後書の後書
山岡洋一

『自由論』の翻訳の変遷
 
 ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』には、明治4年(1871年)に発行されてベストセラーになった中村正直訳『自由之理』以来、いくつもの訳があ る。今回調べたものだけでも、以下がある。

(1) 中村正直譯『自由之理』(明治4年)
(2) 高橋正次郎譯『自由之権利』(明治28年)
(3) 平井廣五郎譯『思想言論の自由』(大正3年)
(4) 近江谷晋作譯『自由論』(大正14年)
(5) 市橋善之助譯『自由論』(昭和21年)
(6) 柳田泉訳『自由論』(昭和22年)
(7) 早坂忠訳「自由論」(昭和42年)
(8) 水田洋訳「自由について」(昭和42年)
(9) 塩尻公明・木村健康訳『自由論』(昭和46年)

 中村正直訳が出版されたのは明治維新直後の1872年であり、最後の塩尻・木村訳が出版されたのは高度経済成長期末の1971年である(ただし、塩尻公 明が訳したのは戦争中であり、文語体で訳されていたため、戦後に口語体に改めて出版するまでに時間がかかったという)。この99年の間に、翻訳をめぐる環 境は様変わりしている。変わった点は大きく分けて3つある。第1に、翻訳のインフラストラクチャーともいえる辞書や文法書が整備された。第2に、欧米に関 する理解が進んだ。第3に、欧米と日本の違いが縮小した。

 中村正直訳と塩尻・木村訳については2004年4月号の「19世紀の翻訳と20世紀の翻訳」でも論じている。そして、中村正直の時代に、『自由論』のキ イ・ワードであるsocietyという言葉がいかに理解しにくいものであったかを取り上げた。中村はこの語の意味を理解するために七転八倒しており、「仲 間連中〔即ち政府〕」など、さまざまな訳語を使っている。さらに第1章第1段落には、「仲間連中」について素晴らしい訳注を付けている。「国が百軒の村 だったら」と想定し、社会契約説に近く、モデルに近い方法を使って、societyの概念を当時の読者に理解できる言葉で解説しているのである。

 中村正直がsocietyというごく普通の言葉にすら苦労したのは、上記の3つの要因がからんでいたからだ。第1に、英和辞典などの辞書が整備されてい なかった。単語帳のような簡単な辞書があるだけだった。第2に、欧米の歴史や政治、社会、思想などの全体像が十分には理解されていなかった。第3に、当時 は何よりも、欧米と日本の間にさまざまな点で大きな違いがあった。当時の日本人にとって、欧米は理解することなどとてもできないと思えるほど、遠い遠い世 界だった。この距離感が分からなければ、当時の翻訳は理解できないと思える。

9種類の翻訳
 中村正直から塩尻公明・木村健康まで、9種類の翻訳を比較するために、第1章第9段落の冒頭部分の訳を示した(以下の資 料 2〜10を参照)。原 文の該当部分は資料1に示した。

 9種類の翻訳をみていくと、いちばん目に付くのは、明治初期の中村訳と明治後半の高橋訳との違いだろう。スタイルの違いが歴然としている。この違いとく らべれば、高橋訳と塩尻・木村訳の差はほとんどないとも思えるほどである。

 5ページの中村訳(資料2)と高橋訳(資料3)を比較すると、長さが大 きく 違うことにまず気づく。同じ箇所の訳文なのに、中村訳が20行、高橋訳が9行 である。他の訳をみても10行から14行であり、中村訳はとくに長い。

 では、中村訳はなぜ長いのか。原文と訳文を比較すると理由がすぐに分かる。たとえば、5行目以下の「抑モ人ハ各々自由ノ權アリテ、固ヨリ吾ガ欲スルトコ ロニ従ッテ為スベキ譯〔ワケ〕ニテ、他人ニ抑制セラルベキヤウナシ」は、原文に「ない」ように思える。9行目以下の「人民自由ニ事ヲ行ッテ、相ヒ互比ニ損 害ナキ事ナレバ、仲間申シ合セノ會社ハ、イラヌモノナレド、中ニハ一方ノ自由ハ、一方ノ不自由トナリ、一方ノ利ハ、一方ノ害トナル事アルモノユエニ」も対 応する原文が「ない」ように思える。たしかに原文の表面にはない。だが、『自由論』の全体を原文で読めば、ミルがこう主張しようとしていることが分かる。 中村正直はいうならば、「原文の行間」を読み取って訳文に活かし、当時の読者にミルの思想を伝えようとしたのである。

 これに対して、高橋正次郎以降の訳では、原文の行間を読む姿勢はとっていない。たとえば大正初めに出版された平井廣五郎訳の「緒言」にはこう書かれてい る。

 此書の原文は淺學なる吾曹の通解し得べき平易の文に非ず。殊に原文に拘泥せず各節の 大意のみを酌んで邦文に述ぶるは比較的容易なるべけれど、斯くては忠實に原著を紹介する所以に非ずと考へ、成るべく原文を毀損せずして譯せんと欲せ り。……(同書3ページ)

 要するに明治初めに中村正直がとった方法は、明治の後半になり、大正の初めになると、「原文に忠実」ではないとされて、否定されるようになっていたので ある。

  高橋正次郎訳はいうならば、「原文に忠実な訳」の走りである。決められた訳語を使って、決められた通りに訳している。たとえば、中村正直が苦闘した societyという言葉が、何の疑問もなく「社會」と訳されている。譲歩節と挿入句を括弧で処理しているのが目立つが、原文の主部と述部をほぼそのまま 訳文でも主部と述部にしていること、センテンスをそのまま文にしていること、センテンスの中では後ろから前に訳していく方法をとっていることなど、その後 100年に取られてきた方法が使われている。翻訳調が明治20年代末にはほぼ確立していたことが分かる。

 とくに面白いのが、段落の頭にある「◎第九章」という言葉と、各文の頭にある数字だ。「凡例」にこう書かれている。

一 「第一章」「第二章」等ノ區畫ハパラグラフノ謂ナリ。123等ノ數字ハセンテンス ノ區畫ナリ。是主トシテ原書ニ對照スル人ノ便ヲ圖リテナリ。故ニ少シク英學力アル仁ハ成ルベク原書ト對照セラレヨ。

 これを読むと、明治初めと明治後半とでは翻訳の目的と役割が大きく変わっていることが分かる。中村正直はいうまでもなく、「成ルベク原書ト對照セラレ ヨ」などとは考えていない。訳書だけで原著の内容を伝えることを意図している。だからこそ、societyのような簡単な言葉にすら苦心したのだ。

 もちろん、明治初めには「英學力アル仁」がほとんどいなかったという事情がある。明治も後半になると、英語教育がかなり普及していた。だから、高橋正次 郎は「原書ニ對照」して読む読者を想定できるようになった。だが、そういう読者を想定したのは、英語教育が普及したからだと考えることはできない。この点 は、現在の翻訳を考えてみればすぐに分かる。現在では、明治後半とは比較にならないほど英語教育が普及していて、読者のうち英語の原著を読もうと思えば読 める人の比率ははるかに高くなっているはずだ。だが、現在の翻訳者はだれも、「なるべく原書と対照するように」と求めたりはしない。読者は原著を読むか訳 書を読むかどちらかであり、原著と訳書を対照しながら読む読者などまずいないはずである。

 ではなぜ、「成ルベク原書ト對照セラレヨ」と呼びかけたのか。その理由は書かれていないが、少し考えてみればすぐに分かる。明治4年に碩学中村正直が理 解に苦しんだ点が、明治28年に広く理解されるようになったわけではない。

 ミルの主張が当時の人にとっていかに難しかったかは、いくつかの訳書の序文を読めば明らかだ。平井廣五郎は前述のように、ミルの原文について、「平易の 文に非ず」と記したが、高橋正次郎も「凡例」で「難文」と書いており、近江谷晋作も「譯者から」で、「御承知の通り元來ミルの著書は難解で通つてゐまし て」と書いている。1ページの資料1にある原文がはたして「難解」な「難文」なのだろうか。ミルの文章にはたしかに、パラグラフが長く、センテンスが長 く、挿入句や挿入節が多いという特徴があるが、文章そのものは、19世紀半ばのものとしてはとくに難しくない。たとえば、同時代のイギリスの批評家、カー ライルの『衣装哲学』と比較してみればいい。ミルの文章は平易さと明解さが際立っていると思えるはずだ。ではなぜ、「ミルの著書は難解で通つて」いたのだ ろうか。文章ではなく、内容が理解しがたかったからに違いない。

 当時の日本人にとって、ミルの主張は簡単には理解できないし、日本語で表現するのが難しいものであった。だから、訳書だけを読んでもミルの主張は分かり ません、原文を読んで各人で意味を考えてくださいと呼びかけているのだ。高橋正次郎がとった方法、高橋にかぎらず、明治後半以降の翻訳者がとった方法は、 要するに、原文の意味を訳書だけで読者に伝えることをあきらめたものだったのである。翻訳者が十分に理解できていないのだから、訳書だけを読んでも原著の 主張は理解できない、だから、「成ルベク原書ト對照セラレヨ」ということになる。

 その点を考えると、中村正直の偉大さが分かる。まともな辞書もなく、欧米に関する理解が進んでおらず、欧米が理解することなどとてもできないと思えるほ ど遠い遠い世界だった時代に、行間まで読んで意味を伝える方法をとっていたのだから。もちろん、いまの感覚で読めば、中村正直の「間違い」を指摘するのは 簡単だ。だが、絶望的なほど遠かった欧米を理解するために苦闘した中村正直の努力を軽視するわけにはいかない。

昭和の時代の翻訳
 高橋正次郎以降の翻訳をみていくと、原文の表面をいかに忠実に紹介するかが焦点になっていたように思える。この点は、戦後の翻訳でも変わらない。資料4 から資料10までを比較していくと、新しい翻訳ほど、原文の表面に忠実になり、英文の訳し方として定着している方法に忠実になっていることが分かる。

 この点で、英文の訳し方として定着している方法、つまり学校英語の英文和訳の方法にとくに忠実なのは、6ページの資料8の早坂忠訳と、資料10の塩尻・ 木村訳ではないかと思える。

 たとえば、1ページ資料1の4〜5行目、physical force in the form of legal penaltiesの部分をどう訳しているかをみてみるといい。資料3の高橋訳では「有形力ナル刑罰」であり、原 文 のformの訳語にあたる語がない。こ れに対して、資料8の早坂訳では「法的刑罰という形の物理的力」、資料10の 塩尻・木村訳では「法的処罰というかたちの物理的な力」であり、原文の表面に もっと忠実になっている。

 別の例として、資料1の下から2行目、against his willをどう訳しているかをみてみよう。高橋訳では「其意ニ悖〔もと〕リ」だ。これに対して、早坂訳と塩尻・木村訳では「彼の意思に反して」であり、 hisが「彼の」と訳されている。「彼」とは誰なのかは考えない。原文にhisとあるから、機械的に「彼の」と訳しているのである。

 原文の主部と述部をそのまま訳文でも主部と述部にしていること、センテンスをそのまま文にしていること、センテンスの中では後ろから前に訳していく方法 をとっていることといった点でも、早坂訳と塩尻・木村訳は英文和訳の方法にきわめて忠実である。どちらも3センテンスを3文で訳している。早坂訳は「この 論文の目的は……である」「その原理とは……である」「……唯一の目的は……である」の3つの文で訳しているし、塩尻・木村訳もほぼ同様に3つの文で訳し ている。

 今回、早坂忠訳について、意外なことに気づいた。これは中央公論社の「世界の名著」全66巻のうち『ベンサム J.S.ミル』編に収められているのだが、その表紙をみるとなんと、このシリーズは「やさしく読める古典全集」と銘打たれていたのだ。英文和訳のお約束通 り、後ろから前に訳していく早川忠訳が「やさしく読める」ものかどうか、読者に判断していただくとして、この訳には他の訳にない特徴がひとつある。原文の パラグラフをいくつもの段落に分けて訳す方法をとっているのだ。その結果、「やさしく読める」ようになっているのだろうか。とんでもないと思う。原文のパ ラグラフは無作為に作られたわけではない。ひとつの概念なり論理なりを表現する単位として作られている。原文のパラグラフをいくつもの段落に分けて訳す方 法をとったときに、一見、「やさしく読める」ように思えて、実際には文章の流れを読み取りにくい訳文になることがある。早坂忠訳はその典型だと思う。

 同じ年に出版された水田洋訳にも「やさしく読める」ようにする工夫がある。そのために使われている手段は主に、漢字を減らして仮名を多くすることであ る。漢字が多い文章は読みにくいという意見があるが、そう思うのであれば、資料9の水田訳を読んでみるといい。典型的な翻訳調で訳されているので、もとも と読みにくい悪文なのだが、漢字を減らして仮名を増やした結果、読みにくさが倍加していると思えるはずである。

中村訳に学ぶべきもの
 日本語は論理表現が不得意だという意見がある。早坂訳や水田訳、塩尻・木村訳などを読むと、そういわれるのはもっともだと思えてくる。ミルの明解な文章 が、何とも複雑な訳文になっているのだから。だが、中村訳を読むと、日本語で論旨明解な文章が書けることが分かる。旧字旧仮名、それも片仮名を使っている ので、いまの読者には読みにくいはずなのに、意味が明確に伝わってくる。この点を考えると、おそらく、論理表現が不得意なのは日本語ではなく、翻訳調なの だろうと思えてくる。明治以降、論理的な文章には通常、翻訳調を模した文体が使われてきた。つまり、論理的な表現には翻訳調が最適だとされてきたわけだ が、その翻訳調がじつは、論理を表現するには不適切なのかもしれない。

 この点を考えていくと、明治28年の高橋正次郎訳以降、昭和46年の塩尻公明・木村健康訳まで、日本の翻訳がはたして進歩してきたのかどうか、疑問だと も思える。少なくともひとつの点でみて、中村正直訳は他の訳にない特徴をもっていたといえる。中村訳は明治初めに大ベストセラーになり、当時の人たちに衝 撃と感動を与えた。もちろん、時代背景が大きく違うとはいえ、その後の訳はそこまでの衝撃も感動も与えていない。

 資料2に示した訳文は、昭和2年に日本評論社から発行された『明治文化全集第5巻 自由民権篇』の冒頭に収録されたものである。中村正直の『自由之理』はまさに、『自由民権篇』の冒頭を飾るにふさわしい本だ。明治初期の自由民権運動に大 きな影響を与えたからだ。『自由之理』の影響力を示す逸話はたくさんあるが、そのひとつとして、柳田泉訳『自由論』に掲げられた文章を引用しておこう。

(『河野盤州(広中)伝』上巻より抄出)−
(明治六年)夫れから常葉(当時の磐前県、今の福島県の一部)の副戸長となり、大に地方の民政に努力したが、常葉に就任してから初めて三春支庁に出頭した 時の事である。三春町の川又貞蔵からジョン・スチュアート・ミルの著書で、中村敬宇の翻訳した『自由之理』と云へる書を購ひ、帰途馬上ながら之を読むに及 んで、是れ迄漢学、国学にて養はれ、動もすれば攘夷をも唱へた従来の思想が、一朝にて大革命を起し、人の自由、人の権利の重んず可きを知り、又広く民意に 基づいた政治を行はねばならぬと自ら覚り、心に深く感銘を与へ、胸中深く自由民権の信条を画き、全く予の生涯に至重至大の一転機を劃したものである。而も 其の変化が不思議と思はるる程の力を奮ひ起こしたことは、今更ながら一大進境の種子たりしを思はざるを得ない。『自由之理』を読んで心の革命を起こせし は、其年(六年の)三月の事だ(下略)−(同書10ページ)

 明治6年3月は、原著者のミルの最晩年にあたる。ミルは自分の著作が極東の地でこのような感銘を与えたことを知るよしがなかっただろうが、聞いていれば 喜んだはずだ。

 それはともかく、中村正直の訳がここまでの感銘を与えられたのは、訳文に力があり、論旨が明解だったからに違いない。その後の翻訳はたしかに「忠実」に なったのだろうが、このような力をもたなくなったと思える。時代背景が違うのだから、読者に与える影響が違うのは当然だが、たとえば早坂訳や塩尻・木村訳 のような訳が明治初期に出版されていたとしても、中村訳のような感銘を与えられたとは考えにくい。

 中村正直訳が出版されて140年近くが経過し、塩尻・木村訳の出版からも35年近くが経過して、時代は大きく変わっている。いちばん違っているのは、欧 米と日本の心理的な距離感だろう。欧米はもはや、理解することなどとてもできないと思えるほど遠い遠い世界ではなくなった。日本が欧米に近づけたのは、多 数の翻訳者も含めた人たちが苦労を重ねてきたからである。いまの時代には、欧米の古典をとくに気負いもなく、自然体で訳すことができ、読むことができるよ うに思える。多数の翻訳の先達に感謝しなければならない。



資料1
J.S. Mill, On Liberty
The object of this Essay is to assert one very simple principle, as entitled to govern absolutely the dealings of society with the individual in the way of compulsion and control, whether the means used be physical force in the form of legal penalties, or the moral coercion of public opinion. That principle is, that the sole end for which mankind are warranted, individually or collectively in interfering with the liberty of action of any of their number, is self-protection. That the only purpose for which power can be rightfully exercised over any member of a civilized community, against his will, is to prevent harm to others.

資料二
中村正直譯『自由之理』
 予コノ論文ヲ作ル目的ハ人民ノ會社〔即チ政府ヲ言フ〕ニテ、一箇〔ヒトリ〕ノ人民ヲ取リ扱ヒ、コレヲ支配スル道理ヲ説キ明ス事ナリ。即チ或ハ律法刑罰ヲ 以テ、或ハ教化禮儀ヲ以テ、總體仲間ヨリ銘々一人エ施コシ行フベキソノ限界ヲ講ズル事ナリ。抑モ人ハ各々自由ノ權アリテ、固ヨリ吾ガ欲スルトコロニ従ッテ 為スベキ譯〔ワケ〕ニテ、他人ニ抑制セラルベキヤウナシ。シカラバ、何〔ナニ〕故ニ仲間會社ニ支配セラヽヤ。答ヘテ曰ク、人民自由ニ事ヲ行ッテ、相ヒ互比 ニ損害ナキ事ナレバ、仲間申シ合セノ會社ハ、イラヌモノナレド、中ニハ一方ノ自由ハ、一方ノ不自由トナリ、一方ノ利ハ、一方ノ害トナル事アルモノユエニ、 政府アリテ、人民自由ノ權ノ中ニ立チ入リ、コレト相ヒ關係シ、世話ヲスル事ハ、ナクシテ叶ハヌ事ナリ。サレバ、人民銘々自ラ守護スルタメニ、仲間會社即チ 政府ニ支配セラルヽモノユエニ、政府トイフモノハ、人民ヲ保護スルノ用ノミ。サルカラニ政府ニテ、人民ヲ治ムル當然ノ權ハ、他人ノ為ニ損害ヲ為〔ナス〕モ ノヲ防グニ止マリ、ソノ他ニ及ブベカラズ。……(『明治文化全集第五巻』十四ページ、日本評論社、一九二六年)

資料三
高橋正次郎譯『自由ノ権利』
◎第九章 1斯書ノ目的タルヤ、社會ガ強制箝束(使用スル手段ノ有形力ナル刑罰ニセヨ、若クハ無形力ナル輿論ノ制裁ニセヨ)ヲ以テ箇人ヲ遇スル事ヲ充分ニ 統ベ得ル甚ダ簡單ナル原理ヲ述ルニアリ。2其原理左ノ如シ、人類ガ(箇人的ニセヨ共同的ニセヨ)凡テノ他人ノ行ノ自由ニ干渉シ得ル唯一ノ目的ハ、自護是ノ ミ。3文明社會ノ各員ニ向ヒ、其意ニ悖リ、威權ヲ施行スルモ正當トスル唯一ノ目的ハ、他人ノ害ヲ防グ事是ノミ。……(同書二十二〜三ページ、高橋正次郎、 一八九五年)

資料四
平井廣五郎譯『思想言論の自由』
 此論文の目的は社會が強迫と束縛を個人に加ふる當否を専決すべき單純の一原則を定むるに在り。而して社會の用ふる手段が法律的刑罰に現はるる有形の力な るも、輿論を以てする無形の強壓なるも、論旨に於て聊かも變ずる所なし。社會の各個人又は全體が正當に一人又は衆人の自由に干渉する唯一の目的は自ら防衞 するに在りと、是即ち原則なり。換言すれば文明國の各個人に向ひ其意思に反して正當に權力を用ふるは、唯だ他人の被害を防がんがためのみ。……(同書十八 ページ、盛文館、一九一四年)

資料五
近江谷晉作譯『自由論』
 本論の目的とするところは、強制と取締の方面に於いて、社會が個人に對してなすところの行爲を絶對的に支配して可なる極めて簡單なる原則、即ちその手段 となすものは法律的刑罰の形式の下に有形的力を用ふべきか、將又輿論てふ道徳的強制を用ふべきかに關する極めて簡単なる原則を斷定せんとするにある。その 原則は次の如きものである。人類が個人的にも或は又綜合的にもその屬する何人かの行爲の自由に干渉するに際して可とされる唯一の目的は、自衞〔セルフプロ テクシャン〕であるとなすことである。すなわち一文明社會の何人かに對して、彼の意思に反して權力を正當に行使し得る唯一の目的は、他人に對する害を避け んとするにある。……(同書二十〜二十一ページ、人文會出版部、一九二五年)

資料六
市橋善之助譯『自由論』
 この小論の目的は、用ひる手段が法律的刑罰の形の、肉體的な力であらうと、輿論の、道徳的強制であらうと、強制と制御といふ仕方でする、社會の、個人に 對する振舞を絶對的に支配する權利のある、ひとつの至極簡単な原理を主張することである。その原理とはかうである。個人的にせよ、集團的にせよ、仲間の誰 かの自由に干渉していゝと人間に保證する唯一の目的は、自己防衞である。人の意思に反して文明社會の如何なる一員に對しても權力を使っていゝといふことの 出来る唯一の目的は、人に害を與へることの防止である。……(同書十五ページ、高山書院、一九四六年)

資料七
柳田泉訳『自由論』
 この論文の目的は、強制および取締り(用いられる手段が法律的刑罰という形の具体的勢力であろうと、世論という精神的強制であろうと論なく)のつもりで 社会が個人に対してとる処置を、絶対的に支配すべき権利をもつと見られる、一つのきわめて単純な原理を主張しようとすることである。どの原理とは、すなわ ち人類が、個人的にせよ、集団的にせよ、同じ人類の何人かの行動の自由に干渉することを保証される唯一の目的は、自衛(self-protection) だということである。文明社会の一員に対して、その意思に反して、当然権力えを行使して差支えのない唯一の目的は、他人への危害を防止することだというこ とである。……(同書二十六ページ、春秋社、一九六一年)

資料八
早坂忠訳「自由論」
 この論文の目的は、用いられる手段が、法的刑罰という形の物理的力であれ、世論という道徳的強制であれ、強制と統制という形での個人に対する社会の取り 扱いを絶対的に支配する資格のある、一つの非常に単純な原理を主張することである。その原理とは、人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に 正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意思に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、 他人にたいする危害の防止である。……(『世界の名著38』二百二十四ページ、中央公論社、一九六七年)

資料九
水田洋訳「自由について」
 この評論の目的は、法的処罰という形における物理的な力か、世論という道徳的拘束かの、いずれの手段がもちいられるにしても、社会が個人を強制および統 制というやりかたでとりあつかうときに、そのとりあつかいかたを絶対的に支配する権限をもつ、ひとつのきわめて単純な原理を主張しようということなのであ る。その原理とは、人類が、かれらの仲間のうちのだれかにたいして、その行為の自由に、個人的または集団的に介入することが正当化されるのは、自己保全 〔セルフプロテクション〕を目的とするばあいだけだということである。文明社会のどんな成員にたいしてでも、かれの意思に反して、権力を行使するのが正当 でありうるのは、他の人びとへの害の防止を、目ざすばあいだけだということである。……(『世界の大思想U―六』十五ページ、河出書房、一九六七年)

資料十
塩尻公明・木村健康訳『自由論』
 この論文の目的は、用いられる手段が法律上の刑罰というかたちの物理的な力であるか、あるいは世論の精神的強制であるかいなかにかかわらず、およそ社会 が強制や統制のかたちで個人と関係するしかたを絶対的に支配する資格のあるものとしてひとつの極めて単純な原理を主張することにある。その原理とは、人類 がその成員のいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、むしろ正当な根拠をもつとされる唯一の目的は、自己防衛(self -protection)であるというにある。また、文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意思に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的 は、他の成員に及ぶ害の防止にあるというにある。……(同書二十四ページ、岩波文庫、一九七一年)