辞書とコーパス

英和コーパス

翻訳から生まれた新世代の辞書


 『英和コーパス』のもとになっているデータベースは、用例が約6万5000、訳語と活用が約21万、見出し語が約2万5000になった。2000年にはこれを英和辞典の形に編集して刊行したいと希望している。

 コンピューター・ソフトで発売前にベータ版を公開してユーザーの意見を聞くのが常識になっているように、このデータベースも、近く、なんらかの形で少なくとも訳語・活用部分までを公開して、意見をお聞きしたいとも考えている。

 現在はどのような形で公開するかを検討している段階であり、『翻訳通信』のサイトにいくつかの例を掲載してある。どのような形が使いやすいか、意見をいただければ幸いである。もちろん、インターネットを使うのが最適かどうかも検討している。たとえば、CD-Rで希望者に配付する方法もありうる。いずれにせよ、大量のデータを効率よく検索し、見やすく表示する必要があり、そのためには、ソフトの技術が不可欠である。既存のデータベース用ソフトをうまく使う方法も考えてみる必要がある。これらの点も含めて、ご意見をいただければと考えている。
 

 ここでデータベースの特徴をまとめておきたい。『英和コーパス』の最大の特徴は以下の点である。

 もう少し詳しくいうなら、『英和コーパス』には以下の特徴がある。  このようなデータベースを作成しているのは、翻訳という作業のなかで、英和辞典のありがたさを実感すると同時に、苛立ちを感じるからでもある。

 便利な理由はいうまでもないだろうが、苛立ちのタネになる理由には触れておくべきだろう。既存の英和辞典は、英語の語の「意味」、「語義」を明らかにするものになっていない。「意味」ではなく、「訳語」を示すものになっている。これはこれで便利なのだが、問題は肝心の訳語がかならずしも良くないことにある。古い訳語、いわゆる「直訳調」の訳語が並んでいて、とても使えない場合が多い。

 英和辞典は何よりも、「英語学習用」に作られている。英和辞典に求められているのは「正しい英語」である。この点はたとえば、英和辞典の「欠陥」が話題になるとき、掲載されている英語用例が間違っている(ネイティブに聞いたらこういう英語はないという答えだった)など、英語の問題であることを考えるだけでも、あきらかなはずだ。

 英和辞典は「正しい英語」を学ぶためのものになるよう求められ、この要求を満たすように作られている。この点では、現在の英和辞典は「欠陥」が少なくなり、いってみれば「顧客満足度」がかなり高いものになってきたのではないかと思える。

 しかし、ごくごく素直に考えれば、英和辞典を引くのは、英文を読むとき、英語を日本語に訳すときであって、正しい英語を書いたりしゃべったりするときではない。それに、日本語を母語とする者は日本語で考えているから、まともな日本語、つまり死語ではないし、英語学習のために作られた人工的な中間言語でもないごく普通の日本語を示してくれれば、それを手掛かりに英語の語の意味も、ある程度は考えていくことができる。だから、いまの英和辞典にほんとうに必要なのは、「正しい英語」ではなく、優れた日本語ではないかと思う。

 理想をいうなら、英和辞典というからには、英語の語や活用・用法が日本語の世界からどう見えるかを解説すべきだと思う。『翻訳通信』に連載していた『基本語の意味を考える』はそのためのささやかな試みだが、これを英和辞典の形に仕上げていくとすると、完成は西暦3000年前後という計算になる。現実的な方法としては、生きた訳語、生きた活用、生きた例文を示すことが精一杯だろう。
 

 ではなぜ、英語の小説やノンフィクションの和訳、日本語の小説やノンフィクションの英訳から訳語、活用、例文を収集するのかというと、翻訳という作業のなかでは、既存の辞書にはない生きた訳語を使うのが当然だからである。

 翻訳者は、一流の翻訳家であればとくに、翻訳にあたって辞書に掲載されている訳語にこだわったりはしない。原著を読み込み、原著者の意図をつかんだうえで、それぞれの文脈にふさわしい訳語や表現を選択していく。翻訳はそもそも訳者の「解釈」を示すものなので、訳語や表現には「正解」があるわけではない。もちろん、翻訳も人間がやるものなので、なかには「間違った訳」もあるだろう。しかし、一流の翻訳家であれば、生きた言葉、優れた言葉を使っている。だから、原著と訳書を対照させながらみていくと、生きた訳語、優れた表現が随所に見つかる。これを収集すれば、次世代の英和辞典の基礎資料になるのではないかと思う。

 こうして収集した訳語や表現は、すべて、ある文脈のなかで使われたものである。だから汎用性がないと思われるかもしれない。しかし、語や表現の意味はすべて文脈に依存する。これが事実である。文脈にかかわりなく使える訳語を探すのは、じつは、現実を無視した無茶なのである。したがって、ある文脈のなかで使われた訳語や表現を収集する方法こそ、英語の語や表現の意味を考える際の王道だと思っている。

 もちろん、この方法にも限界がある。最大の限界は、ごく普通の英和辞典を編集しようとすると、収集しなければならない例文や活用、訳語の数がきわめて多くなることだ。よほどの資金、それも見返りを要求されない資金があるか、大量のボランティアの協力が得られるのでないかぎり、現実には、普通の英和辞典を編集できるほどのデータベースは構築できない。

 現在、『英和コーパス』は原則として、普通の英和辞典にはない訳語や表現を集めることを目標としている。逆にいえば、どの英和辞典にもでているような訳語は、生きた訳語になるものであっても、それほど収録されていない。このため、『英和コーパス』は、普通の英和辞典の資料としては不十分であり、「辞書にない訳語の辞書」といった特殊な辞書、既存の英和辞典を補完する辞書の基礎資料になるだけである。

 『英和コーパス』は以上のような特徴と限界のあるデータベースである。これをどのような形で生かすことができるのか、助言をいただければと願っている。

『翻訳通信』第1期1999年3/4月号より

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