翻訳とは何か

翻訳についての一般的な誤解

山岡洋一
  
 中学生か高校生のころ、雑誌か何かで「孤島で暮らすときに持っていきたい1冊の本」の特集があり、だれかがベートーベンが晩年に書いた四重奏曲の楽譜と答えていたのを読み、不思議な人がいるものだと思ったことがある。楽器がなければ何の役にもたたないじゃないかと思ったのだ。楽譜に使われている記号が何を意味するかぐらいは音楽の時間に学んでいたから、書かれている通りにたとえばピアノの鍵盤をたたけば、音楽らしきものができることは知っていた。しかし、自分にとって楽譜とはそれだけのもの、まさか、四重奏曲の楽譜を「読む」だけで頭のなかで音楽が鳴り響く人がいるとは、想像すらしていなかったのだ。

 そういう人がいることを知ったとき、音楽家というのはじつに偉いものだと感心した。楽譜に書かれてある通りに指を動かせばいいのだったら、音楽はすべてスポーツの一種だ。声帯の運動家を歌手と呼び、指の運動家をピアニストとがバイオリニストとか呼んでいることになる。音楽がまったく違うものらしいと思ったはこのときからだ。当然ながら、そう思ったからといって、音楽が「分かる」ようになったわけではない。しかし音楽を聞くのは楽しいし、聞くのなら、自分にはまったく判断がつかないので、音楽をほんとうの意味で理解しているらしい人の意見を参考に、一流といわれている演奏で聞こうと考えている。

 たぶん、翻訳についてたいていの人が考えているのは、これに似ているように思う。楽譜をみればピアノのどの鍵盤を押せばいいかが分かるように、英語の単語をみればどの訳語をあてはめればいいかが分かると考えている。そして、楽譜を読んで音楽が頭のなかで鳴り響く人がいるように、原著を読んで物語なり論理なりが頭のなかで形作られる人がいるとは考えてはいない。だから、ピアノの演奏を指の運動の巧拙だけで判断するように、翻訳の善し悪しを考える。

 翻訳について考えたり論じたりする際に通常使われる言葉も、大部分はこうした誤解に基づいている。たとえばこういう言葉がある。

「誤訳」という言葉。ピアノの鍵盤を押し間違えたというのと同じだ。英文和訳で減点される部分という意味であり、本来の意味でも翻訳とは無縁の言葉だ。

「意訳」という言葉。楽譜通りに弾いてください、勝手に弾かないようにという非難の言葉だ。楽譜通りに弾いても音楽にはならないことを理解していない言葉である。

「直訳」という言葉。これは逆に楽譜通りに弾くという意味だ。音楽の場合なら、コンピューターを使えば楽譜通りの音が鳴る。それが理想だというのなら、CDを買うのはやめて、パソコンで音を鳴らせばいい。翻訳の場合なら、学校で学んだ英和翻訳の公式通りに、辞書に書いてある訳語をそのまま使って訳すのが理想だというのなら、機械翻訳ソフトを使えばいい。

 音が並んでも音楽にはならない。言葉が並んでも文章にはならない。文章とは何よりも意味を伝えるものだ。翻訳の場合には原著がある。原著を読んで頭のなかで形作られる物語なり論理なりを、母語で読者に伝えるのが翻訳である。物語や論理を伝えないものは、意味を伝えないものは翻訳ではない。翻訳擬〔もど〕きにすぎない。

準備第2号(2002年7月)より

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