翻訳批評
山岡洋一
古典新訳文庫の出発にふわさしい名著名訳
中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』

 

 学生のとき、ドイツ語教師がこんな話をしてくれた。ドイツに留学したとき、そこらで遊んでいる子供がaufhebenという言葉を使っているのを聞い て、びっくり仰天したというのだ。哲学用語のなかでもとりわけ難解とされ、「止揚する」と訳されている言葉を子供たちが使っているのだから、さすが哲学の 国だというわけだ。

 もちろん話は逆で、子供が哲学の言葉を使っているのではなく、哲学者が普通の言葉を使っているのだ。当時の学生は哲学の「難解」な翻訳書を読んでいたか ら、ドイツ語をしっかり学んで原書で読めといってくれたのだろう。顔も話し方も当時人気の落語家そっくりの教師だったので、そんなことをもろにいうほど野 暮ではない。学生が爆笑するような無駄話にして話してくれたのだと思う。

 とりわけ「難解」とされた哲学書のうちヘーゲルの著書については、長谷川宏が普通の言葉で訳しているが、ヘーゲルよりも難しいというカントの著書は、昔 の「難解」な訳しかなかった。今回、光文社の古典新訳文庫の創刊にあたって、中山元がまさに「普通の言葉」で、カントを訳している。

 カントの政治哲学と歴史哲学の論文5編を集めた本書は、古典翻訳文庫の創刊を飾るにふさわしい名著の名訳である。そして、何とも贅沢な本だ。カントの政 治哲学と歴史哲学の論文5編が「普通の言葉」で訳されているうえ、丁寧な訳注と100ページを超える解説があり、カント年譜まである。訳書であると同時 に、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』を中心とするカントの世界へと読者を導く本にもなっている。中山元がいずれ、三批判書の翻訳に取り組 むよう期待したい。

 本書のうち、「啓蒙とは何か」は20ページにも満たないが、じっくりと味わう価値がある。冒頭部分をあげておこう。

中山元訳「啓蒙とは何か」冒頭部分
 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができ ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなの だ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうべきものがあるとすれば、それは「知る 勇気をもて」だ。すなわち、「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(中山元訳、光文社古典新訳文庫、10ページ)

 カントは18世紀の哲学者であり、「啓蒙とは何か」が書かれたのは1784年というから、220年以上前である。だが、この冒頭部分を読んだだけで、い まの時代にいまの人にまさに必要なことが書かれていると感じられるのではないだろうか。このすぐ後でカントは、「ほとんどの人間は、……死ぬまで他人の指 示を仰ぎたいと思っているのである。……というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ」(中山訳、11ページ)とも指摘して いる。ずしりと心に響く言葉ではないだろうか。そして、「自分の理性を使う勇気をもて」という呼びかけは、まさにいまの人に向けられたものだと感じる。

 これが古典の力だと思う。200年以上の時の試練に耐えて生き残ってきた論文だから、あっという間に忘れ去られるいまどき流行の本とは重みが違う。読む 価値がある。いまこそ古典を読まなければと思う。ついでにいえば、「永遠平和のために」はいまの世界の動きを知るために必読の論文だといえるだろう。昔を 知るためでなく、いまを考えるために読むべき本なのだ。

 つぎに、中山訳を既訳の代表といえる篠田英雄訳(岩波文庫)と比較してみよう。

篠田英雄訳「啓蒙とは何か」冒頭部分
 啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年 とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用しえない状態である。ところでかかる未成年の状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というの は、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気を欠くところ にあるからである。それだから「敢えて賢こかれ!(Sapere aude)」「自分自身の悟性を使用する勇気をもて」――これがすなわち啓蒙の標語である。(篠田英雄訳、岩波文庫、7ページ)

 篠田英雄訳は1950年に初版が発行され、1974年に「紙型が損じて新たに版を起こすことになったので」(「訳者後記」同上189ページ)、改訳され ている。初版からは50年以上、改版からも30年以上が経過している。とはいっても、カントの論文は200年以上だから、50年前とか30年前とかはそれ ほど古いわけではない。だが、カントの現代性と比較して、篠田訳はいかにも古いという印象を受ける。原文の表面に忠実に訳すことを金科玉条とした翻訳調の 訳文だ。

 翻訳調という言葉はいまでは否定的な意味しかもっていないので、翻訳調がなぜ問題なのかがかえって分かりにくくなっているように思う。翻訳調はなぜ問題 なのだろうか。

 たとえば、「悟性」「むしろ」などの古い言葉を使っているからという意見があるだろう。だが、ではなぜ、古い言葉が悪いのかと考えてみると、答えはそう 簡単ではない。「春は曙」というのはいうまでもなく、ほぼ1000年前に書かれた『枕草子』の冒頭だが、「春」も「は」も「曙」もごく普通に使っている。 いや古い言葉だから悪いのではない、いまではほとんど使われていない死語だから悪いのだという見方もあるだろう。だが、死語だろうが何だろうが、良い言葉 なら使うべきだと思う。翻訳者も物書きだから、良い言葉をどんどん使って、死語にならようにする責任を負っている。必要であれば、誰も使わなくなった死語 を復活させるのも、新語を作るのも、物書きの役割である。

 たとえば「彼自身にその責めがある」といった表現は原文の形式をそのまま使っていて、本来の日本語にはないものだから良くないという意見もあるだろう。 だが、現代の日本語が翻訳の影響を受けて作られていることを忘れてはならない。早い話、江戸時代までの日本語では句読点を使わなかった。句読点は明治時代 に翻訳の必要から作られたものだ。欧米で書かれた文書の形式を真似て作られたものなのだ。いまの時代に、句読点のない文章が通用するかどうかを考えただけ で、「本来の日本語」とか「日本語らしさ」とかの言葉がいかに危ういかが分かるはずだ。

 読みにくく分かりにくいから問題だという意見もある。「読みやすく分かりやすい本」というのが現在、絶対の基準であるかのようになっているので、この点 はいくつかの場合に分けて慎重に検討する必要がある。第1に、まったく同じ内容を伝えるのであれば、読みにくく分かりにくい文章よりも、読みやすく分かり やすい文章の方が良いに決まっていると思えるはずだ。もっともな意見だが、条件をつけておく必要があるだろう。読みやすく分かりやすい文章は、月並みな文 章になりやすいので、読者の印象に残らない可能性がある。そこで肝心の点については、意識的に抵抗のある表現を使うことがある。読みにくく分かりにくい文 章にして、読者の注意を喚起する方法をとるのだ。だから、読みにくく分かりにくい文章は悪いとはかぎらない。

 第2に、「読みやすく分かりやすい本」は通常、そう簡単には読めない難しい本とまったく同じ内容を伝えているわけではない。内容を削って、分かりやすい 内容だけを伝えようとしているのが普通だ。いいかえれば、ほんとうのところは読む価値のない幼稚な本になっているのが普通なのだ。翻訳の場合には原文があ るので、原文の伝える内容をそう大きく変えるわけにはいかない。それでも、理解が容易ではない微妙な部分は削るという方法が使われている。微妙な部分とい うのはたいてい、考えさせられる部分、肝心要の部分だから、そういう部分を削れば幼稚な本になる。

 なぜ幼稚な本がもてはやされるのかは、「啓蒙とは何か」を読めば理解できるかもしれない。カントはこう論じている。「後見人とやらは、飼っている家畜た ちを愚か者にする。そして家畜たちを歩行器にとじこめておき、……家畜がひとりで外にでようとしたら、とても危険なことになると脅かしておくのだ」(同 11ージ)。「読みやすく分かりやすい本」は単純な脅しではない。いってみれば、裏に脅しを隠しているが、表面は猫撫で声で誘惑している。だからおそら く、歩行器よりも離乳食か流動食と考えた方が分かりやすい。昔はリンゴを丸かじりするような人もいましたが、そんなことをすれば歯茎を傷めて血が止まらな くなることだってあるし、種を食べてしまい、盲腸炎になったという人だっているのですから、天然リングを使った当社のリングオロシをどうぞ、消化酵素ウソ キナーゼを配合していますので、お腹をこわす心配もありません……というわけだ。

 おそらく、翻訳調の問題は以上で検討した点ではなく、もっと単純な事実にあるのだと思う。翻訳調の翻訳はそもそも、完結したものだとは考えられていな かった。読者が読むべきものは原書であって、翻訳書は原書を読む読者のための参考だと考えられていたのである。とくにカントの著作のような哲学書など、論 理を伝える文書では、日本語では論理を十分に伝えることができないと考えれていた。いうならば、日本語は,論理を伝えるという点では未成年状態だとされて いたのである。だから、原書を読めという。そういわれても簡単には読めないという読者のために、いわば歩行器のようなものとして、翻訳調の翻訳書が提供さ れていた。

 翻訳調は欧米の進んだ知識を取り入れるのがきわめて困難だとみられていた時代に、方便として作られ、使われてきた。当初はほんとうによちよち歩きだった から、歩行器を使うのは合理的な選択だった。いまでは誰でも翻訳調を嫌うようになっているので、信じがたいかもしれないが、翻訳調が必要だった時期がある のだ。そして、歩行器を使ったから足腰が鍛えられ、欧米流の論理を扱えるようになってきた。

 いま、ごく普通に使われている語のなかには、もともと訳語として作られたか使われてきた語がたくさんある。たとえばカントのこの訳書で何度も使われてい る「自由」という言葉は、「自由気儘に」などの形で古くから使われてきた言葉ではあるが、明治以降は、原文のこの部分にlibertyなどの言葉があった ことを示す符丁として使われてきた。「自由」という言葉にはlibertyなどの訳語という以外に何の意味もないというのが当初の常識だったのだ。だが、 長年のうちに、こうした翻訳語も意味をもった普通の言葉になってきた。だからいまでは、欧米流の論理を扱うという点で、日本語は未成年だとはいえなくなっ てきたのだと思う。そうなると、翻訳調はカントがいうように、「自分の足で歩くのを妨げる足枷」(同上12ページ)になった。母語である日本語で考えるの を妨げる足枷になった。

 そして、1990年ごろ、つい15年ほど前に風向きが変わった。誰もが翻訳調を嫌うようになったのだ。だが、翻訳調という足枷を投げ捨てて、自分の足で 歩くようになったかというと、そうではなかったようだ。この15年ほど、難しい文章は嫌だ、読みやすく分かりやすい文章がいいという大合唱が起こってい る。足枷になる翻訳調を投げ捨て、その場にすわり込み、離乳食を寄越せと駄々をこねているような状況になっているのだ。

 中山元が訳した『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』をはじめ、光文社古典新訳文庫の創刊にあたって出版される8点を眺めていると、これでまた時代が大きく変わるのではないかという希望がみえてく る。翻訳調でも「読みやすく分かりやすい本」でもない、新しい潮流がたしかにあらわれているのだ。これまでにも、翻訳調ではない「普通の言葉」で古典が訳 された例はあったが、それは森鴎外や吉田健一といった天才による例外的なものであった。だが、光文社古典新訳文庫では、何十人もの翻訳家が参加するシリー ズの全体が、翻訳調でも「読みやすく分かりやすい」という名の幼稚な文体でもなく、普通の言葉で訳されていくのだから。

 翻訳調という足枷を投げ捨て、母語である日本語を使って自分の頭で考える。そういう段階に達するまでに、欧米の知識を本格的に学びはじめてからほぼ 150年、翻訳調が定着してからほぼ100年の期間を要したのだと思う。