翻訳についての断章
山岡洋一
新世 代の翻訳家に期待


  世の中は気づかない間に大きく変わっている。翻訳の世界も例外ではない。
 そう実感したのは、ある編集者と話していたときだ。学者に翻訳を依頼すると、時間がかかりすぎるし、徹底して直さなければならなくなるので、手がかかり すぎる、だから学者にはもう翻訳は頼みたくないというのだ。いまさら驚くような話ではないと思えるかもしれないが、個人的には感慨深いものがあった。その 編集者が所属する出版社には苦い思い出があったからだ。
 十数年前、産業翻訳に限界を感じて、出版翻訳に重点を移していこうと考えた。経済、経営、政治などのノンフィクション分野なら勝負ができると考えたの で、この分野でどのような翻訳家がどのような仕事をしているのかを調べた。この分野で活躍している翻訳家は事実上ひとりしかいない。その人の訳文を検討 し、これなら負けるはずがないと思った。自信満々で営業に行った先が、その出版社だった。そして、すっかり落胆した。「うちは学者か専門家に依頼していま す。翻訳専業の方にお願いすることはありません」といわれたのだ。学者や専門家というのは名前だけで、じつは学生か院生の下手な下訳をそのままだしている だけではありませんかなどと反論して、気分を害される結果になった。この分野で活躍している翻訳家が事実上ひとりしかいないのは、需要がないからだったの だ。
 あれから十数年たって、同じ出版社の編集者が、学者には翻訳は頼みたくないという。そういう話を聞いて考えてみると、いまでは経済、経営、政治などのノ ンフィクション分野だけでも、数十人の翻訳家(つまり、翻訳専業の人)が活躍している。一般読者向けの本は翻訳家が訳すのが常識になり、学者や専門家が訳 すことはほとんどなくなった。それだけでなく、かなり専門的な本や、古典に近い本も翻訳家が訳すようになっている。翻訳の世界は様変わりしたといえるので はないだろうか。

餅は餅屋なのか
 いまの感覚で考えれば、餅は餅屋、翻訳は翻訳屋ではないかと思えるかもしれないが、少なくとも十数年前まで、そうは考えられていなかった。餅は餅屋だか らこそ、翻訳は学者や専門家に依頼するものだったのだ。少し考えてみれば、その理由はすぐに分かる。
 150年少し前に黒船が来航したとき、日本は欧米がはるかに優れた知識と文化をもっていることを思い知らされた。そこで明治政府は学校制度を作り、その 頂点にたつ帝国大学などの教育研究機関に、欧米の優れた知識と文化を吸収し、国内に広める任務を与えた。欧米の優れた知識を吸収し広めるために使われた方 法はいくつかあるが、主要な方法のひとつが翻訳である。だから当時、翻訳は、学者や専門家にとって副次的な仕事などではなく、主要な仕事のひとつであっ た。翻訳とは、時代を代表する学者が取り組むべき仕事だった。大学とは翻訳者養成機関だったといってもそれほどの誇張にはならない。
 個人が欧米の優れた知識を学ぶことだけが目的であれば、外国語を学び、外国語で教育を受け、外国語で考えるようにすればいい。翻訳という厄介な方法をと る必要はない。だが、その結果、外国語で教育を受けたエリートと一般大衆の間に大きな溝ができる。エリートは海外に流出し、成功する人もでてくるだろう が、国内は貧困から抜け出せない。これが当時の後進国のたどった道だ(いまでもそういう国は多い)。日本は19世紀後半、欧米以外の国としてはまず例がな いほど徹底して翻訳を行った。この点と、日本が欧米以外の国でははじめて近代化に成功したこととの間に関連がなかったとは思えない。翻訳とは、言語共同体 としての民族が他の民族から知識や文化、技術、考え方、情報などを学び取り入れるための方法である。欧米の優れた知識を国民の間に広めようとするとき、柱 のひとつになる方法である。その仕事を担ったのが、学者や専門家であった。だから、翻訳は学者や専門家に依頼すべきものだったのである。

ハードルを上げる
 ではなぜ、十数年前には学者や専門家に依頼するのが当然だったノンフィクション翻訳が、いまでは専業の翻訳家に依頼するのが当然だと思われるようになっ たのだろうか。わずかな期間に、考え方がこれほど大きく変わったのはなぜなのだろうか。
 十数年前、自信満々で出版社に営業に行ったのは、何よりも、ノンフィクション出版翻訳に不満を感じていたからである。世間知らずの産業翻訳者がそう感じ たからといって、たとえば出版社の編集者がそう感じていたとはかぎらない。読者の大部分もそうは感じていなかったはずだ。それでも、不満を感じている人間 がひとりいれば、そして不満が根拠のあるものであれば、同じように感じる可能性のある人が数万人や数十万人いても不思議ではない。また、自分ならもっと質 の高い翻訳ができると考える人が何十人か何百人いても不思議ではない。そのなかから偶然、出版翻訳の機会を得る人がでてきて、問題点を解決する翻訳ができ れば、潜在的なものにすぎなかった不満が一気に表面化することがある。
 ではどういう不満が表面化したのか。大きく分けて翻訳のスピードに関する不満と翻訳の質に関する不満があったことが前述の編集者の話から分かる。
 ノンフィクション翻訳について編集者が見方を変えた最大の理由は、おそらく翻訳に要する時間である。学者に依頼すると時間がかかりすぎるのだ。産業翻訳 者はいつも時間勝負の仕事をしているから、一刻も速く翻訳を仕上げるという習慣が身についている。学者や専門家はたいてい、そういう感覚をもたないから、 翻訳に時間がかかる。それに専業の翻訳者なら、必要に迫られれば、月に300時間以上を翻訳にかけることもできる。学者や専門家がかけられる時間はせいぜ い月に数十時間だろう。このため、専業の翻訳者と学者では1冊の本の翻訳にかかる時間がまるで違う。経済、経営、政治などのノンフィクション分野にはタイ ミングが重要で、翻訳のスピードが決定的な意味をもつものがある。専業の翻訳者はおそらく、翻訳に期間がかかりすぎるという問題を解決する点で、編集者に とって便利だったのだろう。
 ノンフィクション分野で何人かの専業の翻訳者が活躍するようになって、翻訳のスピードという点でハードルが上がった。学者や専門家はひとつにはこのハー ドルを越えることができなかったために、脱落していったのだろう。
 もうひとつの要因は翻訳の質である。この点でも、おそらくはハードルが上がり、ほとんどの学者や専門家が越えられなくなった。だからこそ、学者に翻訳を 依頼すると、徹底して直さなければならなくなり、手がかかりすぎるという話になる。
 学者が訳し、編集者が徹底して直すほどの余裕がなかったとき、どういう翻訳書ができかねないかは、いまではたいていの読者が知っている。だから、編集者 がこのようにこぼしている話を聞いても、誰も不思議に思わない。だが、よく考えてみると、これは何とも不思議な話のはずだ。学者というからには、その本の 内容を編集者とは比較にならないほどよく理解しているはずだ。学者は教育者でもあるから、その本の内容を読者に伝えるためにどのような言葉を使い、どのよ うに書けばいいのかを理解しているはずだ。学者の訳文にいってみれば素人同然の編集者が手を入れたりすれば、間違いだらけのとんでもない翻訳書ができるの ではないだろうか。
 現実には、編集者が手をくわえたために、正しく訳されていたものが間違いになる場合があることは容易に想像がつく。だが、ほとんどの場合、編集者が徹底 して直してくれれば、はるかに「読みやすい」文章になることを、たいていの読者が知っている。なぜなのか。たいていの場合、学者が使う翻訳のスタイルが読 者の要求にあわなくなっているからだ。いわゆる翻訳調、英文和訳調の翻訳のスタイルをいまだに使いつづけているので、「読みにくい」訳文になる。編集者は そういうスタイルの翻訳では読者が受け入れないことをよく知っているので、徹底して直さなければならないと感じているのである。
 わずか十数年で読者の要求が変わり、編集者の姿勢が変わった。大部分の学者は少なくとも翻訳のスタイルという点で変わっていないから、十数年前に「翻訳 は学者か専門家に依頼します」といっていた出版社が、いまでは「学者には翻訳を頼みたくない」というまでになっているのである。こうなった背景にはいくつ かの要因がある。
 第1に、社会が変化した。欧米の優れた知識を吸収し伝える努力が奏功し、科学や技術、経済や社会、文化の面で欧米との距離が縮小するとともに、学者や専 門家の仕事のうち、翻訳の地位が下がってくるのは避けられないことであった。現に「翻訳学問」という言葉で、学者や専門家の努力不足が非難されるように なっていた。翻訳ばかりやっていないで、自前の研究を進めてほしいというわけだ。学者や専門家の間で、翻訳に本気になって取り組む姿勢が薄れたとしても不 思議ではない。そうなれば、本気で翻訳に取り組む専業翻訳者にいつか、翻訳の質の点で追い抜かれる。
 第2に、専業の翻訳者の数が増えた。社会が豊かになり、国際化が進むとともに、翻訳の需要が増え、学者や専門家だけではまかないきれなくなった。たとえ は小説のうち純文学と呼ばれる分野の翻訳は英文学者、仏文学者などと呼ばれる人たちが担ってきたが、一般読者向けのミステリー、SFなどは学者が敬遠した ためだろうが、翻訳家が担うのが常識になってきた。産業翻訳の分野でも、専業翻訳者の層が厚くなった。
 第3に、専業翻訳家が訳した質の高い翻訳書が増えた。この点がとくに目立つのは、一般読者向けの娯楽であるミステリーやSFなどの分野であった。いまで は理解しにくいかもしれないが、以前には大衆向けの娯楽として書かれた小説であっても、欧米の進んだ文化や社会を学ぶための教材として扱われていた。たと えば居住まいを正し、原書と辞書を横に置き、翻訳でシャーロック・ホームズを読む。そういう読者を想定すれば、翻訳は英文和訳調でなければならないとされ てきた理由が理解できるはずだ。だが、ソファーに寝ころがってキングのホラーを読む読者を想定したとき、英文和訳調ではまずいという理由も理解できるはず だ。このため、質の高い翻訳はまず、エンターテインメントの分野で目立つようになった。
 エンターテインメントの小説の分野で質の高い翻訳が目立つようになると、他の分野、たとえば経済や経営、政治などのノンフィクション翻訳の分野でも、翻 訳の質に不満を感じる人がでてくる。小説でできることがなぜ、ノンフィクションの分野でできないのかという不満である。不満というのは代案があるからこそ 感じるものだ。翻訳がすべて英文和訳調で行われているのであれば、そのことに不満を感じる人は少ないはずだ。だが、専業の翻訳家による代案をみせられれ ば、英文和訳調の翻訳に不満を感じる人が増える。
 ノンフィクション翻訳の主な目的は娯楽ではない。優れた知識や考え方、情報の吸収である。だが、娯楽を主な目的とする分野でできることが、知識や考え 方、情報の吸収を目的とするノンフィクションの分野でできないはずがない。ノンフィクション翻訳の分野で翻訳の質に不満を感じる人が少なからずいたとして も不思議ではない。その後、英文和訳調の牙城であった哲学の分野ですら、長谷川宏のヘーゲル訳があらわれ、代案があることが明確になった。

外国の優れた知識や文化を伝える仕事を誰が担うのか
 要するに、出版翻訳の世界では気づかない間にハードルが上がり、それを越えられない学者や専門家はかなりの分野で、翻訳から撤退したのだ。少なくとも翻 訳という形で、外国の優れた知識や文化を日本に紹介する仕事から降りてしまった。もっと時代に即した有意義な仕事をしていると思いたい。だが、翻訳を通じ て外国から優れた知識や文化を吸収すること自体が不要になったわけではない。簡単な事実をみてみれば、その点はすぐに納得できる。
 世界の人口は約60億人、そのうち日本語を母語にする人は約1億2600万人だから、世界全体の知識や文化のうち、日本語で考えられ、話され、書かれて いる部分の比率は単純に考えれば2%ほどにすぎないはずである。残りの98%は何らかの外国語で考えられ、話され、書かれている。日本がとくに遅れている 状況ではなくなったとしても、世界全体の優れた知識や文化のうち圧倒的な部分が外国語によるものだという事実に変わりはない。翻訳が重要であることに変わ りはない。
 では、大切な翻訳を誰が担うのか。学者や専門家が事実上この仕事から降りたいま、専業の翻訳者しかいないのはたしかな事実だろう。

ハードルをもう一段上げよう
 過去十数年にノンフィクション出版翻訳の世界で起こった動きをみてみると、世の中がときにはあっけないほど簡単に変わる場合があることが分かる。学者と 専門家の領域だったノンフィクション出版翻訳に、専業の翻訳者が何人かあらわれた。その結果、翻訳の質とスピードの面でハードルが上がり、ハードルを越え られない人たちがふるい落とされて、短期間のうちに専業の翻訳者が圧倒的な位置を占めるまでになった。
 いまでは十数年前と比較すれば、出版翻訳の質は向上したと思う。それでも、現状には不満を感じる。「読みやすい」という名の幼稚な翻訳が少なくないし、 英文和訳調から十分に脱却できていない翻訳が多い。外国の優れた知識を母語で学べるようにし、外国の優れた娯楽を母語で楽しめるようにするのが翻訳であ る。翻訳の本来の役割を考えれば、「読みやすい」翻訳から一歩飛躍して優れた日本語で訳すことが大切だ。
 新しい世代の翻訳家が登場し、翻訳のハードルをもう一段上げるように期待したい。ほんとうに優れた翻訳家が何人か活躍するようになれば、読者と編集者が 翻訳に期待する質が一段上がる。そうなれば、短期間に翻訳全体の質がもう一段飛躍するだろう。