翻訳についての断章
山岡洋一
完全原稿

 「あの人はめずらしく完全原稿をだしてくれるから、手を入れる必要がない。編集者としてはありがたい翻訳家だね」。親しい編集者がある翻訳家 について、こんな意見を聞かせてくれた。そうか、完全原稿か。

 産業翻訳から出版翻訳への転身をはかろうとしていたころ、いくつも驚く点があったが、そのひとつが「完全原稿」という言葉だった。それってどこかおかし くないだろうか。たとえばパソコンを買う前に、くわしい人に意見を聞くとする。何々社のパソコンを買おうと思うんですが、どうでしょう……。うん、そこは めずらしい会社でね、完全製品を売っているから、買った後であちこち修理する手間が省ける。ユーザーとしてはありがたいメーカーだね……。

 プロである以上、完全原稿をだすように努力するのは当たり前だ。校正で赤がひとつも入らない原稿、誤訳も訳抜けもない原稿、1字も訂正しないまま印刷さ れ、出版されても恥ずかしくない原稿、だれの目にも完璧だとうつる原稿。プロである以上、これが理想だ。ピッチャーでいえば、81球で27三振をとるのが 理想だ。そう、あのシド・フィンチのように。捕手の方にはご迷惑をおかけしますが、野手の方は守備位置で座ってみていてくださいね……。

 もちろん、出版翻訳の場合には産業翻訳とは違って、ゲラというありがたい仕組みがある。ゲラで直せばいいと考えるので、原稿のチェックがついおろそかに なる。それに、プロの校正者が変換の間違いや表現の間違いなどを指摘してくれる。編集者が誤訳や不適切な表現を指摘してくれる。翻訳出版はそもそも個人で は成り立たないものなのだ。翻訳者と編集者、校正者が協力して完成度の高い訳文を作り、装丁家やデザイナー、印刷会社が協力して素晴らしい本を作り、営業 や広報、取次や書店が協力して読者に届ける。もちろん、書評家にも活躍していただくし、新聞のコラムやテレビ番組で取り上げてもらうことも重要だ。だいた い、27連続三振で完全試合、そのうえ自分でホームランを1本打てば勝てるなどと考えるのはどうかしている。野球も翻訳出版も、そもそもチームで行うもの だ。チーム・プレーが重要なのだ。そういわれる。

 チーム・プレー。なんと美しい言葉ではないか。不完全原稿だといわれようが、気にすることはない。編集者と校正者を信じて、チーム・プレーに徹している だけなのだから。

 野暮なことをいうようだが、出版の世界は本来、そのようにはできていない。翻訳者には完全原稿をだす義務がある。編集者には訳文を修正する責任はない。 校正は翻訳者の責任である。これは本当だ。証拠をみせろといわれれば、お見せすることもできる。法律にそう書いてあるのだ。なんで法律の話がでてくるんだ と思われるだろうが、編集者(実際には出版社)と翻訳者の関係は、著作権法によって決められている。著作権法によれば、訳者は完全原稿をだす義務を負って おり、出版社は訳者の原稿をそのまま出版する義務を負っている。もちろん、編集者や校正者は原稿が出版に適したものになるように、チェックや校正を行う。 だが、これは訳者に「協力」するためであり、訳者の了解がなければ、一字一句といえども変更できない。単純な変換ミスを修正する権限すらもっていないし、 修正する責任もない。編集者や校正者が翻訳者の了解を得ることなく変更をくわえた場合、著作者人格権を侵害したことになり、翻訳者は出版社に補償を求める ことすらできる。初歩的なことだよ、ワトソン君。

  しかしこれは、あくまでも本来そうあるべき姿だというだけである。出版翻訳の現実は違っている。訳者がそのまま印刷にまわしてもいいほど完成度の高い原稿 をだすことはめったにないし、ゲラの段階ですら、チェックや校正に全責任を負うことはめったにない。だからこそ、訳文に全責任を負う翻訳家は「めずらしく 完全原稿をだしてくれる」といわれる。

 逆にいえば、たいていの翻訳家は完全原稿をださない。たいていの翻訳家がだすのは、いってみれば不完全原稿なのだ。では、不完全原稿をだれがどうやって 完成させるのか。大きく分けて、3つの場合がある。

 第1に、原稿用紙を使っていた世代の翻訳家には、チェックや推敲、校正はゲラになってから行う人が少なくない。手書きの原稿では推敲しても限界がある し、校正をしても意味がないという面がある。ゲラになってはじめて、全体を通読し、修正すべき箇所を修正する。このタイプの翻訳家は不完全原稿を完全な本 にすることに全責任を負う。だから、原稿段階で不完全であるのは恥ではないし、編集者にとって負担になることでもない。完全原稿をだす翻訳家と、仕事の進 め方が違うだけなのだ。

 この種の翻訳家は、いまではきわめて少なくなっているようだ。いまでは、原稿用紙をまったく使わず、はじめからワープロを使って翻訳を進める人が大部分 だし、手書きで翻訳を進める人でも、その後にワープロで入力する。このようにすれば、ゲラとほとんど変わらないプリントアウトができる(その気になれば、 そのまま印刷できる形にすることだってできる)。だから、チェックや推敲、校正はゲラまで待たなくても、プリントアウトで十分に行える。もちろん、プリン トアウトで十分に推敲した後、ゲラでもう一度確認するのが最善だが、そうしなければならないわけではない。原稿用紙を使ったことがない世代なら、プリント アウトでのチェックを重視し、ゲラはあまり重視しないのが自然なように思える。このため、第1の種類の翻訳家は少なくなったようだ。

 完全原稿をだす訳者はめずらしいし、ゲラの段階でチェックと校正に全責任を負う翻訳家もめずらしいとすると、大部分の場合、不完全原稿をだれがどうやっ て完全なものにするのであろうか。第2、第3の場合をみていこう。

 第2に、不完全原稿をチェックし訂正し完成させるのが事実上、編集者の役割になっていることが少なくない。原稿をだした段階で自分の仕事は終わったと翻 訳者が考えている場合もある。いまの世の中には、思いつきでものをいえば編集者が本にし、印税を振り込んでくれると考えている「著者」もいるのだから、翻 訳者が無責任なのは驚くほどのことではないのかもしれない(先生、最近のご著書でこう論じていらっしゃいますが、その点について、もう少しくわしくお話い ただけますか……。どの本だい、ああそれね、それはまだ読んでいないので、読んだら答えるよ……)。

 編集者の立場からは、完全原稿をだせるほどの力のない訳者に翻訳を依頼したのが失敗なのであり、失敗の後始末は自分でつけるしかない。何晩徹夜しよう が、大量に訂正して出版できるまでに質を高めなければならない。

 だが現実をみると、編集者が訳者の選択に失敗したと決めつけるのは酷な場合も多い。ではだれに依頼すべきだったのかと編集者に質問されたとき、まともに 答えられる人はまずいないはずだから。そもそも力のある翻訳家が不足しているのだ。完全原稿をだしてくれる翻訳家、原稿は不完全でもゲラで仕上げてくれる 翻訳家は数が少ないので、いつもたくさんの仕事を抱えている。依頼しても断られることが多い。だから、編集者ははじめから半ば諦めている。この翻訳者に依 頼すればまともな原稿ができるなどとは思っていない。翻訳者が自信なげであることにも気づいている(力がないうえに自信満々では、とてもじゃないが依頼で きない)。たとえば、翻訳者がこう渋る。軽い読み物だというので読んでみましたが、情報技術とか経営とかの話がたくさんでてきて、小説が専門のわたしには とても理解できない部分もあるのですが……。そこでこう話す。出版というのはチーム・プレーです、情報技術や経営にくわしい編集者が十分にチェックし、問 題があったら修正しますから、その点さえ了解いただければ、読みやすいこなれた日本語にすることに専念していただきたいと願っていますので……。

 こうして、チーム・プレーという美辞麗句に逃げ込み、編集者にお任せし、ゲラが真っ赤になるほど直してもらって、ようやく恥ずかしくない訳書ができあが るのが現実なのだ。だから、著作者人格権など主張できない。主張した場合に恥をかくのは訳者なのだから。それでも、印税だけはしっかりともらう。印税とい うものは本来、著作者人格権を主張できる完全原稿の対価なのだが。

 要するに、完全原稿をだせるほどの力のある翻訳家は圧倒的に不足しているのである。だから、不完全原稿をチェックし訂正し完成させるのが事実上、編集者 の役割になっていることが少なくないのだ。

 でも不思議ではないだろうか。完全原稿をだせるほどの力のある翻訳家が不足しているとするなら、それは翻訳がきわめてむずかしいからに違いない。だった ら、不完全原稿に赤をいれてまともな本にするのも、やはりきわめてむずかしいのではないだろうか。不完全原稿をチェックし訂正し完成させるのが事実上、編 集者の役割になっているのだとするなら、翻訳家よりも編集者の方が一般的にはるかに優秀だということなのだろうか。

 たしかにそういう場合もないわけではない。簡単な事実をみれば、そういう場合もあるはずだと思える。大手の出版社の場合、編集者は並みの翻訳者とは比較 にならないほど所得が多いことが少なくない。世の中の仕組みを考えれば、所得が多い職業に優秀な人が集まるのが当然である。だが、これはごく一部の大手の 場合だけであり、一般的には編集者はそれほど所得が多いわけではない。それに、給料が高い産業に優秀な人が集まるというのなら、銀行にはよほど優秀な人材 が集まっているはずではないか。不良債権に苦しむなんてことにはなるはずがない。

 それより重要なのは、傍目八目という点だろう。自分の訳文をチェックし修正するのはきわめてむずかしいが、他人の訳文なら比較的容易に問題点を指摘でき る。翻訳に真剣に取り組んだことがある人なら気づいているはずだが、翻訳が難しいのは、原文があるからなのだ。原文があるから翻訳は簡単だと考えるのは素 人だ。実際には、原文があるから、原文に引きずられる。原文がなければ見事な文章を書ける人でも、原文があるから、ふつうなら考えられないような間違いを する。そして、訳者がそうした間違いに陥ったとき、読者の立場から原稿を読んで問題点を指摘するのは、編集者の本来の役割である。翻訳者と編集者では立場 が違い、役割が違うのであり、どちらの方が優秀かという問題ではない。

 そうはいっても、十分な力をもった翻訳家が少ないように、十分な力をもった編集者もそれほど多いわけではない。大量に出版される翻訳書の大部分を訳して いるのが力不足の翻訳者だとするなら、ほんとうに力のある編集者がチェックし訂正できるのは、ごく一部にすぎないはずだ。編集者が忙しすぎて、残りは目を つぶってだすしかない場合が多いはずだ。

 それだけではない。力があきらかに不足している編集者がチェックし手を入れたために、翻訳が逆に悪くなる場合もある。そんな例は山ほどみてきた。たとえ ば原文にin factとあれば「実際」と訳さなければならないと思い込んでいる編集者に悩まされて、本を一冊書いたほどである(『英単語のあぶない常識』ちくま新 書)。編集者と対立するのはまずいのだが、やむを得ないこともある。

 では、十分な力をもつ編集者がチェックし訂正することができなかった翻訳書や、編集者が手を入れてかえって悪くなった翻訳書の場合、どうなるのか。

 第3に、完全原稿をだすだけの力がない訳者が訳し、担当編集者にそれを出版に適した水準まで訂正する時間か能力がない場合、翻訳書はいうならば不完全な まま出版される。この場合、不完全な原稿を完全なものにする役割を担うのは読者である。翻訳書の読者は寛大だ。下手な翻訳にも目をつぶってくれるし、それ だけでなく、下手な訳文からでも何とか意味を汲み取ってくれる。意味を伝える役割を果たしていない訳文から意味を汲み取ってくれるのだから、不完全な原稿 を完全なものにする役割を担っているといえる。

 小説でいうと、たとえば日本人作家の小説には不要な登場人物一覧が翻訳書になぜ必要なのか、考えてみたことがあるだろうか。もちろん、片仮名の人名が覚 えにくいという問題もある。だが、登場人物一覧を何度も何度もみなければ読み進められないのは、会話の部分の訳が悪くて、登場人物の性格がはっきりと描き わけられていないからであることが少なくない。こういうとき、読者は不完全な原稿を完全なものにする役割を担っているのである。

 ノンフィクションの翻訳では、その本でテーマになっている分野について、訳者が関心も知識もなく、わたしの専門は翻訳ですから、専門分野のことは分かり ませんといいたげな訳文になっていることがある。そういう場合、訳者の知識不足を補う役割は読者が果たしている(あの、先日買った新車なんですが、クー ラーがよくきかないし、ヘッドライトもついたりつかなかったりで、電気系統がどうもおかしいのですが……。ご冗談を、お客様、わたしどもは自動車会社です から、電気のことは分かりません。電気系統の話は電気屋さんに行っていただかないと……)。

 そういうわけで、完全原稿をだしてくれる翻訳家はめずらしい。さすがプロだと感嘆する翻訳はめったにない。編集者や校正者が何日も徹夜して努力し、商品 として恥ずかしくない水準まで磨かれて出版された翻訳書もそう多くはない。読者が苦労して読んでいることが少なくない。苦労なんかしていないという意見も あるだろうが、それは悪訳になれているからだ。翻訳とはこういうものだという諦めがある。そしてたいていの場合は、内容の面白さに目を奪われているからだ ろう。原作に力があれば、翻訳は下手でも流し読みに耐えられる本になる。再読には耐えられないとしても、流し読みには耐えられる。

 こういう翻訳書は本棚に置かれることはない。読み捨てにされる。どこに捨てるのか。資源ゴミになるのでなければ、たとえば新古書店にもっていかれる。本 が売れないというときに悪者にされる新古書店には、本があふれている。客も多い。活字離れというがほんとうなのかと聞きたくなるほど多い。

(2004年10月号)