後書きに代えて
山岡洋一

『ビジョナ リー・カンパニーB衰退の五段階』を訳して
 ビジョナリー・カンパニーB
 この本を訳せたのはトヨタ自動車の豊田章男社長のお陰である。いうまでもなく、一面識もない方なのだが、豊田社長のお陰であるのは間違いない。なぜなの かを説明していくと長くなるが、少々お付き合いいただきたい。

 一流の著者ともなると、世間の目を気にせず、思い切った行動をとれるようになるのだろうか。本書の原著者、ジム・コリンズはまさに一流の著者であり、お そらくはドラッカー亡き後、並ぶもののいない経営思想家になったといえる。

 共著の『ビジョナリー・カンパニー 時代を超える生存の法則』(1995年)は名著であり、これがヒットした後、スタンフォード大学教授の職を辞して、コロラド州ボールドーに自分の経営研究 所を作った。おそらく、著書がヒットするというのは大学教授にあるまじきことなので、学内で不愉快な思いをしたのだろう(『ウォール街のランダムウォー ク』という大ヒットがあるマルキールによれば、大学教授は親の遺産や妻の資産で裕福なのは許されるが、自分で大金を稼ぐのはもってのほかなのだそうだ)。

 次作の単著Good to Great(邦題『ビジョナリー・カンパニーA飛躍の法則』2001年)は名著などという表現が月並みに思えるほど素晴らしい本だ。米国をはじめとする各 国で桁違いの大ヒットになった(日本では、続編と位置づけるタイトルが災いしたのか、前作より少し売れ行きが落ちるが)。

 このように、一流のなかの一流の著者だからだろうが、ジム・コリンズはときに、驚くような行動をとる。今回の著書How the Mighty Fallの出版と翻訳をめぐる経緯はまさにそうだった。

 まず、原著の出版の経緯に驚かされた。自費出版の形をとっているのだ。出版社のハーパーコリンズが関与しているが、販売元になっているだけで、編集には かかわっていないようだ。編集者との間に軋轢があったのか、あるいはベストセラーになるのは間違いないので出版社の力を借りる必要はないと判断したのか、 そのあたりの事情はよく分からない。

 原著の出版は2009年6月1日である。訳書が出版されたのは2010年7月末だから、翻訳にずいぶん時間がかかったと思われるかもしれない。たしかに そういう面もあったが、遅れた主因はそこにはない。当初、原著者が翻訳を許可しなかったのである。一般的には出版社か著作権エージェントが原著の出版前に 翻訳権を売り込むので、この本のように知名度の高い著者の本なら、原著が出版される前に翻訳権交渉がまとまっていることが多い。本書の場合、出版社は販売 にしか関与していないし、著作権エージェントも原著者の許可がないので動けない。一説によると、前書の翻訳に問題があり、どこかの国で訴訟を起こしている という。読むのなら原著で読んでほしいということのようだった。

 翻訳権の交渉に応じてくれないのだから、翻訳はできない。本書の翻訳は諦めるしかないだろうと思っていたところ、半年ほど経って突然朗報が届いた。原著 者が考え直し、翻訳権の交渉に応じるというのだ。考え直すきっかけを作った人、ということで豊田章男社長が登場する。

 2009年10月2日というから、原著の出版の4か月後、豊田社長が日本記者クラブで講演した。そのとき、「トヨタは企業衰退の5段階のうち、4段階目 にきていると思う」と語ったのだ。世界一の自動車会社の社長に就任して間もない御曹司がこう語ったのだから、大きな話題になった。米国でもビジネスウィー クなどで大きく取り上げられた。それを読んだ原著者が喜び、翻訳を許可してもいいと考えるようになったというのである。

 その後もすったもんだがあった。翻訳出版では一般的に、原著の著作権者に対する支払いは契約時のアドバンスと出版後の印税の2本建てになっている。アド バンスは文字通りの前払い金で、実売ベースの印税がアドバンスを上回ってはじめて、印税の支払いが発生する。原著者はこの仕組みがおかしいと考えてきたよ うだ。アドバンスは本来、原稿執筆時の経費と生活費を賄うために支払われるものだが、翻訳の場合は交渉がはじまった時点ですでに原稿がほぼ完成しているの が通常なので、アドバンスの必要はないという(もっともな意見だ)。その代わり、印税率を引き上げるよう求めたという(印税率を交渉できるというのは、う らやましいかぎりだ)。紛糾した交渉がまとまったのは2010年に入ってからであった。翻訳がはじまったのは、原著の出版から半年以上経った時点であり、 この種の本としては異例の遅さであった。

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 以上のような経緯があったので、本書を訳しながら、トヨタをはじめとする日本企業の状況と日本という国の現状をよく考えた。豊田社長の発言についていう なら、現状に満足しない姿勢を示したのは当然だと思う。米国でリコール問題が噴出したのはその後であり、このときにはまだ少なくともマスコミで取り上げら れてはいなかった。それより大きかったのは、大赤字だ。2008年3月期には当期利益が2兆円近かったが、2009年3月期には逆に4000億円を超える 赤字になった。社長就任は2009年6月であり、この大赤字を受けた人事である。

 2009年3月期に赤字に転落したのは2008年9月15日に米国でリーマン・ブラザーズが倒産し、景気が一気に冷え込んだためだといわれている。いわ ゆるリーマン・ショックのためだというのだ。しかし、このときにトヨタが大きな打撃を受けたのは、その直前まで、GMを追い抜いて世界一になろうと、大増 産を行っていたからだ。2008年8月まで大増産を行っていたのである。

 じつに奇妙な話だと思う。米国の金融危機は遅くとも2007年8月には誰の目にも明らかになっており、近く大不況になることは2007年末には明確に なっていた(くわしくはダイヤモンド社から近く出版されるヌリエル・ルービニの著書を参照)。そのなかで大増産を続けていたのである。まさにコリンズがい う衰退の第2段階の「規律なき拡大路線」、第3段階の「リスクと問題の否認」に陥っていたのではないかと思う。

 豊田章男氏が社長に就任することが決まったのは2009年1月だから、景気が最悪になった時期にあたる。まだ50代前半の御曹司が次期社長に選ばれたの は、経営陣にかなりの危機感があったからだろう。創業家に頼るしかないと判断されたのではないだろうか。

 豊田章男氏はごく普通のおじさん風なのだそうだ。「わしはこんな職につきとうはなかった」といいかねないような印象もあったようだ。リコール問題がマス コミで大騒ぎになってから、社長みずから米国議会の公聴会に出席して逆風を見事に収めるまでの間、国内でも豊田社長を批判する意見が少なくなかった。だ が、なかなかの人物だと思う。何よりも、自分がごく普通のおじさんにすぎないことをよく知っている。だから、トヨタが誇る人材を活かそうとし、自分が表面 にでるのを好まない(前述の記者会見で「救世主はわたしではない」と述べ、社員こそが救世主だと語っている)。徹底して謙虚な経営者なのだ。ジム・コリン ズが高く評価するタイプの経営者であり、『ビジョナリー・カンパニーA飛躍の法則』を愛読していたとしても不思議ではない。本書を原著で読んだのも当然の ように思える。

 トヨタは豊田社長のもと、大赤字とリコール問題をどうにか乗り切り、着実に前進しようとしているように思えるが、もうひとつ、本書を訳していて気がかり だったのは、日本という国の現状だった。まさに衰退の道を歩んでいるように思えるからだ。経済も社会も政治も、どうも元気がない。

 ジム・コリンズは本書で、「偉大な国は後退しても回復しうる」と書いている。そう、日本は偉大な国であり、このところ確かに後退してはいるが、回復しう るのだ。「決して屈服してはならない」ともコリンズはいう。「成功とは、倒れても倒れても起き上がる動きを果てしなく続けることである」ともいう。そう、 いまの日本の企業に、経済に、社会に、政治に必要なのは、この姿勢である。日本の現状にぴったりの本、なるべく多くの読者に読んでいただきたいと思える 本、そういう本を訳す機会を与えられたことに感謝している。

『ビジョナリー・カンパニーB衰退の五段階』は2010年7月26日に日経BP社から刊行された。定価は2200円+消費税である。

(2010年8月号)