翻訳家と編集者へ
山岡洋一

二葉亭四迷の呪縛

  翻訳というものを勘違いしているのでないか、そんな思いにかられている。それも、一般読者ならともかく翻訳家や編集者が。しかも、翻訳家や 編集者のほとんどが。

 ワールド・シリーズでボストン・レッドソックスが86年ぶりに優勝し、「バンビーノの呪い」がとけたといわれている。日本の翻訳の世界は全体としてみた 場合、100年以上も昔の二葉亭四迷の呪縛から、いまだに抜け出せていないように思える。二葉亭にならって、いやもうお話しにならないというべきか、それ とも子規にならって近頃翻訳は一向に振ひ不申候というべきか。

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 ここ数か月、翻訳格付けを目指して多数の翻訳書をつぎつぎに読んでいった。「翻訳通信」サイトの「名訳」ページで10人ほどの名翻訳家を紹介している が、その数を少なくとも20人前後に増やしたいと考えてきたからだ。まず、現在活躍している翻訳家のリストを作り、何人かから意見を聞いて、そのなかから 評判の良い翻訳家を数十人選んだ。そして原著と訳書が容易に手に入ることを条件に、これら翻訳家の代表作を集めた。まとまった時間がとれた機会に、これら を読んでいった。対象にしたのは、主にエンターテインメント分野の小説である。この分野には優れた翻訳家が集まっていることが分かっていたからだ。「翻訳 通信」サイトの「名訳」ページで紹介している翻訳家もこの分野の人たちだ。

 結果はどうだったか。正直にいって、徒労感だけが残った。ミシュラン方式でいうなら、星をつけられる作品がきわめて少ないのだ。5段階評価でいうなら、 最低の1をつけるしかない作品はほとんどなかったが、定評のある翻訳家の作品だけを読んでいったのだから、これは当然のことだ。だが大部分は2であり、3 以上をつけられる作品は少なかった。そして、3や4をつけられる作品があっても、同じ翻訳家の別の訳書を読んで失望することが多かった。安定して質の高い 翻訳を続けている翻訳家はごくごく少ないのでないかと思った。

 もちろん、探し方が悪かった可能性がある。まず、翻訳書の点数が過去10年に20点以上ある人(約250人)を対象にしたので、点数が少ないというだけ で優れた翻訳家を除外した可能性がある。また、何人かの翻訳関係者の意見を聞いて検討対象を絞り込んだので、その際に漏れた人のなかに優れた翻訳家がいる 可能性もある。さらに、翻訳の質を判断する基準が間違っている可能性もある。だから、優れた翻訳家は他にもいると思われる方には、自薦、他薦を問わず、是 非とも意見を聞かせていただきたいと考えている。

 ひとつだけ、誤解のないようにお願いしたい点がある。翻訳を批評しているのはあくまでも、優れた翻訳家を探したいからである。以下で質が低いと考える翻 訳をとりあげることがあるが、それは、優れた翻訳とはどういうものかを説明するためである。

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 翻訳の質を評価する際に使った基準は、これまでに論じてきたように、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」かどうかである。この 基準に照らして判断したとき、少々不満が残ってもほぼ満足できる質に達している翻訳はきわめて少なく、安定して質の高い翻訳を行っている翻訳家は数えるほ どしかいないと思えた。

 もちろん、対象にした翻訳家は全員、実績があり定評がある人なので、翻訳の質が極端に低いわけではない。だが、奇妙な言い方だと思えるかもしれないが、 これは翻訳であって小説ではないと感じるものが大部分だった。あえて刺激的な言い方をすれば、海外小説の翻訳物の大部分は、小説の文章になっていない。 「翻訳」という特殊分野でしか通用しない文章になっている。それでも読者が翻訳物を買うのは、原作が優れているからであり、翻訳とはこういうものだという 諦めがあるからだ。読者が海外小説の翻訳物にも小説の文章を求めるようになった場合、生き残れる翻訳家はそう多くはないと思う。

 小説の文章と翻訳の文章はどう違うのか。まずはいかにも翻訳という文章をいくつかあげて説明していこう。翻訳書や翻訳者をけなすのは本意ではないので、 以下では問題ありと考える訳文については出典を明らかにしない。固有名詞など、出典を知る手掛かりになる言葉は隠す。そういう事情があるので、出典を隠し た引用という掟破りを容赦いただければ幸いである。また、引用を読んで出典が分かった方にお願いしておきたいことがある。以下で例として使う翻訳はすべ て、いわゆる悪訳ではないし、質が極端に低い翻訳ではない。出版翻訳の平均よりもはるかに質が高いと判断したものだけを評価の対象にしている。そういう作 品でも、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」という基準で評価したときに満足できる水準には達していないというだけである。

例1
 控えめという表現からはかけ離れた傷口から控えめに流れる血から判断すると、○○の心臓は、殴打されてすぐに鼓動を止めた。

 評判の作品の一節である。だが、2回使われている「控えめ」という表現はいただけない。原文をみると、どちらもmodestだ。「控えめな傷口」とか 「控えめに流れる血」とかの表現が日本語にないから良くないといいたいのではない。月並みな表現だけを使っていては、小説の文章にならない。常識の枠を 破って表現の幅を広げるのが小説の文章だし、とくに翻訳物の場合には原文に日本語にはない発想や比喩があるので、表現の幅を広げる機会がたくさんある。だ がこの訳文に、表現の幅を広げようという意図があるのだろうか。翻訳だから読者も許してくれるはずという甘えのある文章だと考えるべきだろう。

 この種の問題はじつはきわめて多いのだが、言葉の選択は判断がきわめてむずかしいし、主観的にならざるをえない。そこでもっと客観的に判断できる例をあ げよう。

例2
「彼女なら冷酷なことができそうだ」彼は沈思にふけるように呟いた。「まちがいない。しかも――かたくなな性格だが――石のように、大理石のように――彼 女は不安に怯えている。一体なにを恐れているのでしょう?」

  "Yes, she could be ruthless," he said musingly.  "I am quite sure of that.  And yet―though she is so hard―like stone, like marble―yet she is afraid.  What is she afraid of?"

 やはり文句のつけようがないほど実績があり、定評がある翻訳家の作品である。これが「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」かどう かは、音読してみればすぐに分かる。「石のように、大理石のように――彼女は不安に怯えている」とは何と奇抜な比喩だと思えるかもしれない。だが、もちろ んこんな比喩はありえない。

 原文を音読すると、問題がどこにあるかすぐに気づく。「石のように、大理石のように――彼女は不安に怯えている」ではない。「かたくなな性格だが――石 のように、大理石のように」なのだ。原文にダッシュが3つあり、訳文でもそのままの位置にダッシュを3つ使った。これでもほんの少し工夫すれば、たとえば 「かたくなな性格だが――石のように、大理石のようにかたくなだが」とすれば、台詞になる。そうした工夫がないから、笑うか怒るかしかない訳文になった。 同様の例はいくつも見つかる。

例3
「いいじゃないか。個人的な見方のほうが向いているんだ! これは、人間に関する物語だ――人形の話なんかじゃない! 個人的な見方でけっこうだ――偏見 をもつのも自由だ――猫のような底意地の悪い見方でも――好きなように書いてくれればいい! 書き方はすべてきみにまかせる。中傷的すぎると思われる個所 があったら、あとで削除すればいい! ぜひ書いて欲しい。きみは感受性の鋭い人間だから、鋭い感性と良識のいきとどいた記録ができるはずだ」

  "God bless my soul, woman, the more personal you are the better!  This is a story of human beings―not dummies!  Be personal―be prejudiced―be catty―be anything you please!  Write the thing your own way.  We can always prune out the bits that are libellous afterwards!  You go ahead. You're a sensible woman, and you'll give a sensible common-sense account of the business."

 この例で目立つのは、ダッシュもそうだが、それ以上に、感嘆符を原文と同じ位置に同じ数使っていることだ。原文に感嘆符が4つあり、訳文でも同じ位置に 感嘆符が4つある。ところが日本語の文章では、感嘆符はそう使うものではない。あまり使われない理由は、この訳文を見ただけで理解できるかもしれない。訳 文を読むのではなく、見てほしい。訳書は縦書きなので、ここでの横書きよりはっきりするのだが、感嘆符は目立ちすぎるのだ。日本語の場合、疑問符もそうだ が、感嘆符には全角で2字分使うことになっている。感嘆符が1字分あり、次に1字分の空白が入る。だからいやというほど目立つ。英語の原文をみてみるとい い。感嘆符はピリオッドとほとんど変わらないほどのスペースしか使っていない。だから、それほど目立たない。

 原著者が日本語で書いたとすると、これほど感嘆符を多用するだろうか。するとは思えない。感嘆符はひとつも使わないだろうと思う。

例4
 家をまわって納屋に行きついたふたりは、噛みつくことは不得手でも吠えることは得意な番犬の○○が、警戒の声をまったくあげなかった理由をひと目で見て とった。○○は、納屋をつくるときにあまった材木でつくられた犬小屋(犬小屋正面の丸い形にあけられた出入口には、きれいな字で《○○》と名前が書かれた 表札がかかげてあった――わたしはこれを、ある新聞に掲載されていた写真で見た)から、半身を外に出して横たわっていた。首がねじりあげられ、頭部がほぼ 完全に一回転してしまっていた。

  They went around the barn, and saw almost at once why XXX, a bad biter but a good barker, hadn't sounded the alarm.  He lay half in and half out of a doghouse which had been built of leftover barnboards (there was a signboard with the word VVV neatly printed on it over the curved hole in the front―I saw a photograph of it in one of the papers), his head turned most of the way around on his neck.

 これはカッコの例だ。訳者は原文にカッコがあるから、訳文の同じ個所にカッコを使った。何が悪いと思うかもしれない。だが、現著者はこの小説を朗読して 楽しんでほしいと書いている。だからまず原文を朗読し、つぎに訳文を朗読してみるといい。訳文は朗読不可能であり、黙読すら容易ではない。だから、原著者 が日本語で書いたとすると、こんなカッコの使い方をするわけがないと思えるはずだ。

 繰り返しになるが、以上はいずれも実績があり、定評がある翻訳家の作品である。ところがどれも、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える 翻訳」にはなっていない。翻訳というものを勘違いしているのでないか、と思える文章だ。それでも読んでもらえるのは、原作が優れているからであり、翻訳と はこういうものだという諦めが読者にあるからではないだろうか。そうではない、翻訳が優れているからだというのであれば、是非とも反論をお願いしたい。

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 原文にダッシュが3つあれば訳文にもダッシュが3つ、原文の感嘆符が4つあれば訳文にも感嘆符が4つ。こういう翻訳を百点近くも読んで、思い出したのが 二葉亭四迷の「余が翻訳の標準」だ。インターネットの青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)に収録されているし、数ページの短い 文章なので、読んでみるようすすめる。この評論でいちばん有名な部分をまず引用しておこう。引用には、二葉亭四迷著『平凡、私は懐疑派だ』(講談社学芸文 庫)の245〜251ページに収録されているものを使ったが、わずか7ページの短い評論なので、以下ではわずらわしさを避けるために引用箇所のページを示 さない。

 されば、外国文を翻訳する場合に、意味ばかりを考えて、これに重きを置くと原文をこ わす虞〔おそれ〕がある。須〔すべか〕らく原文の音調を呑み込んで、それを移すようにせねばならぬと、こう自分は信じたので、コンマ、ピリオドの一つをも 濫〔みだり〕に棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風にして、原文の調子を移そうとした。 殊に翻訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏〔ひと〕えに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労したのだが、さて 実際はなかなか思うように行かぬ、中にはどうしても自分の標準に合わすことの出来ぬものもあった。

「余が翻訳の標準」は1906年に発表されているが、このように苦闘したのは、1888年(明治21年)にツルゲーネフ「あひヾき」を発表したころであろ う。当時、二葉亭四迷は24歳であった。

 それから100年以上たって、翻訳ははたして少しでも前進したのかと、ため息のひとつもついてみたくなる。原文にダッシュが3つあれば訳文にもダッシュ が3つ、原文の感嘆符が4つあれば訳文にも感嘆符が4つ。二葉亭のいう標準に合った訳文だと思えるかも知れないが、そうではない。二葉亭四迷は外国文に 「自ら一種の音調があって、声を出して読むとよく抑揚が整うている」ことに気づき、「苟〔いやし〕くも外国語を翻訳しようというからには、必ずやその文調 をも移さねばならぬ」と考え、これを「先ず形の上の標準とした」のである。その理由を以下のように説明している。

 併し乍ら、元来文章の形は自ら其の人の詩想に依って異なるので、ツルゲーネフにはツ ルゲーネフの文体があり、トルストイにはトルストイの文体がある。……文体は其の人の詩想と密着の関係を有し、文調は各自に異なっている。従ってこれを翻 訳するに方っても、或る一種の文体を以て何人にでも当て嵌める訳には行かぬ。……心身を原作者の儘にして、忠実に其の詩想を移す位でなければならぬ。是れ 実に翻訳における根本的必要条件である。

 二葉亭は原文の「詩想」、それに基づく文体を移すために形を大切にした。上にあげた例2〜4は原文の形をそのまま残したために、声を出して読むと笑いた くなるような訳文になった。100年前から前進したどころか、堕落したのである。

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 二葉亭四迷は原文の形を崩さない翻訳を目指した結果、「いや実に読みづらい」「ぎくしゃくして如何にとも出来栄えが悪い」訳文になったと述べている。そ して、「外に翻訳の方法はないかと種々〔いろいろ〕研究してみると、ジュコーフスキー一流のやり方が面白いと思われた」という。ジュコーフスキーのバイロ ン訳は「原文の韻のあるのを無韻にしたり、或は原文にない形容詞や副詞を附け」るなど、「多くは原文を全く崩して、自分勝手の詩形とし、唯だ意味だけを訳 している」が、「其のイムプレッションを考えて見ると、如何にもバイロン的だ」。このように「形は全く別にして、唯だ原作に含まれたる詩想を発揮する方が よい」と考えた。だが、そうはできなかったと二葉亭四迷は述べている。

……従来やり来った翻訳法で見ると、よし成功はしない乍らも、形は原文に捉〔つか ま〕っているのだから、非常にやり損うことがない。けれども、ジュコーフスキー流にやると、成功すれば光彩燦然たる者であるが、もし失敗したが最後、これ ほど見じめなものはないのだから、余程自分の手腕〔うで〕を信ずる念がないとやりきれぬ。自分はさすがにそれほど大胆ではなかったので、どうも剣呑〔けん のん〕に思われ断行し得なかった。

 原文には形があり、意味がある。形を重視するのが直訳、意味を重視するのが意訳だともいえる。だが二葉亭四迷が考えた点は、それほど単純ではなかった。 形とは文体であり、文体を決めるのは「詩想」だと云う。そして、二葉亭が目指したのは原文の意味と形を同時に伝える訳文、それによって原文の調子、文体を 維持し、その背後にある「詩想」を伝える訳文だったのだ。

 これを明治20年ごろに目指したのは、日本の翻訳の歴史を考えれば、とてつもないことだったと思える。明治20年といえば、『解体新書』からは100年 以上がたっていたとはいえ、欧米の文献の翻訳が本格化してからまだ一世代たっていない時期だ。

 明治初期の翻訳については「15年に数千点―明治初期の大翻訳時代」(「翻訳通信」2004年3月号)で紹介した。当時の人たちが、たとえば societyという何でもない言葉の翻訳にどれほど苦闘したかは、「19世紀の翻訳と20世紀の翻訳」(「翻訳通信」2004年4月号)で論じた。その 記事で紹介した中村正直訳『自由之理』は明治5年に刊行されている。当時、日本と欧米の間には文化にきわめて大きな違いがあった。このため、欧米の文化背 景を前提にして書かれた本を理解するのはむずかしく、まして日本語に訳すのはきわめて困難だった。そこで当時の翻訳は直訳にも意訳にもなりえず、翻案に近 いものにならざるをえなかった。

 中村正直の『自由之理』から二葉亭四迷の「あひヾき」まで、わずか16年であることを考えると、「余が翻訳の標準」はじつにおどろくべき評論だと思う。 何におどろくかというと、ツルゲーネフやトルストイの原文を理解し、その意味を日本語で伝えることがいかに困難かについては何も書かれていないことだ。二 葉亭四迷が苦労したのは、意味を伝えると同時に、原文の形、調子、文体、詩想を伝えるにはどうすればいいのかであった。

 もちろん、この16年には数千点の翻訳書が出版され、さまざまな訳語が作られたので、「翻訳の標準」をここまで高めたいと考えられる状況になっていたの かもしれない。だが、二葉亭自身が「余が翻訳の標準」の最後に「近頃のは、いやもうお話しにならない」と述べているように、当時の時代背景を考えれば、こ の標準は高すぎたのだろう。その後の翻訳の歴史をみていくと、原文を理解し、その意味を日本語で伝えることなど、とてもできないとされていたようだ。原文 の意味を理解できないのであれば、せめて原文の表面を伝えようとする翻訳が主流になったからだ。こうして一般的になったのが、原文の単語や構文のそれぞれ に訳し方を決めて一対一対応で訳す直訳型のスタイルである。つまり、二葉亭がいう原文の形、原文の調子と文体、その背後にある「詩想」を諦めたうえで、 「原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風に」訳す方法だけを踏襲するようになったのである。

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 今回、翻訳の質を評価する際に使った基準は、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」かどうかである。この基準では、二葉亭四迷ほ どの人物が達成できなかった点をいまの翻訳家に求めることになるのだろうか。ある意味ではそうだが、これがいまの時代に厳しすぎるとは思わない。当時とい までは時代が違うからだ。

 翻訳とはどういうものか、日頃の仕事のなかで感じている点を図式化すると、以下の図のようになる。この図からさまざまな点が考えられ、翻訳の難しさもそ のひとつだ。翻訳の難しさは、原著の著者と読者が共有する文化と、訳書の翻訳者と読者が共有する文化との間にどれだけの距離があるかに比例すると思う。逆 に、この2つの文化の間で重なる部分、共通する部分が多いほど、翻訳は容易になると思う。二葉亭四迷の「あひヾき」から100年以上がたって、欧米と日本 の文化の距離は極端に縮まっている。だから、二葉亭四迷が当時としては高すぎる基準を掲げて陥った呪縛も、いまでは力をもたなくなっているはずである。

 だが、時代は変わっても、考え方はなかなか変わらない。いまだに、翻訳家の多くは原文にダッシュが3つあれば訳文にもダッシュが3つ、原文の感嘆符が4 つあれば訳文にも感嘆符が4つという訳し方をしている。もっと自由になってもいいと思う。そういう観点から、今回、数十人の翻訳家の作品を読んでいったと きに見つけた名訳を紹介しよう。

例5
「……きみのしたことは、職務放棄だ。きみさえ職務を果たしていれば、殺人事件の犯人をみすみす取り逃すこともなかっただろう。死体遺棄の現行犯で、逮捕 することができれば――」
「ちょっと待った、警視〔スーパー〕」フロストはマレットのことばを遮った。「犯人の野郎を、今夜、死体遺棄の現行犯でパクるなんて、どうすりゃできたん です? あの死体は、鼻ももげちまいそうなその馨〔かぐわ〕しき体臭でもって、納骨堂の空気を八週間にわたって汚染し続けてきたってのに?」(芹澤恵訳 R.D.ウィングフィールド著『夜のフロスト』創元推理文庫、125ページ)

 '... If you had been doing your damn job you'd have caught the murderer in the act of dumping the damn body ...'
  'Hold on, Super,' Frost interrupted. 'How could I have caught him in the act of dumping the damn body tonight when it's been stinking the flaming vault out for eight weeks?' (R. D. Wingfield, Night Frost, Bantam Books, p. 57)

 このフロスト・シリーズは、翻訳された3作がいずれも『このミス』か『週刊文春』で第1位に選ばれている。訳書を読むと、なるほどと納得できる。善玉の 主人公と悪玉の敵役の性格がくっきりと描かれていて、安心して読めるのだ。悪役は上にへつらい下をいじめる警察署長らの官僚だ。犯人はたいてい、どこか愚 かでどこかかわいそうな敗残者だ。善玉の主人公、フロスト警部は上司らに嫌われいじめられながら、面白くもない冗談をとばし、あぶなっかしく乱暴な方法で 事件をつぎつぎに解決していく。登場人物の性格がここまで明確だと、翻訳は楽だろうとも思える。

 引用した部分はマレット署長とフロスト警部の性格を見事に示す会話だ。居丈高な署長、はちゃめちゃな警部、人物像がはっきりしているから楽しく読める。 たぶん、翻訳してても楽しかっただろうと思える。だが、原文と訳文を見比べると、意外なことがわかる。たとえば、マレット署長はdamn job、damn bodyといっており、フロストとあまり変わらない言葉を使っている。署長がmurdererといい、フロストがそれをhimと表現しているのに、訳文で はマレットが「犯人」といい、フロストが「犯人の野郎」といっている。また、原文でbe stinkingとなっているフロストの言葉が、訳文では「鼻ももげちまいそうなその馨〔かぐわ〕しき体臭でもって……汚染し続けてきた」になっている。 逆に、the flaming vault (flamingはdamnと同義)が「納骨堂」になっている。

 要するに、芹澤恵は登場人物の人物像を作り上げて、それぞれにふさわしい台詞をかなり自由に書いている。原文から思い切って飛躍し、それによって原文の 味を示す方法をとっているのだ。たとえば、マレット署長が2回使っているdamnをなぜ訳さないのかという意見もあるだろう。そう思うのであればやってみ ればいい。「くそったれ職務」とか「いまいましい死体」とかにすればいい。そうしたとき、マレット署長の人物像は崩れる。上司や有力者に媚び、規則をふり かざして部下をいじめる鼻持ちならない役人は、こういう言葉を使わないからだ。

 もうひとつ例をあげよう。放火現場で火災犯担当の捜査官とフロスト警部が話している場面から引用する。

例6
「間違いない。本格的な捜査はまだこれからだが、点火装置に使われたのは、おそらくそれほど手の込んだものじゃない――裸の蝋燭あたりだな。現物が見つか りゃ、もう少しいろんなことがわかるだろうが」
「おれの好みは知ってるだろう?」とフロストは言った。「裸が出てくる話なら、いつでも聞くぞ」芝生に溜まった水を蹴散らしながら、フロストはドライヴ ウェイまで戻った。(同上25ページ)

   'No doubt about it.  I'm still checking, but it was probably set off by some crude form of fuse ― a candle or something.  I'll be able to tell you more when I find it.'
  'You know me,' said frost.  'If it's crude, I'm interested.'  He squelched back to the drive.  (Ibid., p. 9)

 原文では、some crude form of fuseとあるのを受けて、フロストがcrudeなら興味があると答えている。これを訳出するのは容易ではない。ふつうに使われるのがルビだ。たとえば、 「粗雑な点火装置」と訳して、「粗雑」の部分に〔クルード〕とルビを振り、つぎに「裸」の部分にも同じルビを振る。このようなルビをみると、以前に同時通 訳者から聞いた話を思い出す。面白くもない冗談をとばして、聴衆が笑わないと不機嫌になる大物がいる。こういう大物の訪米に同行して通訳をするとき、「こ こで冗談をいいましたので、みなさんお笑いください」といえば、たいてい笑ってもらえるのだそうだ。英語でいうのだから本人に気づかれる心配もない。

 芹澤恵の訳をみると、点火装置の方は「それほど手の込んだものじゃない」とさらっと訳し、蝋燭のところに「裸の」をもってきた。少々苦しいんじゃな い……、という見方もあるかもしれないが、スマートなやり方だと思う。原文から思い切って飛躍し、それによって原文の味を示す方法をとっている。二葉亭四 迷のいうジュコーフスキー流の訳し方になっている。「原文を全く崩して、自分勝手の」文章にしながら、原文の味を見事にだしているのである。

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 翻訳には通常、いくつもの規範がある。もっとも重要な規範は、翻訳とは原著の意図に忠実でなければならないというものである。訳者は原著の意図から離れ てはならない。この規範を無視すると、翻訳は翻訳ではなくなる。翻案になり、創作になる。芹澤恵の翻訳がこの規範を遵守していることに疑問の余地はない。

 これ以外の規範もある。たとえば、原文にdamn bodyとあれば、形容詞+名詞で訳し、原文にa candleと書かれている以上、「裸の蝋燭」とは訳さないのが正しいとされるのが通常だ。このような規範は、原文の単語や構文のそれぞれに訳し方を決め て一対一対応で訳す直訳型のスタイルで作られたものだ。いまでは、この規範に忠実な翻訳はたいてい、英文和訳のようになり、質の低いものになる。だが、た いていの翻訳者はこの規範を守る。なぜか。それが掟だからだろうか。それもある。しかし、それ以外の要因もある。この規範を守っていれば、文句をいわれる 気遣いがないうえ、楽に翻訳ができるのだ。慣れてくれば、ほとんど機械的に翻訳ができるようにすらなる。意味を考えることも、原著者の意図を考えること も、読者の反応を考えることもなく、訳文を作っていける。だから、仕事が早い翻訳者のほとんどはこの規範を守っている。ほんとうだ。

 だが、この規範を無視する方法もある。芹澤恵がフロスト・シリーズでとった方法だ。この規範を無視すると、訳文の選択の幅が大きくなる。自由になる。そ の代わり、意味を考え、原著者の意図を考え、読者の反応を考えなければ、訳文をつくることができなくなる。翻訳が格段にむずかしくなるのだ。芹澤恵のフロ スト・シリーズの訳は、この規範を思い切って無視したときに何ができるかを示したものだといえよう。

 しかし、それだけではない。規範は悪とはかぎらない。規範があるから、すぐれた作品が生まれることもある。原文の1語に訳文で1語をあてはめていくとい う規範を最大限に遵守しながら、原文の意味を伝えると同時に原文の味をだし、文体、音調を伝える方法もある。いいかえれば、二葉亭四迷が目指した理想を追 求する方法もある。この方法をとると、翻訳はいやというほどむずかしくなり、いやというほど時間がかかる。なにしろ、英語と日本語では性格が大きく違うの だ。英語で書かれた文章の形を最大限に尊重しながら、原文の味を活かした訳文を書こうとすると、両腕をしばられながら綱渡りをするような状態になる。二葉 亭四迷が「いや実に読みづらい」「ぎくしゃくして如何にとも出来栄えが悪い」訳文になったと嘆くのも無理はない。

 だが、二葉亭四迷がこう嘆いてから120年近くが経過しているのだ。この間に日本の翻訳文化は栄え、欧米の知識や考え方、表現や感情をかなりの程度まで 理解し、取り入れることができた。二葉亭四迷の時代に極端だった欧米と日本の文化の違いが、相当程度まで縮小した。だから、当時と比較すれば、原文の形を 最大限に尊重しながら、原文の味を活かした訳文を書くことが、かなり容易になったはずだ。そしてたとえば、村上博基、小尾芙佐、芝山幹郎らはそういう翻訳 を行っている。

 一例として、芝山幹郎の『カクテル』の一節を引用しよう。じつは2004年9月号でこの部分を引用したのだが、みっともない誤植に気づかないまま発行し てしまった。訂正済みのものを掲載する。原文の味を見事に日本語で再現していることが分かるだろう。

例7
 それでもこの仕事はやめられなかった。夕方の早い時間の酒場には、なにかがある。たとえば、窓をぬけて差し込んでくる光の矢が酒壜を射抜く。角氷を二、 三個ロックグラスに落とし、それを掲げてみる。するとどうだ、グラスはプリズムになるではないか。マティーニの縁どりは水銀のようにゆらめく。マンハッタ ンは幼年時代の恋人の髪のように、たそがれのなかで鳶色にゆれる。ニュージャージーのむこうに太陽がおおいそぎで沈むと、カクテルは夕方よりもきりりと冷 え、さっきより早足で脳髄にとどく。娘たちはきれいになる。今夜、もしかすると生涯の恋人に出会えるかもしれない。そんな期待の気配を、彼女たちは身にま とうのだ。くちびるがまんなかで分かれ、身をのりだして人の話に耳をかたむけ、いつもより大きな声で長く笑うようになる。男たちはめいっぱい優雅にふるま おうとする。「プリーズ」と「サンキュー」と「エクスキューズ・ミー」とが店にあふれる。こうしたカクテル・アワーに喧嘩を見かけることはめったにない。 客を力ずくで店から追い出さなければならない事態も、まずないといってよい。もめごとが生じるのはもっとあと、闇の色が濃くなってからのことだ。なにもか もが有刺鉄線のようにささくれだち、娘たちの髪は乱れ、男たちはふさぎこみ……そう、希望がすべて死に絶えてしまってからのことだ。(芝山幹郎訳グールド 著『カクテル』文春文庫442〜443ページ)

  I couldn't not help it.  There's something about a saloon in the shank of the evening.  The way the light streams through the windows and hit the bottles.  You drop a few ice cubes in a rock glass, hold it up, and bingo, you've got a prism.  Martinis have a quicksilver glitter about them.  Manhattans are auburn in the twilight like the hair of your childhood sweetheart.  As the sun sinks quickly behind New Jersey, the cocktails are colder, they reach your brain quicker.  The girls are prettier. They have an expectant air about them as if this might be the night they meet the love of their lives.  Their lips are parted, they lean forward to listen with a bit more attention, they laugh louder and longer.  The guys are on their best behavior, "pleases," "thank-yous," "excuse mes," all over the place.  You very rarely see a fight during the cocktail hour, and almost never have to make a forcible ejection.  That comes later, in the dark of night, when everything goes down like barbed wire, the girls are disheveled, the guys are brooding ― and all hopes have gone for naught. (Heywood Gould, Cocktail, Pocket Books, p. 254)


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 このように少数ながらも優れた翻訳家がいるのは素晴らしいことだ。だが、100年も前に、原文の意味を理解できないのであれば、せめて原文の表面を伝え ようという意図のもとで作られた翻訳のスタイルを、いまだに大部分の翻訳家が維持しつづけているように思える点は問題ではないだろうか。

 そうしたスタイルが維持されている一因は、おそらく編集者にある。原文にダッシュが3つあれば訳文にもダッシュが3つ、原文の感嘆符が4つあれば訳文に も感嘆符が4つという翻訳、しかも、それによって原文の「音調」を崩してしまう翻訳、こういう翻訳を編集者が許容している点にも問題がある。なかには、そ ういう翻訳を要求する編集者すらいる。編集者は出版翻訳の発注者であり、若手の翻訳家にとってはコーチでもある。だから、編集者が要求する翻訳のスタイル を翻訳者は尊重しないわけにはいかない。

「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」ができる翻訳家、そういう翻訳を求める編集者がもっと増えなければいけない。読者は翻訳文体 をほんとうに我慢してくれているのだろうか。海外小説の翻訳物なら、小説の文章で訳してほしいと望んでいるのではないだろうか。

2004年11月号