言葉の裏側

情報 - 情報を捨て、書を読もう

山岡洋一

 これからの世の中でカギになるのは「情報」だといわれてきた。世の中は変わった。どう変わったのか。情報化社会になり、情報革命の時代になり、情報技術があらゆる産業の基礎になり、情報力が国や企業や個人の競争力(つまり経済力)を決める時代になるといわれてきた。

 つい2年前、情報革命の時代にはすべてが変わるといわれた。インターネットですべてが変わるといわれた。何がどう変わるといわれたのか。当時の流行語を思い出してみればいい。たとえば、IT、ドッグ・イヤー、先行者利益、勝者総取り、収益逓増、ネットワーク効果、B2CとB2B、中抜き、起業家精神、イノベーション、知的所有権、ビジネス・モデル、株主価値、ストック・オプション、市場原理、競争原理などなどだ。そして、これらすべてをまとめた「ニュー・エコノミー」という言葉が流行した。過去の経済の常識が通用しない新しい時代がきたというわけだ。

 急げ急げ、変化の波に乗り遅れるな、素早く動け、そういわれてきた。そのために大切なのは情報を素早く入手することだともいわれてきた。情報革命で登場した新しい情報機器や情報媒体を使いこなして、逸早く情報を入手する。これが不可欠だといわれた。情報化の波に乗り遅れないように情報化の波に乗る。議論が循環しているようにも思えたが、だからこそ、好循環が生まれて、情報革命がさらに進展するようにも思えた。

 あれから2年たって、何かがおかしいことにみなが気づくようになった。何がおかしかったのだろう。虚仮〔こけ〕にされてきたオールド・エコノミーは意外にしぶといのだ。借りた金は返さなければならない。利益を生まない事業はつぶれる。ニュー・エコノミーの時代には通用しないはずだった大昔からの常識が、何のことはない、生き残っているのだ。バブル期の日本を上回るほど膨らんだ借金の重荷に、情報革命の最先端を担うはずだった業界が押しつぶされようとしている。

 情報化社会、情報革命の流れが変わったわけではなく、一時的な行き過ぎを調整しているだけだともいわれている。ほんとうにそうなのか。疑う理由は十分にある。たとえば、1992年ごろの日本でも同じことがいわれていた。地価と株価は一時的に調整しているだけですぐに上昇軌道に戻ると。

 だが、それ以上に基本的な点がある。それは情報疲れだ。情報を追うことには疲れた。情報を追っていれば良いことがあるのなら、疲れても疲れても、どこかで一服して英気を養えばいい。だが、情報を追うことに長けているように思えた人たちが、みな失敗しているようにみえる。IT事業は赤字を垂れ流し、IT株を買った人たちは大損し、社会を変えるはずだったドット・コム企業も大部分は消えてしまった。コストを数十パーセントも削減するはずだったB2Bの話も聞かなくなった。

 情報を素早く入手し、新しい時代への道を逸早く進んで、未開の地の所有権を宣言すれば、莫大な利益が得られるはずだった。だが現実には、先頭を突っ走った人たちは次々に倒れている。周回遅れといわれて馬鹿にされていた人たちは、着実に前進している。

 要するに、先行者利益などめったにないことが分かったのだ。変化の波に乗り遅れないように、情報を素早く入手することにいったいどんな意味があるのかと感じられるようになったのだ。先行者利益を追求するより、追うものの強みを活かす方がいい。周回遅れを気にする必要などない。チェッカー・フラッグが振られることなどないのだから、人生は続き、社会は続くのだから、ゆっくりと着実に歩んでいけばいい。

 それに、時代がそう簡単に変わったりはしないことにも気づいた。社会がそう簡単に一変したりはしないことにも気づいた。情報を追っていては、一時の流行に振り回されるだけになる。一時の流行に乗って一山あてるのが悪いわけではないが、一山あてた後にもっと大きな失敗をして、元の木阿弥になるのが通常だ。流行を追わなくても、人生が終わりになるわけではない。だったら、一時的な流行とほんとうに重要な変化との見分けがつくようになってから、何周もの周回遅れになってから、先行者が疲れて倒れてから、ゆっくりと動きだせばいいのだ。あわてることはない。

 情報を追っていては、疲れるだけになる。これはたぶん、一般に情報と呼ばれているものの性格からくることなのだろう。情報とは変化を伝えるものだ。変化しない部分に情報価値はない。新しい動き、これまでと違う点、過去になかったこと、これを伝えるのが情報だ。変化を扱うのが情報、変化しない部分は無視するのが情報だ。情報を追っていれば、世の中のすべてが変化していると思えるようになる。情報が増えているのだから、変化が加速していると思えるようになる。どれほど必死になっても、加速する変化に追いつけないと思えるようになる。だから疲れるのだ。

 情報を追っているときに盲点になるのは、変化しない部分だ。変化しない部分がいかに多くても、いかに重要でも、情報を追っているかぎり、そんな部分はないのだと思えてくる。新しいビジネス・モデルがあれば、資金の心配などしなくてもいいと思えたのは、ついこの間のことだ。だが、赤字続きの事業はつぶれる。借りた金は返さなくてはならない。これは変化しない真実だ。情報を追ったツケが、こういう当たり前の真実を見逃した罰を受けるという形であらわれてくる。だから、情報革命の先端を走っていたように思えた企業がつぎつぎに破綻する。

 情報を捨てて、基本に戻る方がいい。情報にはならない部分、変化しない部分、一時の流行ではない部分をしっかりと学ぶ方がいい。それに最適なのが読書だ。ただし、話題の新刊は無視する。情報を逸早く伝えることを狙った本、流行に乗ろうとする本が多いからだ。情報を伝えるものではない本、流行に乗って一山あてようとしているのではない本を読む方がいい。だが、年に6万点もの新刊が出版されるいまの世の中で、どうやって、そういう本を探すのか。簡単な方法がある。時の試練を利用する方法である。

「時間価値と本質価値」という言葉を聞いたことがあるだろうか。本の価値を考えるときに使われる言葉ではないので、聞いたことがなくても不思議ではない。だが、この2つの言葉を使うと、本の価値、情報の価値を考えるときのヒントになる。情報は早ければ早いほど価値がある。時間がたてば、急速に価値が落ちる。このように時間ともに急速に減価する部分を、時間価値と呼ぼう。時間価値がなくなったときに残る価値を本質価値と呼ぼう。こう考えると、情報の特徴がよく分かる。情報は通常、時間価値がきわめて高く、本質価値がほとんどない。だから、刊行から時間がたつと、情報中心の本は見向きもされなくなる。流行を追った本は消えてなくなる。この事実を利用すれば、情報を伝えるものではない本、流行に乗って一山あてようとしているのではない本を探し出せる確率が高くなる。

 刊行から時間がたっても読まれている本は、本質価値が十分にある可能性が高い。つまり、情報ではない部分、変化しない部分を考えるものである可能性が高い。だから、刊行から時間が立っても読まれている本だけを対象に探せばいい。

 新刊を読むより、刊行から1年たっても読まれている本を選ぶ方がいい。5年たっても読まれている本を選ぶ方がいい。50年たっても読まれている本を選ぶ方がいい。100年以上たっても読まれている本を選べば、もっといい。時の試練に耐えて生き残っている本だけを選べばいい。

 数百年以上たっても読まれている本はたくさんある。そういう本を読めるのは、たいていの場合、翻訳という手段が使われてきたからだ。翻訳と出版とが組み合わされて、時間と空間と言葉の壁を超えて先人から学べる仕組みが確立されてきたからだ。情報を捨て、書を読もうとするとき、翻訳というものの力にも触れることになる。

第2期第1号より
 
 

『翻訳通信』のホーム・ページに戻る