日本語のために
山岡洋一

片仮名語の悲惨
「モラルハザード」と職業倫理の欠如


 
 

 「まともな料金を貰ってれば、たった一語が分からないだけでも専門書を買って調べるけど、料金が安いと、分からない用語があったらそのまま片仮名にしとくしかなくなるよ」と、友人の翻訳者が嘆いていた。翻訳者は分からない言葉があれば徹底して調べる。片仮名で誤魔化すようなことはしない。これが翻訳者の職業倫理というものだ。そういう心意気を知らない顧客に不当に安い料金を提示されると、職業倫理もへったくれもあるかという気分になるというわけだ。

 翻訳を職業にしているものにとって、意味が分からないまま片仮名にするのは、最悪の敗北だ。だから、片仮名の語を嫌う。ところが世の中、片仮名語大好き人間がやたら多い。翻訳者は孤軍奮闘の状態になっている。

 2003年4月に国立国語研究所が分かりにくい外来語63語について言い換えを提案したとマスコミで報じられた。思わぬ援軍がきてくれたのだろうか。だが、フリーの翻訳者というのはお上の対極に位置している人間だから、「国立」という字をみただけで警戒感をもつ。同研究所のサイトにあった提案を読んで、やっぱりかと思った。これは援軍ではない。最善の場合でも無関係、悪ければ邪魔になるだけだろう。

 提案を読んでまず気になったのが、読点(、)の代わりにカンマ(,)を使う無神経さだ。ほんとうに日本語を大切にしている人が国立国語研究所にいれば、このみっともなさに文句をいわないわけがない。この一点だけで、日本語について語る資格がない人たちなのだろうと考えたくなる。

 それはともかく、提案の中身をみてみよう。なぜ外来語の言い換えを提案するのか。外来語は「読み手の分かりやすさに対する配慮よりも、書き手の使いやすさを優先している」ものであり、「官庁・報道機関など公共性の強い組織が、なじみの薄い外来語を不特定多数の人に向けて使用するとき、さまざまな支障が生じる」という(いくらなんでも日本語の文章にカンマを使うわけにはいかないので、読点に変えてある)。つまりこうだ。お上の側は分かって使っているのだが、下々のものは無知で愚かだから、片仮名語を使うと意味が通じない場合がある。無知で愚かな人たちに配慮するべきだ。

 ほんとうにそうなのだろうか。片仮名語が使われる理由はいくつもある。そのひとつは、はったりや虚仮威し〔こけおどし〕だ。相手が知らないと思うから使う。こういう手を使う人はたいてい一知半解で、言葉は知っていても意味はあまりよく知らない。よく考え、よく知っていれば、相手に伝えたくなるのが人のつねなので、奇妙な片仮名語なんぞは使わない。「官庁など公共性の強い組織」の人たちに片仮名語を使わないよう訴えるのなら、はったりや虚仮威しはかならず見破られる、みっともないから止めようよという方がいいように思う。

 片仮名語が氾濫する理由はほかにもいくつもあるので、そのひとつひとつについて検討を加えていくべきだと思う。国立国語研究所というからには、税金で運営されているはずで、そうした点をしっかりと検討する余裕があるにちがいない。まともな研究に基づいて片仮名語を減らす提案をすれば、もう少し意味があるのにと思う。

「モラルハザード」という語
 国立国語研究所が外来語の言い換えを提案した翌日の全国紙朝刊一面に、こんな書き出しのコラムがあった。
 

 オウム真理教の松本智津夫被告への死刑求刑に至る七年を振り返ると、その残忍で凶悪な犯行を生んだ時代に思いがゆく。バブル崩壊と若者を取り巻くモラルの空洞化。「倫理の欠如」と訳されるモラルハザードが社会の隅々に及んだ。


 次の段落では外来語の洪水を嘆き、国立国語研究所による「言い換え語」を紹介しているので、この提案に触発されて書かれたものであることは間違いない。だが、ここで使われている「モラルハザード」とはいったい何なのか(ちなみに、この語は今回の国立国語研究所の提案では取り上げられていないが、2003年10月発表予定の次回提案の対象になっている)。コラムの著者は「社会全体に道徳観がなくなっていること」という意味だと考えているようだが、ほんとうにそうなのか。

 この語の由来、意味、使われだした経緯などを考えていくと、おそらく、片仮名語がいかに劣った言葉なのか、そして社会にとって害悪になるのかが理解されるはずである。少々七面倒くさい文章になるが、「モラルハザード」について検討していこう。

保険用語としてのmoral hazard
 片仮名語の「モラルハザード」の語源は、保険の世界で使われるmoral hazardである。たいていの経済用語辞典にでているほど有名な語であり、「道徳的危険」と訳されてきた。どの辞典をみても、実体的危険(physical hazard)と対になる用語だと書かれている。

 この語の意味は、火災保険の例を考えてみるとよくわかる。普通なら、自分が所有する建物が焼ければ丸損になるが、火災保険に加入すると、いわゆる焼け太りの可能性が生まれる。損得の計算が変わるのだ。このため、普通なら、自分が所有する建物に放火する人はまずいないが、火災保険を掛けると、保険金目当てに放火する場合もでてくる。火災保険は本来、建物で加入者の故意によるものではない火災が発生する危険(実体的危険)に対するものだが、保険によって逆に、火災の確率が高まるという側面があるのだ。この部分の危険を、保険会社は「道徳的危険」と呼ぶ。

 このように、「モラルハザード」の語源である英語のmoral hazardは、「若者を取り巻くモラルの空洞化」とか「倫理の欠如」とかを意味する言葉ではない。保険という特殊な世界で起こる厄介な現実を示す専門用語なのだ。

「モラルハザード」の登場
 ではこの言葉が「モラルハザード」という片仮名語になったのは、いつ、どういう経緯があったからなのだろう。

「官庁・報道機関など公共性の強い組織が」「モラルハザード」という「なじみの薄い外来語」を使うようになった時期も、使うようになった経緯もはっきりしている。

 時期は、1997年の秋、山一証券、北海道拓殖銀行などの金融機関の経営破綻が相次ぎ、金融危機が深刻化したころである。金融危機にあわてた政府は、大手金融機関が次々に破綻して金融恐慌になるのを防ぐために、さまざまな対策をとった。その動きに対して、アメリカを中心とする欧米の当局者や経済学者、エコノミストから、moral hazardに注意すべきだとの意見が出された。日本にはアメリカで学んだことを自慢したい官僚や学者や評論家がたくさんいるから、この主張をいち早く取り入れて、「モラルハザード」に注意すべきだと、したり顔で論じるようになった。

保険用語から金融用語への意味の拡張
 ここで問題になるのは、欧米からmoral hazardに注意すべきだとの指摘があったのはなぜかである。

 上述のように、moral hazardは保険の世界の言葉だ。なぜ、金融危機と関係があるのか。もちろん、保険会社も金融機関のひとつだが、1997年に危機に陥ったのはとくに銀行であって、保険会社ではなかった。それに、金融危機の際に保険金詐欺に注意しろというのはなぜなのか、理解しづらいはずである。

 じつは、簡単な理由があって、銀行業界の危機ではつねにmoral hazardが問題になる。銀行が破綻すると、預金保険などの仕組みがあって、預金者が保護されるようになっている。銀行が破綻するという危険に対する保険があるのだ。保険を引き受けているのは保険会社ではなく、通常は国なので、火災保険を引き受けている保険会社が「道徳的危険」を心配するのと同じ理由で、国はmoral hazardを心配するべきなのだ。

 具体的にはどういう危険を心配すべきなのだろうか。火災保険なら保険詐欺を心配するわけだが、預金保険詐欺というのがあるのだろうか。

 具体例をみるのが一番分かりやすいだろう。1980年代初め、アメリカでは貯蓄金融機関(S&L)と呼ばれる中小金融機関の経営危機が深刻になった。短期の預金で資金を集め、長期の固定金利住宅ローンを貸すのが業務の中心だが、短期金利が急騰して逆ざやになり、損失が膨らんだからだ。

 このころ、カリフォルニア州の貯蓄金融機関コロンビアS&Lは思い切った賭にでた。常識外れの高利で預金を大量に集め、金利が低下すれば大儲けができる金融商品に注ぎ込んだ。金利が上がるか下がるかは誰にも分からないので、コインを投げてどちらに賭けるかを決めたという。幸い、その後に金利が急激に下がったので、思惑通りに巨額の利益を確保でき、経営危機を脱した。経営者はもちろん、高利での預金集めとコイン投げという「創造的」な方法で経営危機を乗り切った自分の功績に報いるため、巨額のボーナスを自分に支払った。ところがこの経営者はこれに味をしめてその後も同様の賭を続け、最後には負けがこんで桁外れの損失を被り、政府が公的資金を投入して破綻処理するしかなくなった。念のために繰り返すが、以上は作り話ではなく実話である。コロンビアS&Lは一時期、金融の規制緩和の成功例としてもてはやされ、やがて、失敗例として有名になった。

 このような無茶な経営が可能になったのは、預金保険という制度があるからだ。第1に、金融機関が常識はずれの高利で預金を集めていると聞くと、普通なら預金者はよほど危なくなっているのだろうと警戒し、預金するどころか、逆に預金を引き揚げようとする。ところが預金保険があるから預金の元利は全額保護されますといわれると、預金者にとって危険はなくなるので、高利にひかれて預ける人が多くなる。火災保険があるからという安心感から、火の用心をしなくなるようなものであり、「道徳的危険」の一種だといえる。

 第2に、経営者にとっても、預金保険があるから安心して思い切った賭けができるという面がある。何も手を打たなければ間違いなく経営が破綻する状況にある。金利が低下すれば大儲けができる金融商品に巨額を注ぎ込むとどうなるか。金利が上がれば巨額の損失を被る。だが、その結果は経営者にとって、何もしなかった場合と同じだ。経営が破綻し、損失は国が面倒をみてくれる。金利が下がればどうか。大儲けできるので、経営破綻の危機から逃れられる。損得を冷静に計算すれば、一か八かの賭にでるのが正解になる。だが、これは経営が破綻したときに自分ではなく、国が損失を負担するという仕組みがあるからだ。国の側からみれば、賭をしそうになった段階で破綻処理した方が、はるかに負担が軽くなる。火災保険でいえば、2回に1回は大火災になるのを承知のうえで、派手に花火を打ち上げるアトラクションで客を集めるようなもので、「道徳的危険」の一種だといえる。

 大手銀行のひとつがつぶれたとき、政府にとって一番心配なのは、預金者が動揺して、ほかの銀行からも預金を引き出そうとすることだ。銀行には預金引き出しの長い列ができる。取り付け騒ぎだ。こうなれば、健全な銀行すらあっという間に破綻する。そして、どの銀行も健全とはいえない状況があるのだから、国内の銀行がつぎつぎに破綻し、金融恐慌になって経済が壊滅することにすらなりかねない。そこで政府は、預金を全額保護するから大丈夫だと必死になって宣伝する。

 だが、それによって逆に銀行の損失が膨らみ、最終的に公的資金で負担する金額が桁外れに多くなる危険がある。政府はこの危険にも注意すべきだというのが、moral hazardという言葉の意味だったのだ。

 このように、「モラルハザード」の語源である英語のmoral hazardは、「若者を取り巻くモラルの空洞化」とか「倫理の欠如」とかを意味する言葉ではない。金融という特殊な世界で起こる厄介な現実を示す専門用語なのだ。

「モラルハザード」と訳された後の意味の転換
 だが、欧米の当局や論者からmoral hazardに注意するよう促されたとき、「官庁・報道機関など公共性の強い組織」はおそらく、この語の意味をよく知らなかったのだろう。経済用語辞典を調べて「道徳的危険」という訳語と、火災保険詐欺の例を使った説明を読んでも、金融危機との関連が分からなかったのではないだろうか。それで、意味が分からないまま取り合えず「モラルハザード」と訳した。いや、分かっていて、重々承知のうえで、はったりと虚仮威し〔こけおどし〕のために意味が通じるはずもない言葉を使いはじめたのかもしれない。

 いずれにせよ、「モラルハザード」はmoral hazardとは似ても似つかぬ意味で使われるようになった。金融危機との関連では、経営が破綻した金融機関の経営者の責任を追求するべきだという意味で使われるようになったのだ。経営破綻で世間を騒がせたのに、のうのうとしているのは許せない。モラルはどこにいった、倫理が欠如している。私財を没収し、刑務所に放り込むべきだ。これが事実上、「モラルハザード」の意味になった。

 こうして、金融機関が破綻すると、経営陣に私財の提供を求め、検察が乗り出して逮捕し、起訴するのが通例になった。罪状はどうでもいい、経営破綻の責任者を罰することだけが目的なのだから。

「モラルハザード」で変わる損得計算
 破綻した金融機関の経営者に同情しているわけではない。同情する理由はどこにもない。いくつかの点、とくに、まだ破綻していない金融機関の経営者にとって、冷静な損得計算の結果がどうなるかという問題を指摘したいだけである。

 英語のmoral hazardで問題にしているのは、経営が破綻しそうな段階での経営者の損得計算だ。経営者が冷静に損得の計算をすれば、損失をさらに膨らませる可能性があっても、一か八かの賭にでる方がよく、賭に負ければ、損失をお国に負担してもらえばいいという状態である。この意味でのmoral hazardを防ぐ手段をとるとどうなるか。経営者は破綻が目にみえてきた段階で、つまりまだ損失がそれほど膨らんでいない段階で、破綻処理を求めるしかなくなる。金融危機の芽を早めに摘めることになり、公的資金の負担も軽くなる。

 日本語の「モラルハザード」の場合はどうなのか。ここで問題にしているのは、経営が破綻しそうな段階ではなく、破綻した後の処理である。破綻した後に経営者が何の処罰も受けないのはおかしいという点だけだ。このため、経営が破綻しそうな段階で、経営者が冷静に損得を計算すれば、何をやっても破綻だけは避けるべきだということになる。飛ばしだろうが、粉飾だろうが、貸し剥がしだろうが、何をやってもいい。破綻だけは避けなければならない。破綻すれば、私財をすべて提供させられ、拘置所に送られ、下手をすれば刑務所にだって送られるかもしれない。名古屋刑務所で革手錠をかけられる可能性だってあるのだ。

 破綻が懸念される金融機関の経営者は、ひたすら保身をはかるしかない。ひたすら保身をはかる人材だけを昇進させて後継者に選ぶしかない。後継者が一歩間違えば、前の経営者になっていようが、元の経営者になっていようが責任を追求される。私財をすべて提供させられ、拘置所に送られ、下手をすれば名古屋刑務所に送られるかもしれないのだ。

 英語のmoral hazardを防ぐと、金融危機は早めに処理できる。日本語の「モラルハザード」を防ぐと、経営者は保身に走り、保身だけに必死になり、問題は先送りされる。1997年にmoral hazardが「モラルハザード」と訳されてから5年以上たったが、日本の金融業界はまさに、問題先送りを続けて現在の惨状になっている。ひたすら保身をはかる経営者が老害をまきちらしている。

「モラルハザード」と職業倫理の欠如
 外来語は「読み手の分かりやすさに対する配慮よりも、書き手の使いやすさを優先している」ものであり、「官庁・報道機関など公共性の強い組織が、なじみの薄い外来語を不特定多数の人に向けて使用するとき、さまざまな支障が生じる」というのが、国立国語研究所の見立てだ。だが、「モラルハザード」の例をみると、この見立てがどこか奇妙であることが分かる。「官庁・報道機関など公共性の強い組織」は、「書き手の使いやすさを優先して」片仮名語を使っているとはかぎらない。原語の意味を理解していないから、一知半解だから使っている場合が少なくないのだ。

「官庁・報道機関など公共性の強い組織」の人間なら、たとえばこのmoral hazardのような言葉が入ってきたとき、その意味を十分に理解して誤解の余地の少ない訳語を考える使命があるはずだ。その使命を果たそうとするのが、公共性の強い組織につとめる人間の職業倫理のはずである。

 こうした職業倫理がしっかりしていれば、moral hazardに注意するようにという折角の助言を無駄にすることはなかっただろうし、moral hazardと「モラルハザード」がまったく違った意味で使われていて、国際コミュニケーションの妨げになるような状況にはならなかっただろう。

 意味の分からない片仮名語が氾濫している現状をみたとき、そうした片仮名語の一覧表で「モラルハザード」という言葉をみたとき、思いをはせるべきは、若者を取り巻くモラルの空洞化なんぞではない。公共性の強い組織ではたらく人たち、公共性の強い地位にあるい人たちが正しい知識を伝えることにいかに怠慢になっているか、職業倫理がいかに欠如しているかのはずである。そしてもうひとつ、「モラルハザード」という言葉が使われるようになって5年以上たっても、金融危機を解決できないお粗末ぶりである。