震災の後に
山岡洋一
政治指導者は言葉で国民を動かし……

 
 震災後に注目を集めている点のひとつに、政治と指導者のあるべき姿がある。リーダーシップ論や、優れた政治指導者の伝記が、いま読みたい種類の本のひと つであることは間違いないだろう。幸い、ポール・ジョンソン著『チャーチル』の版権があいていることが分かり、翻訳できることになった。その準備の過程で さまざまな関連本を読んでいる。以下ではそのなかでとくに面白かった点を紹介したい。いくつもの伝記や歴史書で語られていることなので、出典は示さない が、ご容赦願いたい。

 1930年代後半、ヨーロッパ情勢が緊迫するなかで、イギリスのネビル・チェンバレン首相はドイツとの戦争を避けようと努力してきた。1938年には有 名なミュンヘン会談でドイツによるチェコのズデーデン地方割譲を認め、平和が達成されたと宣言した。だが、長くは続かなかった。1939年3月にはドイツ がチェコを併合し、9月にはポーランドに侵攻したからだ。チェンバレン首相は与野党議員の要求に押され、ドイツに最後通告を送り、その期限が切れたとき、 宣戦を布告した。ラジオ演説で国民に開戦を伝えたとき、首相の声は悲しげだったという。

 その後の半年ほど、ドイツ軍がポーランドの西半分を制圧するなど、ヨーロッパ大陸で勢力を拡大するなかで、イギリス政府の動きは鈍かった。世論は政府に 厳しくなり、与党内でも首相退陣を求める声が強まった。

 1940年5月7日から8日にかけて、下院で集中審議が行われ、与野党の議員が首相の責任を追及している。与党のエメリー議員が首相を非難する演説を行 い、ピューリタン革命の際、長期議会を解散させたときのクロムウェルの言葉を引用した。「諸君はさほどの実績もないまま、長く居座りすぎている。立ち去 れ。もはや用はない。神の名において求める。出て行け」。野党自由党の長老、ロイド・ジョージはこう語った。「首相は犠牲を払うよう求めた。国民は、あら ゆる犠牲を払おうとしている。だがそのためには、リーダーシップが発揮されていること、政府が目的を明確に示していること、指導者が最善を尽くしていると 信頼できることが不可欠だ。わたしは厳粛に申し上げたい。首相が先頭に立って犠牲を払うべきだと。首相がみずからの地位を犠牲にすること以上に、戦争の勝 利に貢献できるものはないのだ」。

 こうした演説が与えた影響は大きく、その後に行われた事実上の信任投票では、与党議員の多くが欠席するか、反対票を投じた。それでも80票の差で信認さ れたのだから、チェンバレン首相は職に止まることもできた。しかし、未曽有の国難を乗り切るには挙国一致内閣を作るしかない。与党内の反対派や野党に連立 内閣への参加を呼び掛けたものの、拒否された。

 チェンバレン首相は退陣を決めて、後任を選ぶことにした。どのような方法でどういう人物を選んだのか。党大会か議員総会で選挙を行い、若手指導者への世 代交代を進めたのだろうか。そうではない。密室の協議で、年下ではあるが、65歳とかなり高齢のチャーチルを選ぶことを決めたのである。チャーチルは第1 次世界大戦のときの海軍相、1920年代に金解禁を実行した財務相など、要職を歴任してきた政治家だが、1930年代には過去の人だとされていた。第2次 大戦の開戦の直後に海軍相に就任し、ようやく復活してそれほど時間がたっていなかった。父親は第7代モールブラ公爵の息子であり、領地の選挙区で選出され た下院議員として首相の座を狙ったほどの大物政治家なので、典型的な世襲議員でもある(ちなみに、子も孫も下院議員になっている)。表面的には、古い時代 を代表する政治家だともいえる。

 だが、こうした点はどれも問題ではない。未曽有の危機にあたってどういう政策と目標を掲げているのか、目標を達成できる覚悟と力量があるのかだけが問題 なのである。チャーチルがえらばれたのは、圧倒的な軍事力をもつドイツとの正面衝突を避けたかったチェンバレン首相とは違って、戦う意思を明確にしていた からだ。そして、それだけの覚悟もあった。首相に就任し、主要政党の最高幹部で構成される戦争内閣の組閣を終えた日の夜、こう感じたと後に記している。

 わたしは深く安堵した。ついに、全体を指揮する権限を与えられたのだ。わたしは運命とともに歩いているように感じた。それまでの生涯はすべて、このと き、この試練のための準備にすぎなかったと感じた。……戦争についてはよく分かっていると感じていたし、失敗することはないと確信していた。だから朝が待 ち遠しかったが、ぐっすり眠れた。元気づけてくれる夢など必要はなかった。事実は夢に優るのだ。

 長年の夢だった首相の座を射止めたのだから、こう思うのも当然だと思えるかもしれない。だが、この日に、ヨーロッパ戦線が急転していた。この日の朝、ド イツ軍がオランダとベルギーに奇襲攻撃を加え、戦局が急激に悪化したのだ。チェンバレン首相は事態の急変を受けて退陣を撤回しようとしたが、こういう危機 だからこそ首相の交代が必要だとする与党幹部の説得を受け入れ、夕方になってチャーチルが首相に就任することになったのである。その後数日で、オランダと ベルギーが降伏し、ドイツ軍機甲部隊がフランスに進軍する事態になった。たいていの人物なら、とんでもない貧乏くじをひいてしまったと嘆くはずだ。こんな 状態で朝が待ち遠しいと感じられるのは、本物の指導者、危機にこそ力を発揮する指導者だけだろう。

 3日後、チャーチル首相は下院で短い演説を行った。「わたしが提供できるのは血と労苦と涙と汗、これら以外に何もない」という言葉で有名な演説である。 この演説で、政府の政策と目的をこれ以上はないほど明確に表明している。「政策は何かと問われるであろう。わたしはこう答える。戦争を遂行すること、海で 戦い、陸で戦い、空で戦い、力の限りを尽くし、神に与えられた力をすべて使って戦い、人類の犯罪の暗くて酷い歴史にも類をみないほど非道な圧政と戦うこと である。これが政策である。目的は何かと問われるであろう。この問いには一言で答えられる。勝利だ5と。いかなる犠牲を払っても、いかなる恐怖に襲われて も、いかに長く、困難な道であっても、勝利を収める。これが目的だ。勝利しなければ、生き残ることはできないのだ」

 フランスが降伏した直後の6月18日、チャーチル首相は下院で演説し、イギリスがすぐにドイツに屈服するとの見方を強く否定した。最後にこう述べてい る。

 ウェーガン将軍がいうフランスの戦いは終わった。イギリスの戦いが間もなくはじまる。この戦いに、キリスト教文明の生き残りがかかっている。われわれイ ギリス人の生活が、命がかかっている。われわれの体制と帝国の存続がかかっている。敵は凶暴な力を、間もなくわれわれに向けてくる。ヒトラーはこの島でイ ギリスを打ち破らなければ戦争に負けることを理解している。われわれがヒトラーに立ち向かうことができれば、ヨーロッパ全体が自由になり、世界全体が光り 輝く広大な高地に進めるだろう。だがわれわれが敗北すれば、世界全体が、アメリカも含めた世界全体、われわれが慣れ親しみ、大切にしてきたものすべてが、 新たな暗黒時代に落ちこむだろう。それも、科学の悪用によって、もっと悪質で、おそらくはもっと長期にわたる新暗黒時代に。それ故、決意を固めて義務に取 り組み、大英帝国と英連邦が1000年続いたとしても、「これこそもっとも輝かしいときだった」と語り継がれるようにしようではないか。

 同じ姿勢は、たとえば1941年10月29日に母校のハロー校を訪問したときの演説にもみられる。この演説は「絶対に屈服しない。絶対に屈服しない。絶 対に、絶対に、絶対に、絶対に」という言葉で有名だが、締めくくりの部分も魅力的だ。「暗い日々と語るのはやめよう。厳しい日々だといおう。いまは暗い日 々ではない。偉大な日々、われわれの国にとってかつてないほど偉大な日々なのだ。われわれはみな、神に感謝しなければならない。一人一人がそれぞれの持ち 場で、この日々をわが民族の歴史で長く記憶されるようにする動きに参加することを許されているのだから」

 これらの演説を読んでいくと、政治家とは何か、政治指導者とはどのような役割を果たす人物なのかがみえてくる。政治家は言葉で国民を動かす。未曽有の危 機のなかで進むべき道を指し示し、国民の士気を高める。素晴らしい役割であり、うらやむべき役割である。だが、人にはそれぞれ持ち場がある。翻訳者には翻 訳者の持ち場があり、文章で読者に感動を与え、深く考えるきっかけを与えることができるのである。こういう役割を与えられたことを、天に感謝しなければな らない。

[2011年7月号)