翻訳講義 (2)
山岡洋一

翻訳者は執筆者

 
 今回からは、フランクリン・ローズベルト大統領の第1期就任演説をテーマにして、翻訳について考えていきます。

 いくつか前置きがあります。第1に、かなり難しいを翻訳してもらった理由です。翻訳の演習では、やさしい文章を訳してもらう方法もあります。それで優れ た翻訳ができれば自信がつき、もっと難しい文章に取り組んでみようと思えるようになるかもしれません。ですが、皆さんの実力を考えれば、そんな方法が必要 だとは思いません。頭をなでてもらったり、花丸をつけてもらったりする必要はないはずです。難しい課題に取り組んで、頭が痛くなるまで考え抜く。そういう 経験を積んだ方が、将来、役立つはずです。ですから、とんでもなく難しいわけではないが、かなり難しい文章を教材に使っています。

 第2に、添削をしてほしいという意見があるでしょうが、添削はしません。どこに問題があり、どこはいいかを示すだけにします。今回提出された訳文のう ち、とくに優れているものを選んで、問題点を指摘しました(下図を参照)。傍線が入っているのが問題のある箇所です。今後、同じ文章の翻訳を何度か改定し てもらいますが、その段階には、優れている箇所を波線で指摘するようにします。

 なぜ添削をしないのか、理由を説明します。たぶん、ピアノやバイオリンなどを習っているか、以前に習っていた人が多いでしょう。その場合、いま練習して いる曲は将来、何度もひく機会があるということが少なくないはずです。そうであれば、間違いを指摘してもらい、もっとうまくひけるようにしておくことには 意味があります。しかし翻訳の場合は、事情がまったく違います。今後何十年か毎日、翻訳を行っていくことになったとしても、同じ文章を訳す機会はまずない のです。ですから、今回の課題の正しい訳し方を覚えたとしても、役立たせる機会はないのが普通です。正解を聞いても、役には立たないのです。そこで、この 講義では、問題点を見つけ出し、もっとよくするにはどうすればいいのかだけを指摘する方法をとります。添削をしない理由はもうひとつあります。わたし自 身、正解が分かっていないという理由です。正解が分からないというと、ではなぜ翻訳の講義をしているのかと思われるでしょうが、翻訳とはそういう性質のも のなのです。翻訳には正解はありません。いま、翻訳家10人がこのローズベルトの就任演説を訳したとすると、10通りの翻訳ができ、それぞれかなりの違い があるのに、どれもいうならば「正解」だということもあるでしょう。翻訳は、入試の問題とは違って、ひとつの正解があるようなものではないのです。

 課題文の翻訳に取り組んで、どうしても分からない点や不安な点があれば、正解を知りたくなるのは当然でしょう。ですが、世の中のたいていの問題がそうで あるように、翻訳には正解はないのです。正解がない問題を考えるのは苦しいともいえますが、逆に、正解がないから楽しいともいえます。正解がないから奧が 深く、一生をかけて学んでいく価値があるのです。皆さんには正解のない世界の楽しさを味わってほしいと願っています。ですから、正解は何かと質問しないよ うにお願いします。

縦書き文書の書き方
 まず、じつに単純な問題を取り上げます。表記の基準を守るという点です。翻訳者は執筆者ですから、執筆者としての常識を知っておく必要があります。以前 は、原稿用紙の使い方をうるさく指導されたものですが、いまでは原稿用紙を使う人はめったにいませんから、パソコンでの文書の作成法というべきでしょう。 今回、縦書きの書式を使ったのは、たぶん、縦書き文書の書き方になれていない人が多いだろうと考えたからです。縦書き文書の書き方を心得ていないと、いく らすばらしい翻訳を行っても、一目で素人と分かる表記になっていては、仕事はもらえないと思います。

 縦書き文書の書き方で間違えやすい点がいくつかあります。第1に、縦書き文書では通常、段落の最初の行を1字下げにし、段落と段落の間に空白行はおきま せん。原文はこの場合、パラグラフの最初の行にインデントはなく、パラグラフとパラグラフの間に空白行がありますが、日本語の縦書き文書でこれと同じにす ることはめったにないと考えておくべきです。

 この点は、縦書き文書の目的を考えれば、すぐに分かります。縦書きにするのは、新聞雑誌や書籍に使うからであることが多く、新聞や雑誌、本をみれば、段 落の最初の行を1字下げにし、段落と段落の間に空白行をおかないのが普通であることが分かるはずです。パソコンで文書を作成するのであれば、印刷されたと きの形になるべく近づけておくのが正解だと思います。たとえば出版用の翻訳のときには、編集者にレイアウトを聞いておき、なるべくそれにあわせます。たと えば1行42字で1ページ18行なら、それと同じ字数と行数で印刷し、チェックします。そんなことまで考えるわけですから、当然、段落の最初の行は1字下 げにし、段落と段落の間に空白行はおかないようにします。

 ここで注意しておくべき点があります。出版では通常、段落の最初の行でも、カギ括弧ではじまるときは、1字下げをしません。新聞ではカギ括弧ではじまる ときも、1字下げをするのが普通ですが。また、インデントではなく、1字下げを使います。つまり、全角1字分の空白を入力します。ワープロ・ソフトには親 切というよりお節介な機能がたくさんついていて、空白を入力したはずなのに、インデントになっている場合がありますので、注意が必要です。ワープロ・ソフ トを使うのであれば、お節介な機能をすべてオフにしておくべきです。それよりいいのは、入力の際に、たとえば秀丸などのエディター・ソフトを使うことで しょう。ワープロ・ソフトは最後の仕上げと印刷だけに使えばいいのです。

 第2に、縦書きでは数字に漢数字を使うことにも注意しておくべきです。横書きでは半角の洋数字、縦書きでは漢数字が基本です。最近はこの原則が若干崩れ ています。大手の新聞社が縦書きの記事に洋数字を使うようになったためですが、個人的な意見をいわせてもらうなら、これはとんでもない邪道だと思います。 縦書きの数字は漢数字でなければならない、洋数字を使うと美しくならないと考えます。漢数字の使い方にも注意が必要です。一例をあげるなら、二〇〇八年十 二月という風になります。二千八年ではないし、一二月ではないのです。金額の場合なら二千八円が普通です。

 第3に、これと関連する点ですが、固有名詞などを原文のまま表記する人がいますが、これはやめるべきです。略語の場合にはアルファベットを使いますが、 半角ではなく、全角を使います。

 第4に、句読点の使い方で若干注意すべき点があります。カギ括弧閉じるの前に句点は入れません。文部科学省ではカギ括弧閉じるの前に句点を入れることに していますので、小中高の教科書ではそうなっていますが、文部科学省の管轄でないところ、たとえば出版などでは、この方法はほとんど使われていません。作 家のなかに何人か、この方法を使う人はいますが。また、疑問符と感嘆符の後には一字分の空白をおくのが普通です。ただしカギ括弧閉じるの前に疑問符か感嘆 符がある場合は例外です。

 ほかにもまだ注意すべき点はありますが、いちばんいい方法は、信頼できる本や新聞・雑誌などでどのような表記方法が使われているかを調べてみることで す。上記の点以外にも、たとえば漢字と仮名の使い分けなど、学べる点がたくさんあるはずです。

 表記の基準や用字用語は物書きにとって悩みのタネですから、そのための本もたくさんでています。定評がある本をひとつだけ紹介しておきます。『記者ハン ドブック』(共同通信社)です。これは新聞用のハンドブックですから、たとえば出版の場合とは少し違っている部分もあり、注意が必要です。じつは、日本語 の場合、正しい表記の方法とか、正しい用字用語とかが決まっていないという問題があります。「たとえば」と書いても「例えば」と書いても「例へば」と書い ても間違いではありません。句点や読点をどう使ってもいいのです。最終的には執筆者に任されています。執筆者は表記の方法や用字用語を自由に選べるので す。自由とは責任をともなうわけですから、翻訳を行うときには、表記や用字用語を十分に考える必要があります。

翻訳の原則
 表記の問題はこれぐらいにして、訳文について気づいた点を指摘します。まず気づくのは、理解しないで書いている点が少なくないということです。原著者が 具体的に何をいおうとしたのか、理解しないまま、訳文を書いていることが多いように思えるのです。そう思える場合が多かった表現をあげておきましょう。

a day of national consecration
nameless
leadership
on my part and on yours
concern
values
government of all kinds
means of exchange
currents of trade
thousands of families
in the very sight of the supply
rulers of the exchange of mankind’s goods
money changers

 たぶん、理解しないまま訳文を書いているというと、心外に思う人が少なくないはずです。分かったから書いているのだと。しかし、このときに分かったのは 訳語であって、意味ではないという場合が少なくないはずです。翻訳にあたっては、訳語が分かっただけではだめです。意味が分からなければいけないのです。 具体例をあげましょう。

 たとえば、thousands of familiesでは「数千もの家庭」「何千もの家族」などの訳がかなり多かったのですが、原著者はこのとき、ほんとうに「数千」「何千」と考えていたの でしょうか。これは1933年3月にフランクリン・ローズベルトが大統領に就任したときの演説です。当時、アメリカの人口がどれだけあり、世帯数がどれぐ らいだったかを調べ、大恐慌の最悪期だった当時の状況を調べてみれば、数千という数が信じられないほど少ないことにすぐに気づくはずです。この時期には、 文字通り「何千もの」銀行が破綻し、預金者が預金を失っていたのです。ですから、「数千もの家族」「何千もの家族」という言葉は、理解した内容を表現した ものではなく、thousands of familiesという言葉を深く考えることなく、機械的に訳した結果であることが理解できるのではないでしょうか。

 もうひとつ、namelessの例を考えてみましょう。これはnameless ... terrorと続くわけですが、「名もない……恐怖」といった訳がかなり目立ちました。「名もない恐怖」というのはどういう恐怖なのか、読者は理解できる でしょうか。たぶん、これを読んだ読者のほとんどは理解できないと思います。読者のほとんどが理解できないとすれば、書いた本人、つまり訳した人が理解で きていなかったからと考えるのが普通でしょう。

 ここで、翻訳の重要な原則を確認しておきたいと思います。翻訳の重要な原則はこうです。「翻訳にあたって、分かっていないことは書かない。分かるまで調 べてから書く」

 翻訳とは、原著者の立場に立って書く作業です。翻訳者は原著者の代理人です。いま訳しているのは演説ですから、原著者であるフランクリン・ローズベルト が何らかの理由で演説ができなくなり、自分が代わりに演説することになったと考えてみる。そのとき、理解できていないことを話そうとは考えないはずです。 たとえば、「何千もの家族が長年の貯蓄を失っています」といったとき、「何千もの銀行が破綻して、預金が戻ってこない状況になっているのに、貯蓄を失った 家族が数千というのは、愚かな楽観主義者だというべきではないでしょうか」と質問されたら、どう答えるのでしょうか。答えることができないのであれば、原 著者の代理の役割は果たせません。

 前回、英文和訳と翻訳の違いを以下のように指摘しました。

 英文和訳と翻訳でどこが違うのかは、今後、課題文を訳していくなかで、具体的に考えていきます。ここでは、原則を示しておきます。英文和訳では、単語や 連語、構文などを決まった訳し方を使って、一対一対応で訳していくのに対して、翻訳では、原文を読み、調べ、理解し、理解した結果を日本語で書いていきま す。

 原文にthousands of familiesとあるから、「何千もの家族」と訳しておけば大丈夫だろうと考えるのが英文和訳、ほんとうに何千なのだろうかと考え、調べて、どう書くか を決めていくのが翻訳なのです。

翻訳の基礎は理解
 翻訳の基礎は理解です。読み、調べ、理解し、書くのが翻訳です。まず、原文を正確に読む。これが翻訳の第一歩です。構文をしっかりつかみ、語句を確認し ます。

 次に分からない点や不安な点がどこなのかを確認し、理解できるまで徹底して調べます。語句の意味は、まずは辞書で調べますが、翻訳にあたっては紙の辞書 を使うべきです。電子辞書やインターネット辞書では翻訳はできないと考えておくべきです。辞書を買うときは大きい秘書を買えといわれています。たとえば英 和辞典なら、大辞典を買うべきです。2万円近くの価格は高いと思えるかもしれませんが、何年もの間、毎日何回となくひくことになると考えれば安いもので す。

 不安な点、自信がない点がどこなのかを確認することがとても大切です。たとえば、thousands of familiesというのは中学生レベルの単語が並んでいるだけですが、不安になれば辞書でthousandの意味を調べてみようと思うはずです。そう思 えば、もう問題は大部分解決しています。中学生ではないのだからと思えば、問題は解決しません。

 上にあげた点は、辞書でしっかり確認すべきでしょう。ここでとくに難しいのはたぶん、a day of national consecrationでしょう。これは辞書では解決しないかもしれません。ヒントをひとつだけ。ここで、my consecrationではなく、national consecrationであることに注意してください。

 これは大統領就任演説ですから、格調の高い演説にしようとしています。格調の高い文章を書こうとすると、少し古い言葉を使ってみようと考えるのではあり ませんか。この点は英語でも変わりません。ここで使われた古い言葉として有名なのは、money changersでしょう。普通はこうはいいません。他にも同様の例がいくつかあります。

 もうひとつ、この部分には有名な言葉があります。ローズベルトの言葉としてこれ以上はないほど有名な言葉です。それは、the only thing we have to fear is fear itselfです。決めぜりふですから、それにふさわしい訳し方をしてください。


原文
INAUGURAL ADDRESS OF FRANKLIN DELANO ROOSEVELT
Given in Washington, D.C.
March 4th, 1933

This is a day of national consecration, and I am certain that on this day my fellow Americans expect that on my induction into the Presidency I will address them with a candor and a decision which the present situation of our people impels. This is preeminently the time to speak the truth, the whole truth, frankly and boldly. Nor need we shrink from honestly facing conditions in our country today. This great Nation will endure as it has endured, will revive and will prosper. So, first of all, let me assert my firm belief that the only thing we have to fear is fear itself―nameless, unreasoning, unjustified terror which paralyzes needed efforts to convert retreat into advance. In every dark hour of our national life a leadership of frankness and of vigor has met with that understanding and support of the people themselves which is essential to victory. And I am convinced that you will again give that support to leadership in these critical days.

In such a spirit on my part and on yours we face our common difficulties. They concern, thank God, only material things. Values have shrunk to fantastic levels; taxes have risen; our ability to pay has fallen; government of all kinds is faced by serious curtailment of income; the means of exchange are frozen in the currents of trade; the withered leaves of industrial enterprise lie on every side; farmers find no markets for their produce; and the savings of many years in thousands of families are gone.

More important, a host of unemployed citizens face the grim problem of existence, and an equally great number toil with little return. Only a foolish optimist can deny the dark realities of the moment.

And yet our distress comes from no failure of substance. We are stricken by no plague of locusts. Compared with the perils which our forefathers conquered because they believed and were not afraid, we have still much to be thankful for. Nature still offers her bounty and human efforts have multiplied it. Plenty is at our doorstep, but a generous use of it languishes in the very sight of the supply. Primarily this is because the rulers of the exchange of mankind’s goods have failed, through their own stubbornness and their own incompetence, have admitted their failure and have abdicated. Practices of the unscrupulous money changers stand indicted in the court of public opinion, rejected by the hearts and minds of men.