翻訳についての断章
山岡洋一
翻訳 家の時代

 
 翻訳が学問研究に付随する時代は終わった。研究者は翻訳を行わない。翻訳者は研究を行わない。これが原則になる時代がきている。

 翻訳は明治以降100年以上にわたって、ほぼすべての学問の母であった。欧米の優れた知識を吸収することに全力をあげていた時代、翻訳とはほぼすべての 学問分野で、欧米の優れた知識を研究した成果を発表し、後進に伝えるための手段として、なくてはならないものであった。

 だから翻訳は、有名大学教授の仕事だとされていた。有名大学教授の仕事、つまり、それぞれの世代を代表する学者が取り組むべき仕事だとされていたのだ。

 娯楽のためのものである小説や詩も、文学と呼ばれて学問の対象とされ、大学の英文科、仏文科などで研究するものとされていた。そして欧米の読者向けのエ ンターテインメントとして書かれた小説が、有名大学教授の手で訳されてきた。

 そういう時代はじつのところ、一昔前、1970年代には終わっている。1980年代には、欧米の進んだ知識を吸収することが大学の役割だとは、誰も考え なくなっていた。欧米の進んだ知識を学んだ成果を伝えるために翻訳を行うのが一流の研究者の仕事だとは、誰も考えなくなっていた。日本は明治以降100年 以上にわたる努力が実って、そう、明治以降100年以上にわたる翻訳者=学者の努力もあって、欧米各国と肩を並べるようになり、最先端の研究で競い合うよ うになったというのが一般的な見方になったのだ。研究者の仕事は最先端の研究であって、翻訳が入り込む余地はない。だから、もう一昔前から、一流の研究者 が翻訳に取り組むことはめったになくなっている。

 どの時代にも過去にしがみつく人はいる。いまも、翻訳者=学者という過去にしがみつく人はいる。だが、たいていの研究者は翻訳を棄てている。研究者とし ての道を歩んでいたなかでごく少数、研究を棄てて翻訳を選んだ人は、翻訳では生活が成り立たないからという理由で大学につとめている場合もあるが、それで も本務は翻訳だと考えていることが多い。そして、いま、とくに優れた翻訳者の多くは、翻訳を本職とする人、つまり肩書が翻訳家という人である。

 翻訳と学問研究が分離したのがいまの時代だが、そうなったのは、吸収すべき知識の量が爆発的に増加し、翻訳の需要も爆発的に増加したためだともいえる。 研究者は専門分野で大量に発表される最先端の研究の成果を吸収するのに忙しく、時間のかかる翻訳にじっくり取り組んでいる暇はない。だから、大量に必要と されている翻訳は翻訳の専門家に任せておけばいいと考えている。

 翻訳を職業にする立場からは、学者や研究者にこのように考えていただけるのはありがたいことだ。これまでは学者の領域だとされていた分野にまで、翻訳家 の活躍の範囲が広がる。たとえば、ほんの10年ほど前までは、自然科学や社会科学、人文科学のほとんどの分野で、一般読者向けに書かれた本であっても、有 名大学教授が訳者になっていなければならないとみられていた。小説でも、20年ほど前まではミステリーなどのエンターテインメント以外ではやはり、有名大 学教授が訳者になっていなければならないとみられていた。いまではこうした領域でも、翻訳家が扱うのが常識に近くなっている。

 読者の立場からも、学者や研究者にこのように考えていただけるのはありがたい。翻訳と学問研究が分離する過渡期には、学者は翻訳を学生や大学院生などに 任せるのが半ば常識になっていた。ひとつの本を何人もの学生や院生が分担して訳すのだから、翻訳の質が高くなるはずがない。そのようにして訳された本のな かには、はなはだ失礼ながら、この本の訳者は有名な学者なのに、専門的な知識という肝心要の点が不足しているのではないかと思わせるものもあった。読者の 立場でこう感じるのは、おそらく間違いではなかった。実際に訳したのは専門知識がまだ不十分な学生や院生だったはずだからだ。元訳者である学者が十分に チェックしていればそうはならないと思えるかもしれない。だが、翻訳には一筋縄ではいかないほど難しい面がある。翻訳を本来の仕事だとは考えなくなった学 者がチェックしても、そう簡単に修正できるものではない。

 だが、学問研究と不可分のものであった翻訳が専門化したと考えるべきではない。逆に、どの分野でも専門化が進んでいるからこそ、専門家にはない広い視 野、総合的な視点をもつ翻訳家が必要になったとみるべきだ。

 いまの世の中に、たとえば経済や哲学、数学などの専門家がいるだろうか。明治、大正、昭和の初めならともかく、いまの時代にはそんな人はいないといって もいいのではないかと思う。経済というほど広い分野を扱っていては、専門家だとはみなされない。日本経済に対象を絞っても、専門家ではない。専門家という からには、扱う対象ははるかに狭い。もちろん、研究対象が狭いからといって、視野が狭いとは限らない。ごく小さな対象を研究して、そこに映し出される森羅 万象をとらえようとする人もいる。だが、そのような広い視野をもった研究者は多くない。

 これに対して翻訳家に要求されるものは、幅広い知識と視野である。外国語で読む能力、母語で書く能力が不可欠なうえ、原著の内容を理解する能力が必要 だ。そして、翻訳家は書く内容を選べない。原著者が書いたものを訳すしかない。翻訳に値する本であれば、その内容がひとつの専門分野だけに止まることは めったにない。いくつもの分野にわたるのが普通だ。たとえば、経営書であっても、経済や金融、法律、社会、科学技術などの分野の問題にも触れていることが 多い。このため、翻訳には幅広い知識が必要であり、ときには広く深い知識が必要になる。総合力が必要なのが翻訳なのだ。

 だから、翻訳家は翻訳の専門家になろうとしてはいけない。目指すべきは幅広い知識をもつゼネラリストである。

 専門化の弊害のひとつは言葉の壁ができることだ。専門分野にはそれぞれ専門用語がある。知識が深くなり、専門化していくと、それぞれの分野で専門用語が つぎつぎに作られていく。専門用語は知識の深化には不可欠なのだが、そのために隣接する分野の間ですら、言葉が通じないという状況が生まれてくる。まし て、一般の読者、つまり専門をもたないか、遠く離れた分野の専門家である読者には、言葉がまったく通じないという事態になる。

 翻訳に値する著作は、専門家が同じ分野の専門家に向けて書いたものではない。そういう著作はいまではたいてい英語で書かれている。学者や研究者なら英語 の論文が読めないわけはないのだから、英語で読めばいい。翻訳に時間とコストをかける必要などない。

 翻訳が必要なのは、最先端の研究から一歩か二歩、距離をおいた著作だ。専門家が書いたとしても、他分野の専門家や一般読者を対象に書かれた著作が翻訳の 対象になる。また、専門分野の知識を一般読者に紹介するために、ジャーナリストやライターが書いた著作が翻訳の対象になる。こうした著作を翻訳するにあ たっては、専門化によって作られた言葉の壁を崩していく努力が必要になる。外国語から母語への翻訳にくわえて、専門家の言葉から普通の言葉への翻訳が必要 になる。そのためには、翻訳家は常識人でなければならない。専門家にすりよるのではなく、一般の読者が(つまり自分が)理解できないことは理解できないと 認める。そして、理解できない点を理解できるようになるまで調べ考え、その結果を読者に伝わる言葉で表現する。これが翻訳家の役割だ。

 翻訳家がいま取り組むべき仕事は、新しい著作の翻訳だけではない。過去に学者や研究者が翻訳したもののなかで、いまの時代に読む意味が十分にあるのに、 翻訳のスタイルが古くなっているために事実上読めなくなっている名著はたくさんある。こうした名著の新訳も、翻訳家にとって重要な仕事である。研究者が翻 訳を行わなくなったいま、この仕事を行えるのは翻訳家だけである。

 その際に最大の問題になるのは、おそらく経済性である。翻訳家とはそれ以外の肩書をもたない人間だ。いいかえれば翻訳以外に収入の道のないものである。 名著の翻訳で生活ができるのか。名著だけではない。そもそも出版の翻訳で生活ができるのか。できないのであれば、翻訳家という職業は成り立たない。これは 出版関係者と翻訳家が真剣に考えていかなければならない問題だ。翻訳者の側では、産業翻訳などで生活費を稼いで、残りの時間を出版翻訳にあてるという方法 をとっている。出版関係者には、翻訳家がそういう方法に頼らず、出版翻訳だけで生活できるようにする方法を是非考えていただきたい。

(2007年5月号)