翻訳のための日本語力
 津森優子

丸谷才一『文章読本』/斉藤美奈子『文章読本さん江』

  翻訳は日本語力だと言われる。日本語の文章力が肝心だと。もちろん、英文解釈力が前提なのは言うまでもない。うわべだけきれいな文章にまと めても、誤訳だらけでは意味がない。
 ただ、外国作家の文章として読まれるのは翻訳者の文章である。外国作家になりかわって日本の読者を相手にする翻訳者は、日本の作家に負けないくらいの問 題意識を持って原著に取り組み、日本の作家に負けないくらい文章にこだわって訳文を練り上げる必要がある。

 日本の作家志望者の多くは、その修業の一環として、文章読本の類を手にとっていることだろう。それなら翻訳者も、こういう本に目を通して損はないのでは ないか。
 文章の書きかたを説いた本は、おびただしい数が出版されており、なんとその数、4桁にも上るのだそうだ。いったいどれを読めばいいのだろうか。
 それを知るには、斉藤美奈子『文章読本さん江』(筑摩書房)が役に立つ。さまざまな文章読本を分類・批評したこの本は、肩の凝らないライトな書き口で、 ズバッと核心をつく辛辣な批判をくりひろげている。ユーモアありパロディありで、読み物としても断然面白い。
 この本によると、谷崎潤一郎『文章読本』・三島由紀夫『文章読本』・清水幾太郎『論文の書き方』が文章読本界の御三家、本多勝一『日本語の作文技術』・ 丸谷才一『文章読本』・井上ひさし『自家製 文章読本』が文章読本界の新御三家なのだそうだ。
 このネーミングからしてユニークだが、決して御三家・新御三家を推奨しているわけではない。なぜこの六冊かというと、次のように述べられている。

 発表年代はばらばらだが、人気、実力、知名度、売れゆき、後世への影響力などを考慮 して、総合的に考えた結果である。右の六冊を特別扱いにする理由のひとつは、後世の文章読本がよってたかって参考にしていることだ。いちいち引用はしない が、その手の本を開いてみれば、この六冊への賛辞(ときには批判)がごろごろみつかるはずである。(p.29)

 本書はこの六冊について、それぞれの読本の内容だけでなく、執筆当時の時代背景や、読本間の熾烈な争いも解説している。これを読めば「思ったとおりに書 け」「思ったとおりに書くな」「話すように書け」「話すように書くな」といった教訓に隠された、著者たちの真意が見えてくる。偶然手にとった一冊をうのみ にしてしまったら危険だということがよくわかる。
 オリジナリティの必要な作家が文章作法を学んで役に立つのか、という問題提起もなされているが、少なくとも翻訳者には役に立つと思う。原著の文体・表現 を読み取り、それを再現するヒントになるからだ。特におすすめしたいのが「新御三家」のひとつ、丸谷才一『文章読本』(中公文庫)だ。丸谷自身も翻訳を手 がけているせいか、翻訳に役立つ記述が多い。

 現在の日本語文は、明治からせいぜい100年くらいの間に成立してきたものだ。それまでの和文と漢文を組み合わせた、日常の話し言葉とかけはなれた文体 (文語文)を、話し言葉に近づけた口語文が、いま私たちの使っている文章の言葉である。(このあたりの歴史は、斉藤美奈子が作文教育の歴史を通して、わか りやすく説明している。)
 丸谷才一が言うには、口語文はまだ完成していない。近代の文章家たちは、西洋の言葉や構文を日本語に取り入れることで、新しい時代の現実に対応してき た。だが、この文体にはまだ未熟な面もある。いまなお成立過程にある現代文を書く私たちには、その完成に向けて努力する使命があると言うのだ。

 言ふまでもないことだが、現代日本人が相手取らなければならないのは、和漢の融合に よって成立したかつての文明と、西洋近代の文明との複合体である。前者は江戸後期にほぼ完成したが、明治維新の結果、後者が闖入[ちんにゅう]して途方も ない混乱が生じたことは、まさかここで詳しく説明する必要はなからう。つまり三つの異質なものの運命的な衝突による、現代日本の特異な現実、それを何とか うまく処理してゆく論理性が現代日本語にあるかどうかといふことが論点になるだらう。わたしは残念ながらそれだけの力はまだ備はっていないと判断する。当 然のことだ。何しろ明治維新から数へてやうやく百年が経過しただけ。これは言語がまったく新しい事態に対応し、そして成熟するための時間としては、あまり にも短いはずである。(p.350〜351)

 肝心なのは、現代日本の文章が、われわれの現実――いつそう複雑なものになつたこの 新しい現実に、対応するだけの機能を備へてゐないといふことなのだ。これに立ち向ふだけのものをもし創造できないならば、それはすなはちわれわれの敗北を 意味するわけなのに。すなはちわれわれは玄人とか素人とかいふ区別なしに、口語文の完成のため営々として努力しなければならない。(p.377)

 そう考えると、翻訳者の責任は重大だと言える。いまの翻訳の現実を見れば、原文に引きずられて不自然な日本語になり、日本語の質を落とす結果になってし まうことのほうが多い。だが、日本語の伝統を踏まえ、その感覚を大切にしながら原語の表現法を取り入れれば、日本語の表現を豊かにすることもできる。日本 の作家がぬすみたくなるような表現だって書けるはずだ。

 文章上達のためには、名文を読むこと。誰にでもわかっていることだが、結局これしか道はない、と丸谷は言う。しかし、ただ漫然と読んだだけでは効果が薄 い。名文を読む際の目のつけどころを教えてくれるのが、丸谷の文章読本だ。
 言葉の組み合わせかた・レトリック(隠喩、直喩、迂言法、対句、誇張法等)・表記による効果など、さなざまな文章の技術が実例を挙げて解説されている。 こうした技術に目を配りながら、名文だと思う文章を読んでいくといい。

 第12章「現代文の条件」では、特に翻訳に役立つ技術が述べられている。具体的には、複数名詞のさりげない表しかた、人称代名詞の省きかた、文末が単調 にならないようにする工夫である。
「西洋ふうの厳密な記述を日本語でおこなはうとする場合、たちまち困るのは名詞の単数・複数だ」とあるが、これは翻訳でも頭を悩ませるところだ。丸谷は林 達夫の『「旅順陥落」』を引いて、「〜たち」というあからさまな複数形だけでなく、「外国雑誌類」「一連の事象」といった複数の表しかたを紹介している。 「さんざん見せつけられてきた…やり口」「次から次へと…背負い投げを食わされた」など、文脈を通して複数であることを伝える方法も示している。
 論理的な文章を書くために「近代西欧語のうち何か一つ」を勉強することを丸谷は薦めるが、欧文直訳風(特に代名詞の多用)は避けるべきだと述べている。 「言葉づかひの表面での西洋かぶれは、西欧の論理を実地に身につけることとはあまり関係がない」として、作曲家のエッセイを引き、代名詞の省きかたを解説 している。「まず蓄音機を床の間から紫檀[したん]のテーブルに移す。」「その箱に、そっと顔をよせると、香料の利いたミシン油の臭いが軽く鼻をつき」と いった文では、「大人の誰かが」「僕が」といった主語は省かれているが、誰の動作であるかは文脈から明らかなのだ。
 また、文末が「だった」「あった」「行った」、「である」「する」「来る」などと単調になりがちなのは、「現代日本語で文章を書くに当つての大問題」だ としている。その対策として、「過去のことを述べる場合にもところどころ現在形をまぜる」、「である」の多用を避ける、従属節や条件節(「〜なのに」「〜 だから」など)で結ぶ、といった手を紹介している。こうした手はもちろん翻訳にも役立つ。ただ、あまりやりすぎると、かえって不自然になりかねない。丸谷 はこの文末の問題にかなりこだわっているようだが、丸谷が手本として引いた罹災記の一節を見ると、無理に変化をつけすぎたような印象を受ける。このあたり は好みの問題もあるので、まずは自分が気に入った文章を参考にするといいだろう。丸谷も名文を次のように定義しているのだから。

 ところで、名文であるか否かは何によって分れるのか。有名なのが名文か。さうではな い。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思ったもの は駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひっそり埋れてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君 が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。君自身の名文となる。君の魂とのあひだにそれだけの密接な関係を持つものでない限り、言葉のあやつり方の 師、文章の規範、エネルギーの源泉となり得ないのはむしろ当然の話ではないか。(p.31)

 丸谷才一『文章読本』は、書くための読みかたを教えてくれるので、一読する価値はある。斉藤美奈子『文章読本さん江』とセットで読めば、楽しめること間 違いなしだ。


☆    ☆
筆者の紹介
津森優子
 翻訳家。慶応大学文学部卒。訳書に『乙女の湖』『洞窟』(早川書房)などがある。