翻訳批評

山岡洋一

深く失望

ケインズ著間宮陽介訳『雇用,利子および貨幣の一般 理論(上)』

 3年前の2005年に『星の王子さま』の 翻訳ブームが起こった。この年の1月に日本での著作権保護期間が切れて、岩波書店の内藤濯訳の独占権がなくなったからだ。 その年に10点近くの新訳があらわれ、翌年にもさらに10点近くが出版されている。読 者にとって、選択の幅が一気に広がったのだから、ありがたいことだ。

 著作権は複雑怪奇だが、日本で は基本的に死後50年までが保護期間になっている。英米仏などの第2次世界大戦の連合国で出版され た書物ではこれに、いわゆる戦時加算の約11年半が加わる。ケインズは19464月になくなっているので、2007年終わりには日本での著作権保護期間が切れているはずである。もちろん、ケインズの著作 は『星の王子さま』とは違って、数百万部の大ベストセラーになる本ではないし、翻訳も容易ではないので、新訳がつぎつぎに登場する状況になるはずはない。 それでも、『一般理論』で塩野谷親子の独占権がなくなるので、新訳があらわれるのは予想されたことであった。『一般理論』は原著が1936年に発行されてからわず か5年 後の1941年に、東洋経済新報社から塩野谷九十九訳が出版され、1983年に同じ東洋経済新報社 から、『ケインズ全集第7巻』として、息子の塩野谷祐一の訳が出版されている(1995年にソフト・カバーの普 及版がでている)。70年近くにわたった塩野谷親子の独占権がようやく切れて、新しい訳がでてくる状況になった のだ。

 それに、岩波文庫で間宮陽介訳 が出版されることは、前から分かっていた。準備は整っていて、著作権の保護期間が切れればすぐに出版されると、20065月に発行された伊東光晴著『現 代に生きるケインズ』(岩波新書)に書かれていたからだ。だから、20081月についに上巻が出版されたとき、待望の新訳があらわれたと喜んだ読者が多かったのでは ないかと思う(下巻は20083月に出版予定)。

 間宮陽介訳が出版されたのは1月半ばだが、意外なことに入手 が難しく、実際に買えたのは1月末であった。すぐに読みはじめた。だが、期待が大きすぎたという面もあるだろうが、深 く失望することになった。塩野谷九十九訳と比較すればともかく、塩野谷祐一訳と比較した場合には、少なくとも翻訳のスタイルでは進歩がないし、翻訳の質と いう点ではむしろ後退していると思えたからだ。いくつか、典型例をあげて説明していこう。

第一篇第一章冒頭で失望

 間宮訳には、第一篇第一章の第1センテンスですっかり失望する 結果になった。こう書かれていたからだ(なお、下線は引用者による)。

1

 私は本書を『雇用、利子および 貨幣の一般理論』と名づけた。一般という接頭辞に力点をおいてである。(間宮陽介訳『雇用, 利子および貨幣の一般理論』岩波文庫5ページ)[1]

 このように、間宮は原文のprefixを「接頭辞」と訳し ている。なぜなのか。「一般」が接頭辞だからだろうか。もちろん、そうではない。「接頭辞」は文法用語だ。「不十分」の「不」や「ご親切」の「ご」などが 接頭辞であって、「一般」は接頭辞ではない。ではなぜ、「一般という接頭辞」と訳したのか。原文に、the prefix generalと書かれており、prefixという語を英和辞典で引くと、たいていは「接頭辞」という訳語が真っ先にでているから だ。

 間宮陽介は「訳者序文」で、こ の翻訳は「逐語訳」であり、ケインズの原文を「できるだけ平明な日本語」に換えることに苦心したと述べている。だが逐語訳は通常、翻訳調、学者訳などとも いわれ、「平明な日本語」とは矛盾するとみられている。この「接頭辞」という訳語をみると、間宮のいう「逐語訳」は、やはり翻訳調のことなのかと思わざる をえない[2]。塩野谷九十九訳、それを受け継いだ塩野谷祐一訳と変わらない翻訳スタイルを間宮は採用 している。後に触れるように、塩野谷訳の場合には、これが時代の要請にあっていたとみられる。だが、21世紀の新訳に相応しいスタイルだとは思えない。

 翻訳のスタイルが変わらないの だから、翻訳の質を判断する際には、2つの点に重点をおくしかない。第1に、既訳の間違いを訂正できているか、第2に、既訳と比較して、新しい解 釈が示されているかである。そこで、既訳と違う点はどこなのかを中心に、読み進めていくことにした。比較したのは主に『ケインズ全集第7巻』の塩野谷祐一訳であり、必 要に応じて塩野谷九十九訳第3版(1960年)を参照した。既訳との違いは意外に少なく、そのなかで、この2点で既訳より前進したと思える 箇所は少ないようだった。逆に、後退したと思える箇所の方が多かった。

並列の解釈の違い

 まずは比較的簡単な問題、andの処理を取り上げる。第六 章付論につぎの部分がある。

2

間宮訳

……しか し、余剰装備が存在するとしたら、そのときには、使用費用はさらに利子率と、そして余剰が損耗その他によって底をつくと期待される時点が来るまでの 期間にわたる当期補足費用(つまり再評価された補足費用)にも依存するだろう。(同上99100ページ)[3]

塩野谷祐一訳

……しか し、もし過剰設備があれば、その場合には使用者費用は、過剰部分が消耗などによって吸収されてしまうと予想されるまでの期間における利子率および当 座的(すなわち再評価された)補足費用にも依存するであろう。(『ケインズ全集第7巻』71ページ)

 間宮訳と塩野谷祐一訳では「利 子率」の部分の解釈が違っている。一読すると、間宮訳ではこの部分の理解が難しく、塩野谷祐一訳の方が理解しやすいように思うが、その点は無視して、純粋 に英文解釈という点から考えてみよう。

 原文は、A and B over Cという形になっている。このandが何と何を並列しているの かが問題である。英文法ではandは同一の形のものを結ぶのが原則なので、(A and B) over Cが 原則だ。それでは意味上、矛盾がある場合には、例外としてA and (B over C)と考える。塩野谷祐一は原則を採用し、間宮訳は 例外を採用したことになる。どちらが正しいかは通常、原文の「形」だけでは分からない。原文の「意味」から判断するしかない。だが、これを言い換えた表現 があれば、「形」から判断できる場合もある。

 つぎの段落にも同様の表現があ り、やはり解釈が違っている。そのつぎの段落では、表現が少し違っているので、塩野谷祐一訳と間宮訳のどちらが正しいかを、原文の「形」だけから判断でき るようになっている。段落の全体をみてみよう。

3

間宮訳

 同様に して、船舶、工場、機械などの使用費用は、これらの装備が過剰供給の状態にあるときには、利子率で割り引いたその推定更新費用と余剰がなくなると見 込まれる期日にいたるまでの当期補足費用とである。(同上100ページ)[4]

塩野谷祐一訳

 同じよ うに、船舶や工場や機械の使用者費用は、これらの設備が過剰供給の状態にある場合には、過剰部分が吸収されてしまう将来時点までの利子費用および当 座的補足費用の百分率によって割り引かれたその推定取替原価である。(同上71ページ)

 ここでもandの並列について、間宮訳と 塩野谷祐一訳で解釈が違っている。

間宮訳

(its estimated replacement cost discounted at the percentage rate of its interest)
and
(current supplementary costs to the prospective date of ...)

塩野谷祐一訳

its estimated replacement cost discounted at the percentage rate of
its (interest) and (current supplementary) costs to the prospective date of ....
 

 原文の「形」をみると、間宮訳 ではcostがなぜ複数形になっているか、説明がつかなくなる。上の原文でもそうだが、current supplementary costは一貫して単数形で使われているからだ。ここで複数形になっている理由は、interest costcurrent supplementary costを並列しているから考えるのが普通だろう。また、interestになぜitsがついているのか、説明が つかない。「利子率」であればits rate of interestになるはずだ。さらに、current supplementary costになぜ冠詞がついていな いのかも、説明できない。上の原文でも他の箇所でも定冠詞がついており、ここに定冠詞がついていないのは、その前にitsがあるから、つまり、このandits interest costits current supplementary costを結ぶものであるからと 考えるのが自然である(もちろん、誤植か間違いという可能性はあるが)。

 要するに、以上2つの例では塩野谷祐一が正し く、間宮陽介が間違っている可能性が高いといえよう[5]。間宮訳にはこれと同様に、andの解釈が塩野谷祐一訳と違っている箇所がいくつも目につく。たいていは塩野谷祐一が原則 を採用し、間宮訳は例外を採用したことによる違いであった。ここではそのうち、原文の「意味」を考えるまでもなく、「形」だけを手掛かりにすることができ る例を取り上げた。

解読不可能な訳文

 つぎにとりあげるのは、間宮訳 では解読が不可能だと思われる箇所である。意外なことに、間宮訳にはこうした部分が少なからずあった。典型例を紹介しよう。第一二章のうち、資本市場の性 格を論じた有名な部分に、以下の注がついている。

4

間宮訳

(1) 投資信託や保険会社は投資ポートフォリオの生む所得の計算だけでなく、その市場に おける資本評価の計算をも業務とするのがしばしばである。このような業務はふつうは節度を旨とすると考えられているが、後者〔市場における資本評 価〕の短期的変動にも度はずれた注意を払っているようだ。(同上218ページ)[6]

塩野谷祐一訳

(1) 投資信託や保険会社がしばしば投資証券からの所得だけでなく、市場における資本評 価をも計算する場合のやり方は、通常慎重であると考えられているけれども、後者の短期的変動にあまりにも多くの注意を向ける傾向がある。(同上156ページ)

  間宮訳のうち、「その市場における資本評価の計算をも業務とする」というのが具体的に 何を意味するのか、分かるだろうか。正直なところ、さっぱり分からない。内容は分からないが「資本評価」いう仕事があって、それを企業か投資家の依頼を受 けて行っているのだろうかとでも想像するしかない。

  ところが、原文を読むと何ということもないことが書かれているように思えてならない。 投資ポートフォリオのインカムだけでなく、時価評価額も算出するのが慎重な姿勢だと考えられているため、短期的なキャピタル・ゲイン(ロス)に注目しすぎ る結果になっているというのではないだろうか。この解釈が正しいとすると、塩野谷祐一訳では理解に苦労し、間宮訳ではまず、解読が不可能だと思える。

 それ以上の問題がある。塩野谷 祐一訳は原文のほぼ正確な逐語訳になっている。ところが間宮訳では、この原文からこの訳がなぜでてくるのか、理解に苦しむ。たとえば、「このような業務は ふつうは節度を旨とすると考えられているが」という訳がどうしてでてくるのか分からない。また、原文のtend toをどう解釈したか が分からない。

 以上の例を取り上げたのは、じ つはこの注がついている段落の解釈に問題があると思えるからだ。長い段落なので、前半と最後を除いて紹介するが、それでもかなり長い。

5

間宮訳

……さら に、目先の市場変動はこれを無視してかかろうとする投資家は、安全を確保するためにそのぶん大きな資力を必要とする。よし投機的取引を大規 模に行うことあったとしても、借入金をもってするなど論外である。この点は、投資ゲームから得られる、所与の知力と資力に対する収穫が比較的高いこ とのさらなる理由である。最後にもう一つ。長期的投資家は公益を最も促進する存在であるにもかかわらず、最も非難を受けるのも実を言えば彼であ り、投資資金の運用者が〔投資信託などの〕委託者、〔保険会社などの〕資金運用機関、銀行などの場合は決まってそうである(1)。彼は常識はずれで 型破り、向こう見ずの存在だというのが世間の通り相場であるが、なるほどこうしたことは彼の行動の本質に属しているからである。(同上217ページ)[7]

塩野谷祐一訳

……さら に、短期の市場変動を無視しようとする投資家は安全のために多額の資金を必要とし、借入金をもってする場合には、やるにしてもあまり大規模な操作を してはならないのである――このことは、知力と資力の手持ちを一定とすれば、遊戯から得られる収益の方が高いもう一つの理由である。最後 に、実際上最も多くの批判の対象とされているのは、公共の利益を増進させるはずの長期投資家であって、投資資金が委員会や評議員会や銀行によって管理され る場合はつねにそうである(1)。なぜなら、普通の意見をもつ人々の眼に、彼が常軌を逸し、型破りで、無謀に 映るのは、彼の行動の本質からみて当然だからである。(同上155ページ)

  証券市場で長期投資よりも投機が中心になると論じた有名な箇所だが、間宮訳を読むと、 絶望的なほど分からないという印象をもつ(因みに〔……〕は間宮が挿入した補足であり、ない方が良かったように思える)。塩野谷祐一訳はまだましで、解読 不可能というほどではない。そして、原文ははるかに理解しやすい。原文を読んだ後に間宮訳を読むと、いくつもの問題がみえてくる。

  まず、「よし投機的取引を大規模に行うことあったとしても」というのはなぜなのか。こ こでは投機家ではなく、長期投資家の話をしているのだから、「投機的取引を大規模に行う」ことはないはずだ。原文にも、「投機的取引」と解釈できる語句は ない。この「投機的取引」という言葉で、全体の筋が読めなくなる。

  そのため、つぎの「この点は、投資ゲームから得られる、所与の知力と資力に対する収穫 が比較的高いことのさらなる理由である」は解読不可能になる。原文を読むと、単純なことが書いてあるようだ。長期投資家は株価が短期的に変動してもポジ ションを維持するので、借入に頼るわけにはいかない。そのため、レバレッジが使って投資ゲームを行う投機家と比較して、知力と資金力が同じなら、リターン が低くなるといっているのだろう。

  もうひとつ、「最後に」以下では、「常識はずれで型破り、向こう見ずの存在」だとされ るのは通常、投機家である。だから、この部分でケインズが誰のどういう行動について語っているのかが分からなくなる。投機が一般的な市場では、長期投資家 は常識に逆らうことになるといっているだけだと思うのだが。

  原文を素直に読めば、間宮はここで原文だけからは読み取れない解釈をくわえて訳文を書 いているように思える。だが、この訳文からは、どのような解釈なのかを読み取ることができなかった。間宮の解釈が正しい可能性はもちろんあるわけだが、解 読ができないのだから、正しいか正しくないかを判断することはできなかった。

  間宮訳は基本的に翻訳調の逐語訳だが、以上2つの例にみられるように、とき おり訳文が原文の「表面」から大きく離れていることがある。21世紀の時代の要請を考えれば、翻訳にあたって、原文の「表面」の奥にある「意味」を理解 して、それを母語で表現するスタイルをとるべきだと思うが、間宮がそういうスタイルを採用しようとした形跡はない。ときおり、原文の「表面」を無視するよ うになるという印象だ。こういうとき、訳文は解読不可能になるか、誤解を招くものになる。

 訳 語の選択の問題

 もうひとつ指摘しておきたいの は、訳語の選択をめぐる問題である。間宮訳は既訳とそれほど違っているわけではなく、違っている点のうちいちばん多いのは訳語である。だから、訳語の選択 の問題は間宮訳の評価にあたって大きな要因になる。まずは第一五章の例をとりあげる。

6

間宮訳

 利子率 は高度に心理的な現象というより、高度に慣習的な現象と言ったほうが恐らくもっと適切かもしれない。というのは、その現実の値は主に、その 値はどのようなものになるかについての広く行き渡っている見解によって支配されるからである。どのような水準の利子率であれ、それが永続き しそうだと十分に強い確信をもって受け入れられているならば、現に永続きするものである。といってもむろん、変動する社会では、いろいろな理由から、期待 された正常値のまわりを変動するのは避けられない。とりわけ、M1M以上に急速に増加しているときには、利子率は上昇するだろうし、逆の場合には利子率は下 落するであろう。しかし利子率は、完全雇用には高すぎる慢性的な高水準のまわりを何十年ものあいだ変動することだってありえよう。ことに、利子率は自己調 整的で、それゆえ**市場によって打ち立てられた水準は慣習よりもずっと強固で客観的な基礎に根ざしており、最適な雇用水 準に達することができないのは利子率が不適切な範囲にとどまっていることとは少しも関係がないと、大衆にも当局にも、広く考えられている場合には。(同上285ページ)
**  この箇所は原文では「慣習(convention)によって 打ち立てられた水準」となっているが、文脈を考えて訳文のように訂正した。(同上398ページの訳注)[8]

塩野谷祐一訳

 利子率 は高度に心理的な現象であるよりもむしろ高度に慣行的な現象であるといった方が、おそらくはるかに正確であるかもしれない。なぜなら、その 現実の値は、その値がどうなると期待されるかについての一般的な見解によって著しく支配されるからである。どのような水準の利子率であって も、長続きしそうだと十分な確信をもって認められるものは長続きするであろう。もちろん、その利子率は、変動する社会においてはさまざまな種類の理由のた めに、期待される正常水準をめぐる変動にさらされるであろう。ことに、M1Mよりも速く増加する場合には、利子率は上昇し、逆の場合には逆の結果になるであろう。し かし、利子率が、完全雇用を実現するには慢性的にあまりにも高い水準のところで数十年も変動することがあろう。――利子率は自動調節的であるという意見が 一般的となっていて、そのため慣行によって確立された水準でありながら、慣行よりもはるかに強い客観的な根拠に根ざしている と考えられ、雇用量が最適の水準を達成しえないことは、公衆の意見においても当局の意見においても、不適当な幅の中で利子率が成立していることとはまった く関係がないと考えられている場合には、とくにそうである。(同上201ページ)

 翻訳を一種のフィードバックの 過程だと考えたとき、この段落はじつに面白い実例になるのではないかと思う。

  翻訳にあたっては、冒頭から1センテンスずつ、1段落ずつ訳していくわけだが、当初の訳はいってみれば仮の訳である。仮といっても大雑把 な訳だとか、荒い訳だとかいうわけではない。はじめから完璧な訳にすることが目標だ。最後まで訳して読みかえすときに、一字一句の修正も必要ではないよう にすることを目標にしている。それでも、翻訳が進むとともに、それまで訳した部分を修正する必要がかならずでてくる。

  なぜかというと、翻訳は原著を深く細かく読んでいく作業だからだ。外国語で書かれた原 著を読むとともに、原著者が表現したことを母語で書いていく。原著の理解が曖昧だったり、浅かったりすれば、書くことはできない。だから翻訳にあたっては たぶん、普通の読書と比較して、10倍は深く細かく読むことになる。理解が曖昧だったこと、浅かったこと、あるいは間違って いたことが分かるのは、それまでの理解では訳せないセンテンスや段落にぶつかったときだ。つまり、翻訳へのフィードバックは誰か他人から与えられるより前 に、原文から与えられる。

 こうしたフィードバックにはさ まざまな水準のものがあるが、この段落はそのうちもっとも簡単な訳語のレベルの好例だといえよう。ここで訳語が問題になるのはconventionだ。間宮は 『ケインズとハイエク』(ちくま学芸文庫)で、この言葉を中心にケインズ理論の再構築を試みたとしているので、どういう訳語を選択しているのか、興味をも つのは当然だといえる。

  間宮はconventionを一貫して「慣習」と訳してきた[9]。だがこの段落で、この訳語に居心地の悪さを感じたのではないだろうか。いや、居心地の 悪さならもっと前に感じていたかもしれない。たとえば間宮訳211ページには、「慣習のもつ不安定さ」という訳がある。「慣習」とははるか昔から続いてき ていて、簡単に変わったりはしないものだが、conventionは不安定なものなのだ。いってみれば、convention=「慣習」 という見方にはかなり前から小さなひびが入っていた。この段落にきて、ひびが大きくなり、大きな割れ目になって、無視できなくなったはずだ。

  まず、段落の前半では、conventionの形容詞形であるconventionalの意味が説明されている。この語はprevailingに近い意味をもっているのである(因みに、英語の類語辞典をみると、この2つが類語として扱われてい る)。この点に間宮が気づかなかったとは考えにくい。しかし訳文は、そんなことには気づかなかったかのようになっている。そのため、訳文だけを読むと、 「というのは」以下が理由になっているのかどうか、理解が難しい。

  つぎに、段落の後半では、1つのセンテンスの中に2回使われているconventionのうち一方を「慣習」とは訳せなくなったようだ。原文からのフィードバックの典型例であ る。このような場合、訳者はさまざまな可能性を考える。第1に「慣習」という訳語が間違っている可能性である。いいかえれば、conventionという言葉 の意味を誤解していた可能性だ。第2に、conventionという語がいくつもの意味をもっているために、文脈によって訳し分けなければならない可 能性である。通常はこのどちらかを採用するのだが、どちらも無理であれば、第3に最後の手段として、原文が間違っていた可能性を考える。

  段落の前半でconventionalprevailingという語で説明しており、prevailingと「慣習」とでは意味にかなりのズレがあることを考えれば、普通なら第1か第2を採用するはずだと思える。そ して原文を読みなおせば、is thought to beがカギになって、第3を採用する理由がないことが理解できるはずだ。

  だが訳と訳注をみると、間宮は第3を採用したのではないかと思われる。第2であれば、「市場によって」で はなく、たとえば、「市場に広く行き渡っている見解によって」にしたのではないかと思えるからだ。間宮はせっかくのフィードバックを活かせなかったような のだ。

  訳語の選択について、もうひとつ例をあげよう。第一六章冒頭の段落である。

7

間宮訳

 個人の 貯蓄行為は言うならば今日は夕食をとらないと決意することである。だがその貯蓄行為が、いまから一週間後あるいは一年後に夕食をとる、あるいは一足の長靴 を購入する、つまりある特定の期日にある特定のものを消費するという決意を随伴するかといえば、そんなことはない。 かくして、今日は夕食をとらないという決意は、将来いつの日か行われる消費活動を準備するための事業を促進することなく、今日の夕食を用意する事業を不振 に陥れることになる。貯蓄は現在の消費需要を将来の消費需要に振り替えることではない。それはこのような需要を全体として減少させてしまうことなのだ。そ のうえ、将来の消費に関する期待は大部分が現在の消費体験をもとにして形成されるから、将来の消費も抑制されることになりか ねない。その結果、貯蓄行為は消費財価格を引き下げるのみで現存する資本の限界効用には影響を与えないということにはならず、現実には資本の限界効用をも 低下させる可能性がある。このような場合には、貯蓄は現在の消費需要とともに現在の投資需要をも減少させることになろう。(同上294ページ)[10]

 塩野谷祐一訳

 個人の貯蓄行為は――いわば――今日は夕食をとることをやめようと決意することを意味 する。しかし、それは一週間後あるいは一年後に夕食をとるとか、一足の靴を買うとか、特定の日に特定のものを消費するという決意を必要にするものではない。したがって、それは今日の夕食の用意をするという仕事をへらすだけで、将来のなんらかの消費行為を準備するとい う仕事を刺激するものではない。貯蓄は現在の消費需要の代わりに将来の消費需要を選ぶということではない。――それは現在の消費需要の純粋な減少である。 そればかりでなく、将来消費の期待は現在消費の現行の経験に大きく依存しているから、後者の減退は前者をおそらく抑圧するで あろう。その結果、貯蓄行為は消費財の価格を押し下げ、現存資本の限界効率を無影響のままに残すというだけでなく、実際にはそれを減少させる傾向をもつで あろう。この場合には、貯蓄は現在の消費需要を減退させるとともに、現在の投資需要をも減退させることになる。(同上208ページ)

  間宮訳の「将来の消費に関する期待は大部分が現在の消費体験をもとにして形成されるか ら、将来の消費も抑制されることになりかねない」の部分が理解しがたい。なぜ、「現在の消費体験」なのか。原文はcurrent experience of present consumptionだ。このexperienceという語は繰り返しでてくるが、ここ以外の箇所では気づいたかぎりすべて、「経験」と訳 されている。これを「実績」「事実」「現実」といった語で訳すのであれば納得できるが、ここだけ「体験」としたのはなぜなのか。この段落は夕食の話からは じまっているので、「現在の消費体験」では、たとえば、夕食がおいしかったかどうかという意味だと読者が誤解することになるのではないだろうか。

  そのうえ、「将来の消費も抑制される」というのはおそらく間違いである。原文はthe formerだが、the formerとはthe expectation of future consumptionを指すと考えるのが常識ではないだろうか。

  ここで、塩野谷祐一はおそらく何の迷いもなく「経験」という訳語を選んでいる。文脈 上、「体験」ではありえないと判断したからだろうが、それだけではないはずだ。塩野谷祐一にとって、experienceは文脈にかかわらず、「経験」と訳すべき語だったはずだ。そう考える理由は、塩野谷祐一 訳の基礎になった塩野谷九十九訳の性格をみればあきらかである。

  1936年に『一般理論』が出版されたとき、古典派経済学を学んできたものにとって、まったく理 解しがたいものであったと、サミュエルソンが語っている(篠原三代平・佐藤隆三編集『サミュエルソン経済学体系第9巻』勁草書房、211ページ以下による)。いま では初心者が明白で陳腐だと考えることも、謎のようだったというのだ。だから、出版後、1年から1年半にわたって、マサチューセッツ州ケンブリッジにはケインズの理論を理解できた人はひ とりもいなかったと断言している(いかにもサミュエルソンらしく、ケインズ自身すら自分の理論を理解していなかったとしている)。

  塩野谷九十九が『一般理論』を翻訳したのは、こういう時期だ。後にアメリカのケインズ 経済学を代表する学者になる人たちが母語で読んでまったく理解できなかったという本を、日本の経済学者や研究者が外国語で読んで理解できたとは考えにく い。サミュエルソンはケインズの文章が数式に翻訳されるようになって、ようやく理解できるようになったというが、日本の場合には、数式に翻訳する前に、日 本語に翻訳する作業があった。それを担ったのが塩野谷九十九だ。

  幸い日本には外国の進んだ文化を吸収してきた長い歴史があり、謎のようで理解しがたい 理論を吸収するために使う標準的な方法が作られていた。まず、いわゆる翻訳調の逐語訳のスタイルを使って、原文の表面を忠実に訳していく。つぎに、こうし て作られた訳書を参考にしながら、原書を1センテンスずつ詳しく読み、議論し、意味を考えていく。翻訳調の翻訳はあくまでも、原書 を読むための参考資料なのであり、単独で読むものではなかった。そして、翻訳調の訳書には独特の読み方があった。

  たとえば、翻訳調の訳書で「経験」という言葉が使われていたとき、この言葉が日本語で 普通に使われる「経験」とはまったく違っているというのが常識であった。この常識を知らなければ、そもそも翻訳書を読む資格がないといえるほどだったの だ。では、翻訳調の翻訳で使われる「経験」とはどういう言葉だったのか。原文のこの部分にexperienceと書かれていることを示す符丁だったと考えるといちばん分かりやすい。つまり、「経験」 はたとえば、「良い経験だったと考えて、また頑張ります」というときの「経験」とはまったく違っていて、それ自体には何の意味もない空の言葉、experienceという言葉 の意味を考えるための手掛かりにすぎない符丁だったのである。

  ケインズは理論家ではあるが、同時に批評家、ジャーナリストという面ももっていた。 『一般理論』にも、そういう特徴がよくでているように思う。たとえば、第一四章の付論でリカードについて、寸鉄人を刺す名文句を書いている。リカードは現 実から離れた仮想の世界を築き上げ、それが現実の世界であるかのように思わせ、その世界に一貫して住みつづけており、これは凡庸な精神では達成できない偉 業だというのである。後継者のほとんどは常識が邪魔して、論理的な一貫性を維持できなくなっているともいう。

  塩野谷親子の訳にはさまざまな問題があるにしても、少なくとも現実の日本語から離れた ところに翻訳調という仮想の世界を築き上げ、首尾一貫した翻訳を仕上げてきたとはいえるだろう。サミュエルソンがいうように、謎としか思えなかったケイン ズ理論を、いまでは初心者が難なく理解するようになっているのだとしても、塩野谷九十九の時代に翻訳調の翻訳が必要だったのは確かだと思える。

  間宮陽介は、時代の要請がすっかり変わった21世紀になって、塩野谷九十九 と同じスタイルの翻訳を行おうとした。常識が邪魔して一貫性が保てなくなるのも不思議ではない。その結果、使ってはならない箇所で「現在の消費体験」とい う表現を使う結果になったのではないだろうか。

終わりに

 間宮訳を読むと、塩野谷訳に代 表される翻訳調の世界がいまだにいかに強い影響力をもっているか、あらためて印象づけられる。例としてあげた部分を読めば分かるように、間宮訳で使われて いる言葉や表現はほとんど、翻訳調の世界のものである。単語のレベルでいえば、上記の「経験」もそうだし、「利子率」や「期待」といった言葉も、翻訳調の 世界のものだ。

  たとえば「利子率」という言葉は、経済の現実を考えるときにはまず使わない。「金利」 か「利率」を使う。だが翻訳調の世界では、interest raterate of interestは「利子率」と訳すことになっている。このた め、経済専門家のなかには、翻訳でなくても金利を「利子率」と表現する人がいる。「利子率」という言葉を誤解する読者はまずいないから、とくに問題がある わけではないという意見もあろうが、現実とはかけはなれた理論の世界の話だという印象を与えるという問題は残る。

  だが、「期待」の場合にはさらに、不必要な誤解を招きかねないという問題がある。翻訳 調の世界では、「期待」は原文のこの部分にexpectationという語があったことを示す符丁であって、それ以上の意味はもたない。普通の日本語で使 われる「期待」は「希望的な望み」という意味であって、ある程度まで不合理なものだが、翻訳調の世界で使われる「期待」にはそういう含意はない。英語のexpectationは誤解の 余地があまりない言葉なのだから、日本語でも誤解を招かないように、「予想」とすればいいと思うのだが、翻訳調の世界では「期待」と訳すのが約束ごとに なっている。現実の日本語から離れたところに、現実の経済からも離れたところに作り上げられた仮想の世界、それが翻訳調の世界である。

  翻訳書のなかでは、「期待」も「経験」も「利子率」も首尾一貫して使われているかぎ り、それほどの問題はないかもしれない。だが、翻訳書で学んだことを現実に適用しようとすると、すぐに問題が起こってくる。たとえば、数年前のデフレ論争 のときに、「インフレ期待」という言葉が使いにくかったことを考えてみればいい。「インフレ期待」とは、普通の日本語なら「インフレが起こればいいなとい う気持ち」といった意味になるだろうが、専門家の間ではinflation expectationsの訳語として、違った意味で使われ る。普通の日本語に翻訳すれば、「予想インフレ率」か「インフレ率の予想」だ。だが、普通の日本語として考えたときの意味だと誤解されることもあり、とき には書き手自身が誤解している場合すらあった。そこで、「インフレ期待」という言葉を使うときに、「予想インフレ率」のことだと解説している例もあった。 だったらはじめから「予想インフレ率」といえばいいのにと思う。

  間宮陽介は京都大学大学院教授という権威ある立場の学者であり、少なくとも一昔前まで は絶対の権威だった岩波文庫の1冊なのだから、もっと思い切ったスタイルで翻訳することもできたはずである。『一般理 論』はケインズ革命といわれるほど伝統を打ち破った本なのだから、翻訳調の伝統を打ち破る翻訳を行ってほしかった。翻訳調の仮想の世界から抜け出して、現 実の世界を考える際に使える概念を示してほしかった。少なくとも、古いスタイルの翻訳にしかない文体ではなく、経済書で普通に使われている文体で訳してほ しかった。ないものねだりなのだろうか。
(2008年3月号)



[1] 1原文

  I have called this book the General Theory of Employment, Interest and Money, placing emphasis on the prefix general. (John Maynard Keynes, The General Theory of Employment, Interest and Money, Prometheus Books, p. 3)

[2] 「接頭辞」と書かれていよう がいまいが、ケインズの経済理論を理解するうえで妨げにはならないという意見もあろう。だが、同じ姿勢はたとえば、increaseという語の訳し 方にもあらわれる。この語は数量の増加にも、率の上昇にも使われるが、英和辞典にはなぜか、「増加、増大」といった訳語しかでていない。そこで、数量の場 合も率の場合もかまわず「増大」と訳すのが逐語訳である。この場合には、経済理論の理解を妨げることになりかねない。たとえば、間宮訳の60ページを参照。

[3] 2原文

.... If, however, there is redundant equipment, then the user cost will also depend on the rate of interest and the current (i.e. re-estimated) supplementary cost over the period of time before the redundancy is expected to be absorbed through wastage, etc. (Op. cit., p. 70)

[4] 3原文

  In the same way the user cost of a ship or factory or machine, when these equipments are in redundant supply, is its estimated replacement cost discounted at the percentage rate of its interest and current supplementary costs to the prospective date of absorption of the redundancy. (Op. cit., p. 71)

[5] なお、塩野谷九十九訳は、例2では間宮訳と同じ解釈に、例3 では塩野谷祐一訳と同じ解釈になっている。この2つの箇所で矛盾があるように思える。そこで塩野谷祐一は例2を修正し、間宮は例3を修正したのだろう。

[6] 4原文

1  The practice, usually considered prudent, by which an investment trust or an insurance office frequently calculates not only the income from its investment portfolio but also its capital valuation in the market, may also tend to direct too much attention to short-term fluctuations in the latter. (Op. cit., p. 157)

[7] 5原文

.... Furthermore, an investor who proposes to ignore near-term market fluctuations needs greater resources for safety and must not operate on so large a scale, if at all, with borrowed money -- a further reason for the higher return from the pastime to a given stock of intelligence and resources. Finally it is the long-term investor, he who most promotes the public interest, who will in practice come in for most criticism, wherever investment funds are managed by committees or boards or banks.[1] For it is in the essence of his behaviour that he should be eccentric, unconventional and rash in the eyes of average opinion. (Op. cit., p. 157)

[8] 6原文

  It might be more accurate, perhaps, to say that the rate of interest is a highly conventional, rather than a highly psychological, phenomenon. For its actual value is largely governed by the prevailing view as to what its value is expected to be. Any level of interest which is accepted with sufficient conviction as likely to be durable will be durable; subject, of course, in a changing society to fluctuations for all kinds of reasons round the expected normal. In particular, when M1 is increasing faster than M, the rate of interest will rise, and vice versa. But it may fluctuate for decades about a level which is chronically too high for full employment; --particularly if it is the prevailing opinion that the rate of interest is self-adjusting, so that the level established by convention is thought to be rooted in objective grounds much stronger than convention, the failure of employment to attain an optimum level being in no way associated, in the minds either of the public or of authority, with the prevalence of an inappropriate range of rates of interest. (Op. cit., p. 203-204)

[9] 塩野谷祐一は「慣行」と訳し ているが、塩野谷九十九訳では「惰性」になっている。「惰性」はもちろん、一般的な訳語ではないが、捨てがたい魅力があるように思える。

[10] 7原文

  An act of individual saving means--so to speak--a decision not to have dinner to-day. But it does not necessitate a decision to have dinner or to buy a pair of boots a week hence or a year hence or to consume any specified thing at any specified date. Thus it depresses the business of preparing to-day's dinner without stimulating the business of making ready for some future act of consumption. It is not a substitution of future consumption-demand for present consumption-demand,--it is a net diminution of such demand. Moreover, the expectation of future consumption is so largely based on current experience of present consumption that a reduction in the latter is likely to depress the former, with the result that the act of saving will not merely depress the price of consumption-goods and leave the marginal efficiency of existing capital unaffected, but may actually tend to depress the latter also. In this event it may reduce present investment-demand as well as present consumption-demand.(Op. cit., p. 210)