翻訳についての断章

山岡洋一

経済の言葉と経済学の用語

 
『国富論』の翻訳について、第1編第1章の冒頭で「労働の生産性」という訳語を使ったのはなぜかという質問を受けた。

 じつはこの「労働の生産性」については、いくつかの違った観点から質問を受けるはずだと思っていた。第1は質問というより詰問であり、原文にthe productive powers of labourとあるのに「労働の生産力」と訳さないのはとんでもないというものである。「労働の生産力」は経済学できわめて重要な概念であり、この訳語を 使わないのであれば、経済学との関係が切れてしまうと非難する人、非難する価値もないとあきれる人がいるはずだ。これは当初から覚悟していたことだ。とい うより、そういう詰問や非難がでくれば論争になって面白いと、なかば期待していた。第2に、「労働の生産力」という常識的な訳語を避けて「労働の生産性」 と訳したのは面白いと考えて、こう訳した理由を聞きたいという意見がでてくる可能性もあると思っていた。第3に、若い読者なら、「生産力と生産関係の矛 盾」という経済学の有名な言葉を聞いたことがない可能性もあるので、この原文から「労働の生産性」という訳語がでてくる理由を純粋に知りたがる可能性もあ ると思っていた。

 今回受けた質問は多分、第2の観点からのものだが、第1の観点から詰問したい読者、第3の観点から答えを知りたい読者がいても不思議ではない。そこで、 これにかぎらず、経済に関するさまざまな言葉の訳語をどう考えてどう選択したのかを記しておきたいと思う。

 じつのところ、『国富論』の訳語の選択については長く悩んできた。2つの点で、既訳の訳語に納得できなかったからだ。

 第1に、既訳では主に抽象的な概念をあらわす訳語が使われていて、具体的なものをあらわす日常的な言葉とは切り離されているという問題を何とかしたかっ た。第2に、経済学でしか使わない用語が多すぎると考えてきた。順に説明していこう。

 具体なものをあらわす日常的な言葉と抽象的な概念をあらわす訳語については、たとえば『国富論』のキイワードのひとつ、marketについて考えてみる とよく分かるかもしれない。既訳ではもちろん「市場〔しじょう〕」という訳語が使われているが、アダム・スミスの文章を読んでいると、marketの訳語 として、「市〔いち〕」や「市場〔いちば〕」が相応しいと思える場合が少なくない。つまり、marketは具体的なものをあらわしていることが少なくない のだ。

 たぶん、市というのは、いまの日本ではあまり馴染みがなくなっている。朝顔市とか、古本市とか、ぼろ市とか思いつくだけだ。だがいまでも発展途上国に 行って町を歩いていると、市が目につくことがあるはずだ。何でもない広場に商人や近くの農家のおばさんが集まっていて、露店を開いている。野菜や果物、肉 や魚などを売っている。どの露店でも同じようなものを売っているので、競争は激しい。値段が高ければ売れない。ものが豊富にあるのに買い物客が少なければ 値段が下がるし、ものがあまりないのに買い物客が多ければ値段が上がる。

 アダム・スミスが『国富論』を書いたのは230年ほど前だから、当時のイギリスにはどの町にもこういう市があったはずだ(日本でも、230年前には各地 に市があった)。だからmarketという言葉を読むと、当時の読者は市を思い浮かべたはずである。だが、スミスは哲学者だから、具体的なもの、具体的な 事実をもとに、抽象的な概念を作り、論理を組み立てていく。そこで、同じmarketという言葉でも、市が開かれる場所、日本語でいえば「市場〔いち ば〕」を意味する場合もあるし、もっと抽象化している場合もある。目に見える範囲を越えて、地域全体、国全体、世界全体にすらmarketが広がっている 場合もある。「市場〔しじょう〕」という訳語は、こういう抽象的な概念をあらわす言葉だ。

 このように、アダム・スミスは具体的なものをあらわすmarketという言葉を、抽象的な概念をあらわす言葉としても使っている。だから、抽象的な概念 である「市場〔しじょう〕」について論じているときにもつねに、市の光景や喧騒、匂いが頭に浮かぶようになっている。具体的で現実的な事実といつもつな がっている。だが、marketを「市場〔しじょう〕」と訳したとき、具体的な市の光景や喧騒、匂いを連想するのは難しくなる。

 同じことはたとえば、price、value、moneyなどの言葉にもいえる。アダム・スミスは具体的なものをあらわす言葉をそのまま抽象的な概念を あらわすときにも使っているので、理論と現実がいつもつながっているのに、日本語に訳すと、たとえばmoneyは「貨幣」になって、お金とはつながりにく くなる。

 アダム・スミスの味のひとつは、理論がいつも現実とつながっていることだ。理論は現実から出発し、現実を考えるためにある。理論のための理論ではない。 だから、『国富論』の原文を読んでいると、marketはいつも市の呼び声と結びつき、moneyはいつもちゃりんという音と結びついている。この現実感 覚を日本語で表現するためには、現実から切り離されて、抽象的な概念だけをあらわしている訳語を使わないようにするしかないのではないか。そう長年考えて いた。だが、そうしようとすると障害が多いし、語彙が不足するとも考えていた。

 じつのところ、今回、『国富論』を翻訳することができたのは、抽象的な訳語を使わないようにしたいという望みをあきらめたからなのだが、その点に触れる 前に、第2の点、経済学でしか使わない用語について記しておこう。

 これは経済学全般にいえることなのだが、『国富論』の既訳では、経済学でしか使わない訳語がたくさん使われている。たとえば、第1編第9章はOf the Profits of Stockと題されているが、既訳では「資本の利潤について」「資財の利潤について」などと訳されている。この章を既訳で読むと、たとえば「利潤率」が rate of profitの訳語として使われ、「利子率」がrate of interestの訳語と使われている。いずれも経済学ではごく普通の用語なのだが、経済学の世界から少し離れると、誰も使っていないように思える。

 たとえば、日本銀行は「利子率」という言葉を使うのだろうか。もちろん、使わないわけではないが(日銀のサイトで検索すると、約70の文書で使われてい たが)、たいていは「金利」という。財務省は「利潤率」という言葉を使うのだろうか。もちろん、使わないわけではないが(財務省のサイトで検索すると、や はり70近い文書で使われていたが)、たいていは「利益率」という。日銀や財務省ですらこうなのだから、世間では普通、「利子率」とか「利潤率」とかの言 葉は使わない。これらの言葉は要するに、経済学の世界だけで通用する専門用語なのだ。

 もちろん、どの学問にも専門用語がある。世間とは違う言葉を使っている例はいくらでもある。だがそれは、学問の世界で言葉を厳密に定義し、論理的に扱え るようにしているからである。たとえば医学の世界ではさまざまな専門用語があり、世間とは違う言葉が使われているが、それはかなりの部分、世間で使われる あいまいな言葉を使っていては患者の生命をあずかる仕事ができないからである。だから、厚生労働省でも町の小さな病院でも医学用語が使われている。経済学 の専門用語はそうではない。経済学の世界から一歩離れると、経済の専門家すらほとんど誰も使わない専門用語がたくさんある。そして、『国富論』の既訳で は、そういう専門用語が使われているのである。

 たとえば、profitについていうなら、アダム・スミスがこの言葉を使うとき、日本語の言葉のなかで語感としていちばん近いのは「儲け」ではないかと 思う。「利益」ならそう遠くはない。個人についてならたとえば、「あいつの儲けはいくらだった」というところを、会社についてなら「あの会社の利益はいく らだった」ということも多いからだ。だが、「利潤」では現実と結びつかない。

「利子率」についていうなら、日本銀行でも民間の銀行でも一般の企業でも使う「金利」という言葉は、率と額のどちらにも使えるという意味で、厳密さに欠け るといえるかもしれない。だから、学問的には「利子率」を使うべきだと。だがそうなら、経済学者は日銀や財務省に、日本中の金融機関やマスコミに、「金 利」ではなく「利子率」という言葉を使うように申し入れるはずだ。そういう申し入れがあったという話は寡聞にして知らないので、「利子率」は経済学者の仲 間言葉だというしかないように思える。大学の経済学部と経済学の学会で使われているだけの仲間言葉だと。

『国富論』の既訳では、こういう言葉が訳語として使われているので、経済学を学びたいという人にはある程度便利かもしれないが、現実の経済に興味をもつ人 には相応しくないように思える。そして、経済学に興味をもつ人もたいていは、現実の世の中の仕組み、現実の経済の動きに興味をもっているからこそ、それを もっと深く知るための手段として経済学に興味をもつようになったのだと思う。だから、既訳はじつのところ、ごくごく少数の人のためだけに訳されているのだ と考える。


 このような点を考えて、訳語についての方針を決めていったのだが、第1の点については、諦めざるをえなかった。具体的なものをあらわす日常的な言葉で訳 したいと長く考えてきたのだが、『国富論』の翻訳では、一貫性のある形でそれを実現するのは無理だと考えたのだ。自分で書くのであれば、たとえば、市から 市場〔いちば〕、市場〔しじょう〕、マーケットへの流れを説明できるかもしれないし、ちゃりんと音がするお金がどのような性質をもっているかを説明できる かもしれない。だが、アダム・スミスはそういう風に論を進めているわけではない。

 それ以上に重要な点は、たとえば「価格」ではなく「値段」、「価値」ではなく「値打ち」、「資本」ではなく「元手」といった訳語を使うと、逆に、現実の 経済との関係が見えにくくなる危険があることだ。普通は「価格」「価値」「資本」などの言葉で現実の経済を考えているからだ。そう気づいて、具体的なもの をあらわす日常的な言葉で訳そうとは思わなくなった。たとえば日経新聞などのマスコミで普通に使われている言葉を普通に使って訳すのが最善だろうと思うよ うになったのだ。

 そう思うようになると、経済学でしか使わない用語は使わないという方針も自然に確立した。

 この方針に基づいて、the productive powers of labourという言葉をどう訳すかを考えると、答えは自然に決まってくる。この概念がいま、どういう言葉で表現されているかというと、おそらく「労働の 生産性」である。だからこの言葉を使う。経済に関心をもつ人ならたいていは理解できる言葉なので、問題が少ないという利点があるからだ。

 古典を訳すときにこのように勝手に訳語を変えられてはかなわないという意見もある。この場合なら、productive powersと原文に書かれている以上、「生産力」でなければならない、powerは「力」と訳すことになっており、そう訳されていないと、訳書だけを読 む読者は原文にどう書かれていたのかが分からなくなるという意見である。そこで、この点について触れておく。

 たとえば、アダム・スミスは『国富論』で、「資本」を意味する言葉として、capitalとstockを使っている。第2編の一部ではそれぞれを定義し て違った概念をあらわす言葉として使っているが、その他の部分では自由に言い換えている。既訳ではかなり無理をして、この2つの言葉にそれぞれ違う訳語を 割り当て、全編で使っている。今回の訳では第2編の一部を除いて、どちらも原則として「資本」と訳しており、区別はつけていない。

 そのように訳したというと、capitalとstockという言葉の意味が知りたい読者にとって役に立たない翻訳になるという意見があった。このような 意見はかなり根強く、たとえば長谷川宏訳の『精神現象学』について、Substanzを一貫して「実体」と訳してくれないと、Substanzの意味が分 からなくなるという意見をよく聞く。

 だが、こうした考え方はどこかおかしいと思う。アダム・スミスの場合でいえば、世の中の現実を観察し、具体的な事実から抽象的な概念を作る。そして、そ れぞれの概念をある言葉で表現する。その際には英語という言語の性格上、ひとつの概念をひとつの言葉で表現するとはかぎらず、いくつもの言葉に言い換えて いくのが普通だ。現実から概念を作り、それを言葉で表現するのであり、重要なのは現実とそれを理解するための概念なのだ。ところが明治以来、欧米の進んだ 文明を必死に吸収しようとしてきた日本文化の伝統では、そうは考えない。言葉から概念を探る。だから、言葉の意味を、たとえばcapitalとstock という言葉の意味を知ろうと必死になる。現実を出発点にし、それを抽象化して概念を作っていく過程を学ぼうとするのではなく、逆に言葉だけを探ろうとする のである。重要なのは現実を知ることでなく、現実を分析する方法を学ぶことでもなく、言葉だけであるかのように考える。

 このような姿勢を何と呼ぶべきかは分からないが、たぶん、言葉の物神崇拝と呼ぶか、言霊信仰と呼ぶべきなのだろう。明治以来、150年近くが経過してい る。欧米がはるかに遠く、理解することなどとてもできないと思えたころに身につけた習慣は捨て去り、現実をみる方法を学ぶ手段として、古典を読み返す時期 がいているのではないかと思う。

 経済という観点にたったとき、過去20年の日本の動きはほんとうに面白かった。バブルや金融機関の破綻、取り付け騒ぎ、デフレなど、歴史書か理論書で読 むだけだった現象が目の前で起こったのだ。翻訳者という立場で、いわば観客席からみていたから面白かったなどといえることは承知しているが、すべての学 問、すべての理論の出発点は好奇心である。目の前で繰り広げられる経済のドラマをもっと深く理解したいと考えたとき、残念なことだが、現代の経済学者の著 作が参考になると思えることはそれほど多くない。経済学をさらに細かく分けた専門分野に閉じこもっている人が多いからなのではないかと思う。

 だから古典を読む。英語で書かれたものだけでも、ロックやヒューム、スミス、マルサス、リカード、ミル、ヴェブレン、マーシャル、ケインズらの古典があ る。経済学が専門化する前の時代、経済について論じる人がみな、世の中のすべてを解きあかそうとしていた時代の名著がある。これらを読むのは、経済学を知 りたいからではない。18世紀から20世紀半ばまでの経済に関心があるからでもない。たったいま、目の前にある経済の動きを知りたいと思うからだ。

 同じような動機で経済の古典を読みたいと考える人は少なくないはずだ。そういう読者に向けて古典を翻訳するとき、いまの経済を考える際には使わない用 語、経済学者の世界だけで仲間言葉のように使われているだけの用語を使うわけにはいかない。

 だから、いまの普通の言葉で訳す。「利潤」ではなく「利益」と訳す。「利子率」ではなく「金利」と訳す。そして、「労働の生産力」ではなく、「労働の生 産性」と訳す。アダム・スミスがいまの日本語で書くとすれば、そう書くと信じるからだ。

(2007年6月号)