦』創元推理文庫、12ページ)
  The air is different here, purer somehow.  The light is clearer, the edges of the leaves and the lines of the buildings as sharp as the memories.  Recollection invades my senses through the unchanged brightness of this place called home.  I raised the window on the evening, cool and sweetly washed by late afternoon rain. (Robert Goddard, Beyond Recall, Corgi Books, p. 11)

 訳者にとってはじめての作品の冒頭だから、力が入っている。これを読んだとき、若書きだという印象を受けた。文脈に相応しくない言葉を使っているわけで はなく、下手ではないが、気負いのみえる文章だ。訳者はたぶん20代なのだろうと思った。ところがである。「訳者紹介」によれば、もう少しで40歳になる ときの翻訳なのだ。鴻巣友季子もほぼ同じ世代の翻訳家であり、『緋色の記憶』は30代半ばのものである。20歳すぎなら笑って許せるのだが。

 少し前まで、はったりに使われるのはたいていバタ臭くて生硬な言葉だった。いまでは和風がはやっている。香辛料には、源氏物語や落窪物語などで使われた 和風の言葉を少々、電子辞書で探して……。こんなはったりが通用するようでは、翻訳の世界はまだまだ幼稚だ。学生の同人誌ではないのだから、読者にお代を いただこうというのだから、もう少し大人にならなければいけない。

(2004年8月号)