翻訳と日本語
 須藤朱美

会話 にみる人称代名詞

 正月気分のあふれる街並みを抜け、人もまばらな当駅始発の下り電車に乗ったときのことでした。目の前に三人の親子が座っていました。30代半 ばとおぼしき眼鏡をかけた痩型の父親と、青と黄色のおそろいのスタジャンを着た幼い兄弟。母親を家に残し、都心まで買い物にやってきた帰り道といった風で した。背丈や表情から察するに小学校へ上がる手前ほどの兄が、鉄道の終点について父親と問答していました。「なぜあちらからやってきた電車がここで引き返 すのか」、「乗客が向こう側のドアから降りて、なぜ自分たちは反対側のドアから乗るのか」と、子供の目には都市のありふれた光景でさえ真新しく映っている ようでした。父親は終始おだやかな表情で息子の質問に答えていました。

 間に挟まれた弟君は会話に加わりたいものの、いまひとつ話の内容が理解できない戸惑いの表情を浮かべながら、それでも楽しい気分を抑えきれないといった 風に「へえ」、「ふうん」、「そうなんだ」と相槌を打ち、はしゃいでいました。

 次の駅に着くまでには兄の質問が一通り落ち着きました。やっと関心がこちらに向くものと、弟が父親の顔をのぞき込むようにして、昨日こんなことがあった よと話しだしました。「それでね」、「だからね」、「あのね」、「オレね」と自分が話の中心であるのを無邪気によろこぶ言葉がちいさな口からこぼれだしま す。「それでね、お父さんがうちのお母さんと話してたときにね――」と弟君が言いかけたとき、それまでじっと黙っていた兄が急におおきな声で割って入りま した。
「お母さんのこと、うちのお母さんって言うなよな。お父さんがよそのお母さんともいっぱいしゃべってるみたいじゃないか」
「そうか。ごめん。だから、そうじゃなくてね、あのね、お父さんがお母さんとしゃべってたときにね…」

 この会話を耳にして、一瞬どきりとしました。修辞や文法など習ったことのない、もしかしたら平仮名さえ満足に書けないかもしれないちいさな子供が、「う ちのお母さん」という言葉の奇異さを感じ取り、不愉快だと感じているのです。ちいさな弟君の発した言葉だから、兄の感じたような意味まで深読みする人など まわりにはいなかったはずです。しかし違う場面で、違う人物が、違った口調で発した言葉だとしたら、文章の意味としてはやはり兄の感じたような含みを与え る魔力が「うちの」の3文字には潜んでいます。発言だけで考えれば、むしろそちらの意味合いで解釈されるほうが自然かもしれません。そんなものだろうかと いまいちピンとこない翻訳者がおられたら、すぐにペンを置いていただきたい、いやペンを折っていただいたほうがよいかもしれません。いくら外国語に精通 し、難解な書物を読解することができたとしても、母国語の語感を失った人間や、本来から持ち合わせていない人間が翻訳という仕事をするのは、単に個人の経 済的利益が見込めないばかりでなく、社会悪にも匹敵します。

 残念ながら世の中にはこの類の社会悪が蔓延しています。書店で翻訳書を手に取れば「私の右腕」、「あなたたちの休日」、「彼の不幸」など、取り除いても 差し支えのない、不要な人称代名詞が飛び交っています。10年後、15年後、あのお兄ちゃんがこういった本を手にしたら、訳者に対して弟を叱ったときのよ うな怒りを感じることでしょう。すこしばかり先に生まれた者として、この点にはいささか申し訳ない心持ちがします。あるいは世の活字がますます毒され、こ の幼き国語学者が怒りさえ感じられない若者に成長していたら、それはもう申し訳ないどころの騒ぎではありません。立派な犯罪と言えます。日本語を不自然に 歪めた罪で翻訳者たちが糾弾されようとも文句の言いようがありません。

 言葉に興味を持ち、日本語に愛情を注ぐことのできる人間は、誰から教わるでもなくおのずと体の内に「言葉の感覚」を持っていると聞いたことがあります。 電車で出会ったあの少年が内側から湧き上がる感覚に突き動かされて弟を制したように、翻訳者は祖国の言語の守り手としての使命感を持った、誇り高い仕事を していく必要があると思うのです。

2005年1月号