翻訳とは何か―研究としての翻訳(その9)
河原清志
翻訳と言語観T

 翻訳は言語行為であり、それは社会というコンテクストと密接に関係している。翻訳学の潮流は、翻訳の言語行為性から社会行為性の分析へと移行しつつある が、テクスト分析なき翻訳研究は砂上の楼閣と化する可能性がある。そこで、言語行為性の分析から出発すべき翻訳学の基礎を確立するためにも、言語観を展開 しておく必要がある。そこで今回は、翻訳の直接的な議論から少しかけ離れるが、「正義」概念をめぐる議論を例に、(翻訳通信105号、拙著「カセット効果 論T」でも多少展開した)意味構成主義に立脚した考え方を展開してみたい。

1.わたしの「言語」観
 端的に、「言語」とは「価値創造の契機となる、動くゲシュタルト」である。「動く」とは、社会・文化が時代の流れとともに変化するにつれて、そして、個 人や人間関係・共同体内外の関係が時間とともに変化するにつれて、言語も絶え間なき可変性に富んだダイナミズムに曝されることを意味する。また「ゲシュタ ルト」とは、絶えず変動している社会・文化の中にあって、個人の意味世界も常に変化していく中で、個々の人が言語という対象をその個々の要素や断片から体 制化し、秩序あるものとして絶えず作り出していっている構造体のことを意味する(註1)。これは頭で知覚し意味づけした構造体であるので、固定化された実 体のある存在物ではなく、同一言語内でも個々人によって違うし、言語が違えば当然この構造体は異なってくる。抽象的な規範的言語はありえず、言語はその使 用にこそ本質があり、言語行為こそまさに言語のあり方であって、全ての言語はそれを使用する個々人に内属されたものである。これらは言語の本質的側面だと 言えよう。

 そして、一番大事な点は、「価値創造の契機となる」という機能的側面である。アリストテレスは『政治学』の中で「人間は自然によってポリス的動物であ る」と述べているように、人は共同体との係わり合いの中でその自然本性または能力を十分に発揮することで自分の価値を見出し、そして相互に支えあいながら 相補的関係の中で生きることで充足した生を営む。そして人間関係は日常の出来事の中で絶えず変化を迫られるため、人と人とが充実した社会生活を送る上でど うしても必要なものが言語を使用することによる意味の調整である。言語とはその使用において社会的価値を創造するものなのだ。

 これまで筆者は、主に意味構成主義、つまりコトバの意味の不確定性に着目し、意味はコミュニケーションの瞬間、瞬間に受け手が絶えず意味づけをするとい う考え方に立って、コトバ(意味づけされる前の言葉)と意味の関係について考えてきた。その際に、コトバは情況を編成し新しい価値を創発する引き金(トリ ガー)と考え、コトバへの意味づけ作用を以下のように理解する見解を支持してきた。つまり、日常生活におけるコトバ(発話)は、「発話の意味と発話者の意 味の融合態」として聞き手によって意味づけられ、≪対象・内容・態度・意図・表情≫の総合的把握を通じて理解される。ここでは、発話者のコトバを聞き手の 記憶連鎖を作動させるトリガーと捉え、聞き手がコトバ以外の様々な要素を認知し、記憶連鎖の引き込み合いを経て記憶の関連配置を行うことでコトバに意味づ けを行いながら絶えず情況編成し、発話その他の行動を引き起こしてゆくというふうに理解の相と対応の相を一体化したダイナミックなものとして捉える見解で ある(深谷・田中 1996;田中・深谷 1998)。

 こう考えると、意味の遣り取り・交渉の場であるコミュニケーションにおいて言語はトリガーないしキューでしかなく、それを基に人はそれぞれの異なった経 験に基づいた記憶を頼りにその時々で異なった意味づけをコトバに対して行いながら情況編成をして意味世界を構築しているとするならば、言語ないしコトバに は意味や価値がないではないか、と言うこともできよう。しかし、我々は言語を通じて、複雑な意味世界を構築しているのである。言語は人間の意味世界の構築 には必要不可欠なものであり、言語を通じて我々は人としての価値やアイデンティティを見出したり、人と言語の遣り取りをすることによって、より大きな社会 的な価値を創造したりすることもできるのである。したがって、意味は不確定性を孕み、言語のやり取りの中でその意味の揺らぎによって従来にはない新しい価 値を創造する契機を与えるものと言えよう。

 以上の言語観に立脚して、本稿では人々が言語を通じてどのように人としての価値や、社会的な価値を創造してきたか、それが時代の流れの中でどのように社 会と関わりあいながら形成されてきたのか、そして今後、個々の人と社会とが言語を通じていかなる関わりあいをなすべきかについて、「正義」概念を巡って議 論してゆきたい。そして、固定された言語ではなく、言語の実際的な使用、つまり具体的なコンテクストの中での対話によって正義が確保されるべきであるとい う「対話的正義」(註2)を提唱してゆきたい。

2.「正義」の抽象名詞性の特徴
田中・深谷(1998)によれば、言語において名詞はあるものを指示する機能を担っており、その指示対象は知覚対象と観念対象に分かれる。正義のような抽 象的な対象は観念対象に当たり、これは非指示的にしか語りえない。つまり、観念対象はコトバ(名詞)を使用することで生み出される対象であり、コトバを離 れては存在し得ないのだ。だとすると、抽象名詞は定義づけを通じて意味の共有感覚が確保されることになる。

一般に、語の概念形成はその語の使用を通じて行われる。語の概念形成はその使用と相互に連関し合っている。が、それに留まらず、語の使用を通じてその語に 関する言説が形成され、言説を共有する人々の間でコトバ使いの共有化が図られるということをも含意している。このことの社会的意義は、慣習化された語り方 の共有化が社会的相互行為を通じて連帯感を生みだすこと、また、ある言説が共有されるようになると、それを通じて社会的現実が作られるようになることであ る。正義の例で言えば、正義に危機が迫る具体的な事件が起きた場合に、何が正義かについて人々が論じることによって、その概念が規定され、概念がほぼ同じ 価値で捉えられることによってその価値を人々が追求するようになり、そのことで連帯感が生まれる。さらに、この価値の社会的具現化のために、ある人は正義 を体現する行動を取り、共同体全体では正義を体現する政治システム作りを行い、正義に則った政治を治めるようになる。本来、社会的価値の創造とは、このよ うに共同体のメンバーが言語の使用によって一つ一つ概念を作り上げ、一人一人がその価値を追求することで共同体全体に貢献し、共同体もまた個々のメンバー にその価値を還元してゆくというシステムであるべきだ。

では、共同体ないし社会が異なり、時代が異なれば、この「正義」に対する概念形成がどのように異なっていたのか、具体的に見てみよう。正義を巡る議論は人 間の生活の局面において極めて多層的・多面的様相を呈しているが、ここでは言語とのかかわりを論じやすい一つの局面として人権をめぐる議論と連動させて見 てゆくことにする(正義、人権、権利といった翻訳語を検証するうえでも、このような考察は必要だと思われる。「権利」については、柳父1982参照)。

3.人権宣言―時代とともに動いてきたゲシュタルト
 ドイツの法哲学者・ラートブルフは法の目的について、正義・合目的性・法的安定性という3つの理念の相互矛盾に焦点を合わせて体系的に論じている(ラー トブルフ 1961)。彼の言う正義は後述する形式的正義に限定されており、法の概念を方向付けるが法の内容を導き出すことはできないとされてはいるものの、法に よってその時代のその社会の正義に対するものの見方が具現化されていることは疑いようもない事実である。そこで「正義」を語るために明文化された言語であ る「法典」がいかに断片的で動的なシステムかを人権宣言の歴史によって見てみよう(註3)。

 まず国王に対するバロン達の諸要求の確認文書として「大憲章(マグナカルタ)」(1215)がある。これは人間一般としての権利を宣言した文書ではな い。やがて17世紀に市民革命の中で「権利請願」(1628)、「人身保護法」(1679)、「権利章典」(1689)が制定され、近代立憲主義の基礎が できた。しかし、これはイギリス古来の歴史的権利・自由の確認文書であって、天賦人権思想によるものではなかった。ところが、グロチウスによる近代自然法 思想という“環境”下でこのように宣言された権利・自由が「人権」へと成長発展する。

 アメリカは独立革命を通じて「人権」を宣言した。まず「独立宣言」(1776)は、個別的人権カタログは掲げていないが、国家契約説・国民主権・革命権 に裏づけされつつ、「生命、自由および幸福の追求」の権利が天賦の権利であることを宣言した。そして、「権利章典」が合衆国憲法修正条項として1791年 に発効した。

 アメリカ革命期のこうした人権宣言に影響を受け、また、ルソーなどの固有の思想的な力に突き動かされて、フランスでも「人および市民の権利宣言」が生ま れた(1789)。その後革命期の動乱によって憲法もめまぐるしく変化したが、現実離れした理想論が顕著で、1799年12月憲法では人権宣言そのものが 消失してしまった。しかしこの人権宣言自体は19世紀前半のドイツ諸邦の憲法典、ベルギー憲法典などに影響し、さらに19世紀後半にはヨーロッパ法の域外 にも拡大した。
 しかし、このような影響拡大の中で、天賦人権的性格が失われ、人権宣言の外見化も進行した。特にドイツでは、フランスの普遍主義の反動としてナショナリ ズムが台頭し、「フランクフルト憲法」(1849)は人権ではなく「ドイツ国民の基本権」の保障に後戻りし、「プロイセン憲法」(1850)では法の下の 平等ではなく、「法律」の前の平等という控えめな表現に留まった。当時の法実証主義的国法学の動向もあり、この時代のドイツは国家によって創出された人権 という発想が全面に出た。

 その後、資本主義の発展に伴って貧富の格差が進み、様々な矛盾と社会的緊張を惹起する社会的背景の中で、積極国家化(社会国家化)が進んだ。ここでは憲 法の想定する人間像の転換があり、社会権の登場と財産権の神聖不可侵性の後退という姿で顕現した。その突き進んだものが、革命を契機として生まれたロシア の「勤労し搾取されている人民の権利の宣言」を標榜する社会主義的人権宣言だった。しかし、それとは別に立憲主義諸国の中に戦後、社会権条項が盛り込ま れ、社会国家・福祉国家の道を歩んできたことは確かである。

 さらには、人権の国際的保障も注目すべきことである。1945年の「国際連合憲章」、1949年の「世界人権宣言」、そして1976年発効の「国際人権 規約」がそれで、国家の違いを超えて、国際的な人権保障の水準を設けて立憲主義・人権尊重主義を押し進めようとしているのが現代の状況である。

 またさらには、「新しい人権」という概念もここ数十年で登場している。日照権、環境権、嫌煙権、知る権利、平和的生存権などがそれである。これは人権意 識の高揚や、マスメディアによって大勢での情報の遣り取りがスムーズにできるようになったことなどが背景としてあり、裁判制度を通じて新しい人権を社会問 題化し、ある種の法創造機能を担うものである。
 以上、人権宣言の歴史をごく簡単に素描したが、人間の叡智の結晶としての、正義の一つの体現化である人権の成文法典化の歴史を辿ってみると、いかに人権 が時代の産物であり、また当該社会の歴史的産物であるかが見えてくる。同じ人権概念を巡って、これほどまでに(英語、フランス語の差異という意味ではな く)言語の内実を異にしているのである。同じ概念を語る言語の内実が異なるというのは、それぞれの共同体でその時代、その時代において正義や人権を巡る言 説が異なっていたことを意味している。そして言説が異なるのは、それぞれの共同体が持っていたその概念に関する意味表象や価値づけのあり方が異なっていた ことを意味する。

4.言説を支える原理
 では、意味表象ないし概念形成をもたらす言語的な原理は何か。田中・深谷(1998)は言説間の「非共約性」に言及したブルデューの考え方を敷衍し、言 説がどのように生成され、体制化されるかという問題を考えるには「連鎖的伝播」と「メタファー」が有効な概念であるように思われる、としている。「連鎖的 伝播」とは、コトバの使い方が個人内だけでなく、個人間でも連鎖的に伝播し、ある「語りの形」が整えられると同時に、その結果として「型」が共有されるよ うになる、ということを説明する概念装置である。そして連鎖的伝播の仕方を機制するのが「メタファー」である。何かについて語るには「視点」が関与してい る。実体の見えない観念対象について語る際には、この「視点」を通して、何かになぞらえて語らざるを得ない。その時の「なぞり」の機制がメタファーであ る。つまり、言表の連鎖的伝播を整序し言説の体制化を促すのがメタファーであるということになる(これに関連し、学問におけるメタファーの機制について は、拙著修士論文『ことばの意味の多次元性:“as”の事例研究』のなかの「学問語用論」を参照。学問におけるメタファーは抽象的な根源領域が写像されて 目標領域である学問言説が繰り広げられることを分析した)。

5.正義を巡る従来のメタファー
 そこで、今度は人権宣言という明文化された言語が国により、時代により異なってはいるものの、人権の背後にある正義概念に関するものの見方(つまり、メ タファー)にはある種の共通性が見られることを論じてみよう(註4)。

 一つ目は「適正的正義」である。これは実定法の内実(つまり法典化された言語)の内容自体の正・不正を問うことなく、専らその規定するところが忠実に遵 守されて適用されているか否かだけを問うものである。これは政治社会の堅固な存立と円滑な作動には不可欠な基底的価値であるが、価値観が多元化し流動して いる状況では法の運用を硬直化させ、実質的正義の新しい要求を閉ざすこともあろう。ここでのメタファーは「形」であろう。

 二つ目は「形式的正義」で、これはD.ロイドが述べているように一定の準則の存在、その準則の一般性と公平な適用という普遍主義的要請を内包している (ロイド 1968)。これは公権力の行使の恣意的専断を排除し、社会生活における一定の予測可能性を確保することに役立っていると言える。これら二つの正義観は、 その内容に踏み込んだものではなく、ひとたび言語により明文化した法は等しく遵守されなければならない、というものである。ここでのメタファーは「形の事 前・事後告知」であろう。

 ところが三つ目の「実質的正義」は実定法の一定の内容や判決などの具体的な法的決定の正当性を評価・判定する実質的な価値規準のことであり、具体的正義 とも呼ばれる。これはアリストテレス『ニコマコス倫理学』第5巻における特殊正義の二区分、つまり、各人の価値に応じて異なりうる比例的平等が要求される 配分的正義と、関係者の価値を考慮に入れない算術的平等が要求される調整的正義を基底に論じられるものである。

 近時の議論であれば、前者はJ.ロールズ『正義論』(2010)に見られる正義概念である。これは、それまでの自由主義の中に格差原理を導入し、自由の 分配、公正な機会均等原理、格差是正原理を内容とする。これはアメリカ公民権運動・ベトナム反戦運動・学生運動の中で広範に受けいれられ、福祉国家の推進 を促進した。ところが、70年代のオイルショック、ウォーターゲート事件などの出来事が起こると人々の感じ方も変わってきた。そんな状況下で現れたのが、 R.ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(1995)である。これはlibertarianism(自由至上主義)を主張し、「最小国家論」を展 開しており、調整的正義の現代版とでも言える。このように時代が変わって主張の切り口や理由が異なっていても、両者の議論の原型は古典の中に見出すことが でき、背後にあるメタファーは共通しているともいえる。ここでのメタファーは「実質的平等」と「自由」であろう。

 更に、手続的正義がある。実質的正義が決定の結果の内容的正当性に関する要請であるのに対して、これは決定に至るまでの手続き過程に関するものであり、 その決定の利害関係者の各要求に公正な手続きに則って公平な配慮を払うことを要請するものである。ここでのメタファーは「プロセス重視」であろう。

 以上見てきた正義論(のメタファー)が通底にあって、時代やその共同体の伝統や歴史の要請に応えながら多面的な正義の一側面が前景化し、言説が体制化さ れることによって、その時々の正義概念が規定され、その具現化としての人権宣言も様々なバリエーションを持ってきたということができるだろう。

6.法動態への相互主体的視座と対話的正義
 ここで見逃してはならないのは、いくら国家や政治体制が正義を振りかざし、人権カタログを用意したとしても、法システムは法律家に限らず法的過程に関与 する全ての人々の法実践によって支えられ動かされる動的なものと捉え、意見や利害を異にする人々が共通の公的規準と公正な手続きにのっとって自主的な交渉 と理性的な議論によって行動調整を行うフォーラムと見る視点がない限り、正義論が空疎なものになってしまうということである。我々は日々の生活の中で自分 の生きている情況を絶えず編成し、意味世界を変化させていっている。その中で固定化された法文の文言に縛られていたのでは、正義の実質は捉えきれないし、 また仮に捉えたとしてもそれは社会の流れの中で絶えず変化する個人の要請には応えられないものでもある。

 法学者・団藤重光は『法学の基礎』(1996)の中で、法のダイナミズムについて以下のように論じている。

天の方へ向かっては実存主義的哲学の方向を目指し、地の方向へ向かっては行動科学的な ものを含む法社会学を支えとすることによって、解釈法学を含む法学全体が正しい発展をするのではないか。[...]各人の主体的主張は、徹底的に矛盾し対 立することがいくらもありうる。その解決は、最終的には静的でなく動的であり、調和的でなく闘争的であり、そうした意味を含めて主体的である。それは完 結・終結を知らない永遠の過程である。しかも、その過程のそれぞれの段階は、それじたいとして、法のダイナミックスの一環として、絶対的である。重要なの はこうした動的な過程つまり、課題が次々に解決されてまたさらに次の課題を生むところの過程そのものである。われわれは各自が法の担い手として、それぞれ の立場において、よりよい法、よりよく社会的要請に応えうる法の実現を目指していかなければならない。…人類の営みが永遠であるように、法のダイナミック スも永遠に続くべきわれわれの主体的な営みであり、その営みの過程こそが重要なのである。  (団藤 1996, pp. 375-376)

 団藤の言葉には言語による対話の重要性は説かれていないが、一人一人がダイナミックな主体として法を築き上げてゆくべきだとする動的構成主義とでも呼べ る力が込められていることが十分読み込める。

 結局のところ、法動態への相互主体的視座が、公権力の行使に関わる政治的空間だけでなく、私人相互間の公共的空間の中にも広く浸透し、人々がそれぞれ善 き生き方を選択し幸福を追求する自由平等な人格として相互に尊重し配慮し合うようになる。そういう相互主体的なコミュニケーションの関係が、何よりもまず 共同体レベルで形成され、そのうえで、個々人が、自由で公正な社会における共生と協同のための制度的枠組みの一支柱として法システムを用い動かす主体とし て成熟していくことが、動く言語としての法をめぐる社会のあり方として大切であると考える。その意味で、対話というプロセスにより個々人がより納得のでき るシステム作りを模索していくという「対話的正義」を提唱したいと考える。

 フランスの思想家J.デリダがファーネー=ロゴス主義を根本的に否定し、≪はじめに言葉ありき≫で原−エクリチュール概念を提唱し、それがアメリカの批 判法学派に影響を与えている。言語における脱構築を法の世界にも浸透させる主張である。これにしたがって、我々は法体系の文言を静的になぞるだけでなく、 内部で抹消されている人や集団を見出し、救い出し、既存の法体系や解釈理論に取り込む必要があるだろう。これはまさに言語を破り、同時に言語によって納得 のいくシステムを作るという言語のダイナミズムの営みである。

 以上見てきたように、我々は共同体の一員として個々人がある社会概念について意味づけ、価値付けを行っている。そしてこの営みは言語を通してである。だ としたならば、正義に則った「手続き」で、正義に則った「対話・議論」を行い、正義に則った「合意形成」を行いつつ、絶えず社会や文化の錯綜した局面の変 化に応じて正義概念をこの三幅対の中に問いかけ、常に当該社会や文化にフィットする社会的価値創造を「言語」によって行うべきである。

 このような考え方は田中(1994)が「対話的合理性」によって提唱していることに、「価値創造の契機となる、動くゲシュタルト」というメタファーによ る言語観で裏付けさせ発展させるための正義論で、今後筆者が言語・社会・翻訳を鼎立的に考えて新しい価値創造を行ってゆくうえでの原動力にしてゆきたいと 考えている精神的支柱でもある。

7.新転回の機軸
 対話、ないしコミュニケーションを重視した言語観を表明するとおおよそ以上のようになる。ところが、以上の考え方を支えるイデオロギー(考え方、世界 観)は「対話という神話」であって、具体的なミクロおよびマクロ・コンテクストのなかで我々が権力関係の狭間にあって、真の自由な対話とそれに基づいた自 由な意味空間の構築が可能か、と言われれれば、ことはそれほど単純ではないし、翻訳をめぐる言語行為も同様のことが言える。「人は言葉を操りつつ、言葉に 支配されている」とは田中茂範の謂いであるが、言語論を展開するには、この後半部分についての考察を社会システムとしての言語、という立場から深める必要 がある。

 現実(reality)を捉えるうえで、人類の思想は、認識論的転回(カント)、言語論的転回(ヴィトゲンシュタイン)、コミュニケーション論的転回 (ハーバマス)、メディア論的転回(ルーマンなど)等を経てきた(寄川 2007参照)。「翻訳」を蝶番にして「言語」と「社会」を論じる本稿「翻訳と言語観」は、U以降で、言語と社会の相互作用性をめぐって言語人類学/社会 記号論、言語の意味と出来事の解釈をめぐって文化人類学、言語というメディア性をめぐって社会メディア論、などの立場から考察を深めてゆきたい。


(1) 視野にある対象を1つのまとまりのあるものとして知覚する心的作用を体制化(organization)と言い、体制化によって形成されるまとま り(構造体)をゲシュタルトいう(カニッツァ 1985)。
(2) ハーバマスが「コミュニケーション的行為」や「コミュニケーション的合理性」という概念を提唱し、田中成明が「対話的合理性」という概念で敷衍し ていることの延長線での議論である。
(3)    人権宣言の歴史はどの憲法の体系書にも書かれているが、ここでは佐藤(1981)の素描によった。
(4) 正義論はどの法哲学や法理学の体系書にも書かれているが、ここでは田中(1994)の素描を元にしつつ、加筆している。

参考文献
団藤重光(1996)『法学の基礎』有斐閣
デリダ, J.(著)、足立和浩(訳)(1996)『根源の彼方に―グラマトロジーについて(上)(下)』現代思潮社
デリダ, J.(著)、堅田研一(訳)(1999)『法の力』法政大学出版局
深谷昌弘・田中茂範(1996)『コトバの<意味づけ論>』紀伊国屋書店
ハーバマス, J.(著)、河上倫逸(上巻訳)・藤沢賢一郎(中巻訳)・丸山高司(下巻訳)(1985/1986/1987)『コミュニケーション的行為の理論(上) (中)(下)』未来社
カニッツァ, G.(著)、野口薫(訳)(1985)『カニッツァ視覚の文法―ゲシュタルト知覚論』サイエンス社
ノージック, R.(著)、嶋津格(訳)(1995)『アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界』木鐸社
ラートブルフ, G.(著)、田中耕太郎(訳)(1961)『ラートブルフ著作集 第1巻:法哲学』東京大学出版会
ロイド, D.(著)、川島武宜・六本佳平(訳)(1968)『現代法学入門』日本評論社
ロールズ, J.(著)、川本隆史 ・福間聡・神島裕子(訳)(2010)『正義論』〔改訂版〕紀伊国屋書店
佐藤幸治(1981)『憲法』青林書院
田中成明(1994)『法理学講義』有斐閣
田中茂範・深谷昌弘(1998)『意味づけ論の展開』紀伊国屋書店
柳父章(1982)『翻訳語成立事情』岩波書店
寄川条路(編)(2007)『メディア論―現代ドイツにおける知のパラダイム・シフト』御茶の水書房