大震災に思う
 山岡洋一
一つの文明の終わりと翻訳者の立場

 
 3月11日、震源地からかなり離れた川崎市でも、揺れは大きかった。事務所の書棚が半分近く倒れ、耐震用のつっぱりのある棚まで倒れた。土曜日と日曜日 に書棚をおこし、本を床に積んで、何とか仕事を再開できるようにしたが、混乱が大きくなったのは月曜日からだ。原子力発電所の事故と震災の被害拡大が気に なるし、そのうえ無計画な停電で仕事どころではなくなったのである。

 仕事が手につかないので、ふだんはまずみないテレビをみることが多かった。これほどみたのはたぶん、11年ぶりだと思う。そこで目にしたのは、惨憺たる 状況だった。震災の被害は現実であって是非もない。問題はこの現実にどう対応するかだ。ところがこの危機に、政府や関係省庁、企業などのトップがみな、指 導者としての資質も覚悟ももたないように思えた。そんなことはもちろん、分かってはいたのだが、危機のさなかに無能ぶりを見せつけられれば衝撃を受ける。 危機になれば各人の重みが露わになる。そして今回、露わになったのは、庶民や現場の人たちが冷静にしっかりした行動をとったのに対して、上に立つ人間がう ろたえ、責任回避に終始している姿だった。血走った目で、あるいはうつろな目で、落ち着いて行動してくださいなどと呼び掛けている姿をみれば、不安にから れ、冷静ではいられなくなるではないか。

 政治屋はつぎの選挙のことを考え、政治家はつぎの世代のことを考えるという言葉がある。名言だとは思うが、不十分だとも思う。つぎの世代のことを考える だけなら、一翻訳者でもできる。政治家というからには、考えるだけでなく、国民を指導し、責任を負わなければならない。指導と責任、この2つがなければ政 治家とはいえないはずである。ところがいまどきの政治家にとって、指導と責任は何としても避けたいもののようなのだ。指導はしたくない、責任は回避した い、これが与党、野党を問わず、いまの政治家の基本姿勢のようなのだ。

 それだけではない。今回、目にしたのは、政治家だけでなく、官僚も企業経営者も、揃いも揃ってうろたえている姿だった。たとえば、保安院のうろたえぶり は酷かった。聞き慣れない役所のお役人なのだからこの程度の人物でも仕方ないなどと思ってはいけない。正式には経済産業省原子力安全・保安院であり、幹部 はあの通産省に入って出世してきたキャリア官僚なのだから。大蔵省とともに日本の優秀な官僚機構を代表するとされてきた通産省、日本経済の司令塔とされて きた通産省のキャリア官僚が保安院の指揮をとっているのだ。経産省の組織だから業界寄りだなどという意見もあるようだが、業界すら頼りにできない無能ぶり があの通産官僚の実像だったことの方が重要ではないだろうか。

 東京電力の経営者も、みっともない姿をさらしていた。東電といえば、日本を代表する企業の一つであり、何人もの著名な経営者、財界人を輩出している。さ すがに中堅若手に素晴らしい人材がいることは原発事故の現場で証明されたといえるのだろうが、経営者はまったく頼りない。危機には昼行灯(ひるあんどん) になる人物だと思えた。昼行灯自体が悪いわけではない。平時には昼行灯だが、危機管理マニュアルなんぞが役立たない本物の危機になれば、行灯で行く手を指 し示し、みなを導くようになる指導者もいる。危機のときに昼行灯になるのは話が逆であり、早々にお引き取りを願うしかない。

 危機のときにこそ力を発揮する意味での指導者は、政界にも官界にも経済界にもいなかったように思える。危機になると、こんな時期に責任ある地位について いたのは不運だった、とんだ貧乏くじを引いてしまったと嘆いているようなのだ。それでも日本がもっているのは、庶民や現場の人たちが優れているからだろ う。下は一流でも、上は三流というのが現実ではないだろうか。

 忸怩たる思いがするのは、上の立場にある人たちが自分とほぼ同じ世代に属しているからだ。団塊の世代は三流の人物しか生み出せなかったようなのだ。現場 にはプロらしいプロがいるが、上にいるのは素人ばかりではないか。

 だが、それ以上に重要なのは、今回の震災が一つの文明の終わりを示しているように思える点である。阪神・淡路大震災とは違うのだ。愛する故郷の神戸は地 震で壊滅したが、短期間に復旧した。少なくとも表面上、地震以前と変わらぬ都市になった。これでいいのなら、上は三流でもいい。現場の人間に任せておけ ば、復旧工事を着実に進めてくれる。だが、これでいいのか。

 津波の被災地を元の姿に戻し、つぎに津波がくるまではびくびくしながら生活できるようにしようとは誰も考えないはずだが、それだけではない。無計画停電 で露わになったのは、エネルギーに頼り切った生活がいかに脆いものだったかである。地球温暖化が重要な問題になって、エネルギーを使いたいだけ使う生き方 には反省の機運もでていたが、実際には化石燃料の消費を減らせばいいということで、原子力がふたたびもてはやされるようになっていた。いまでは日本の発電 能力の約30%を原発が占めるようになり、この比率がさらに上昇する状況だった。これが地震前の姿だ。ここに戻ればいいと考える人がはたしているのだろう か。今回の事故で福島第1、第2はもちろんだが、すべての原発が止まると考える方が現実的ではないだろうか。

 そのとき、天然ガスや原油の輸入を増やして火力発電を増やすことが解決策になるのだろうか。そんなことは考えにくいというのであれば、エネルギーを使い たいだけ使う生活様式はもう終わりだと考えるのが常識的だと思う。エネルギーに頼る生活様式は今回の震災で終わった。これからはエネルギー消費を減らし、 使うエネルギーは自給する方向に進むしかないのだろう。循環型の経済、生活様式に変えていくしかない。幸いにして、有望な考え方や技術は豊富にある。原発 の1基分の建設費を注ぎ込めば、これらが一斉に開花するだろう。この見方が正しければ、今回の震災では阪神・淡路とは違って、復旧を目指さなくてもいい。 復旧ではなく、21世紀の新しい文明を目指せる。危機を好機に変えられる。

 いいかえれば、指導者の出番なのである。指導者になるべき立場の人間がみな、貧乏くじは引きたくいない、こんな時期に責任を負わされてはかなわないと考 えているような現状が悲惨だと思うのは、このためだ。

 翻訳者の立場でこの惨状について、できることがないわけではない。翻訳者は翻訳の対象を柔軟に選択できる。古今東西の優れた文献のなかから、いま、社会 が必要としているものを選んで翻訳することができるのである。これは翻訳者の特権であり、この特権を活かさない手はない。出版社などの客先が発注してくれ るのを待つ姿勢をとらなければいけないわけではない。いまこれを訳すべきだと思える文献があれば、「翻訳通信」に投稿して提案してほしい。提案が心ある発 注者に届くよう、微力ながら手助けする。

 もう一つ重要なのは、自分の立場でまともな仕事をしていくことだろう。素人のような頼りない人間が目立つ世の中で、プロとはどういうものかを示していく ことには意味があるはずだ。翻訳者は現場の人間なのだから、誇りと責任感をもって仕事をしなければならない。

 翻訳者なら誇りと責任感をもって仕事をするのは当たり前ではないかと思えるかもしれないが、実際にはそうなっていないことが少なくない。必要があって地 震の直前に読んでいた翻訳書がその典型だった。訳文の完成度の高さで定評のある翻訳家が訳したことになっているが、酷い出来なのだ。何人かの事情通に理由 を聞いてみたところ、ほぼ間違いないだろうと思える構図がみえてきた。この翻訳者は同じ分野でたしかに「完成度の高い」訳書を何点かだしている。しかし実 際にはどれも、ゲラが真っ赤になるまで編集者が直して、ようやく出版にこぎつけたものだったようなのだ。そこまでの仕事をする編集者のプロ意識と実力には 感嘆するしかないが、そんな裏事情を知らない他社の編集者がその翻訳者に依頼し、原稿やゲラをろくに読みもしないまま出版してしまったのだろう。この翻訳 者はつぎの世代の読者はおろか、たったいまの読者に対してすら、責任を負っていない。原稿に問題があれば修正するのは編集者の責任だと考えている。そのま までは出版できない原稿をだしているのに、印税は支払ってもらえると思っている。何という思い上がり、何という厚かましさ、何という無能ぶりなのだろう。

 翻訳に携わるのであれば、翻訳屋になってはいけない。翻訳家になるべきだ。読者に対して、さらには次世代の読者に対しても責任を負う。読者の多くは原著 を読もうと思えば読めるはずなので、原著を読むよりはるかにいいと思われる翻訳を提供する。原著が難しいほど意欲を燃やす。そして、プロの仕事とはどうい うものかを世の中に示していく。そういう姿勢をとれば、翻訳は楽しくやりがいのある仕事になる。

(2011年4月号)