翻訳を翻訳する 
河原清志
翻訳とは何か―研究としての翻訳(その2)
 
 「等価」(equivalence)という概念は翻訳を学び、実践し、研究する上で、必要不可欠な概念であり、「翻訳は等価に始まり等価に終わる」とさ え言えよう(Chesterman 1989, p. 99; Bassnett 2002, pp. 30-36)。100号で翻訳とは「言語的・社会的等価実現行為」であると概括したが、本号からしばらくは多層性・多義性のある「翻訳」概念のうち、言語 的等価実現行為に焦点を当てて論じる。今回は文法的等価実現行為を中心に考察してみたい。

翻訳とは何か―「文法的等価実現行為」としての翻訳
 「ここはどこですか?」を英訳するとどうなるかと尋ねると、英語初学者なら必ず、“Where is here?” “Where is this?”などと答える。これは当然、“Where am I?”であるが、ではなぜこの英文でなければならないかと改めて問われると、答えに窮するのではないだろうか。
 近時、言語は人間の外界に対する意味づけの反映であるとする認知言語学の観点から、諸言語を類型的に捉える認知言語類型論の分野が展開している(池上 2000;堀江・パルデシ 2009;坪本・早瀬・和田 2009など)。これに拠ると、英語は言語で表そうとする状況をその状況の外から客観的に記述する志向性(外置の認知モード)があるのに対し、日本語はそ の状況に自らを埋没させて記述する志向性(認知のインタラクションモード)がある、という(中村 2004)。要するにこれは、外界を言語で表す際、発話者の視点(perspective)をどこに据えて言語化するかの問題である。英語の場合、発話者 は発話をしている「いま・ここ」に視点を据えて、それを外から(off-stage)客観的に眺めたことを言語化するのに対し、日本語の場合、発話者が発 話している「いま・ここ」から視点を移動して、言語化する対象である状況に視点を埋没させて捉えたことを言語化する、という分析である。
 例えば、「君が来たら話すよ」を英訳すると、どうか。“I will tell you when you come.”ぐらいだろうが、よく考えてみると日本語は「来たら」と「タ」系を使っているところ、英語では“come”という現在形を取っている。しか し、これらはいずれも今より先、つまり未来のことを表しているのである(ここでは“I”と1つめの“you”が日本語ではゼロ化されていること、「よ」と いう終助詞のモダリティは論じないこととする)。日本語で「た」と言えば、普通ならば「過去」を表すだろうという理解が一般的で、英語で動詞が過去形に なっているときに、その日本語訳に「ル」形、つまり現在形を使っていると、これはけしからん!時制が違うではないか!などと表層的な理解で英日語を比較し て憤る人を良く見かけるが、「君が来たら話すよ」の英訳で動詞を“came”にする人は誰もいないだろう。ここで英語と日本語の時制のシステムが異なるの ではないか、と気づく人であれば、表層的な言語形態の変換によって、等価な翻訳が実現するのではないことに気づくはずである。こういう言語的差異を生真面 目に受け取りすぎると「翻訳不可能性」が頭をもたげるのだが、100号で取り上げたヤコブソンによると、

言語間翻訳は、ある言語のメッセージを別の言語の個々のコード・ユニットで置き換える のではなく、メッセージ全体で置き換えることである。
(Jakobson 1959/2000, p. 139。訳はマンデイ2009準拠)

であり、テクスト全体で考えれば、翻訳は可能なのである。可能ではあるが、等価実現のためには様々なシフトを生じさせる必要があることも事実であり(筆者 はこれを「転換」(conversion)と呼ぶ)、等価を論じるにはまず両言語がどのような言語構造の差異を有しているのかについて深い考察を施さなけ ればならない。その理論的枠組みを提供してくれる理論の1つが、言語類型論という分野である。
 ひとまず、上記2つの疑問への説明を試みておきたい。(1)「ここはどこですか?」の場合、日本語では外界と外界を認識する者とがインタラクションを起 こした対象を言語化する、という構成を採るので、自分は認知の対象からは外したうえで、自分がいる場を「ここ」と認知する。そして、「ハ」格でそれを主題 にし(参照点)、ここという空間が「どこか?」と疑問符を投げかける(標的を疑問詞化)、という事態構成を行う。ところが英語では、その状況から認知主体 を外置化させ、認知主体自体(つまり「私」)を言語化の主な対象(trajectorと言う)に据えて主語にし、その「私」が「どこにいるか?」(斜格を 疑問詞化)という構成を採るため、“Where am I?”という事態構成をし、それを言語化するというプロセスとなる。
 つぎに(2)「君が来たら話すよ」の場合、そもそも日本語と英語の時制システムの相違について考えなければならない。
 近時、ますます発展しつつある事態把握の仕方に関する日本語と英語との異同を論じた研究から引用してみよう。

絶対時制形式:絶対時制部門+相対時制部門
相対時制形式:相対時制部門
 
絶対時制部門:動詞(述語)に付随する人称・数・法と一体化した時制形態素(屈折辞)が関与する時制部門
相対時制部門:絶対時制部門以外の時間に関する要素が関与する時制部門
 
英語では定形動詞(現在形・過去形)が絶対時制形式、非定形動詞(現在分詞・過去分詞・原形不定詞・不定詞・動名詞)が相対時制形式である。
日本語は定形(-ru形・-ta形)であろうと非定形(-te形・-i形)であろうと、述語はすべて相対時制形式である。
 
絶対時制部門が担う時制情報:話者の時制視点との位置関係によって値が定まる「文法的な時間帯」である「時間区域」が表す情報
相対時制部門が担う時制情報:出来事時と他の時間概念との時間関係が表す情報
 
「ル」形:出来事時が潜在的基準時と非先行関係
「タ」形:出来事時が潜在的基準時と先行関係
 (坪本・早瀬・和田 2009, pp. 249-295)

 以上を基に考えると、「君が来たら」「話すよ」は、「話す」という時点から見て「来る」という行為が先行しているため、「来る」が「タ」形、「話す」が 「ル」形でマークされる。これは潜在的基準時に認知主体の視点が移動して、言語化する対象に視点を埋没させて捉えているのである。つまり、日本語では絶対 時制形式はなく、相対時制形式を型にして、認知主体の視点の移動によって出来事時と基準時との相対的先行関係によって時制を表示する、ということになる。 それに対して英語の場合は、発話者が視点を据える「いま・ここ」に時制視点を置き、comeの出来事時を現在形でマークし“come”とする。同様に、 willの出来事時も現在形でマークし“will”とする。つまり、英語では絶対時制形式を型にして、認知主体の視点を移動させずに時制を表示するのであ る。なお、この分析では主節の動詞の時制を論じるに当たって“come”ではなく“will”について記述しているが、英語には時制としては現在と過去し かなく、“will”は現在の時点での「意志」ないし「推量」を表す(中核的語義は「意志」;佐藤・田中 2009, pp. 164-173)。この「意志、推量」という語義は多分に不確定性が強いため、現在の意志ないし推量だけでなく、「いま・ここ」から離れた現在の遠くのこ とを「推量」したり、未来のことに関する「意志」を述べたり「推量」を行ったりする話者の心的態度を表明する語彙項目である。この場合、“tell”は 「原形」であって相対時制形式としてunmarked(無標)である。逆に、従属節中の“come”は、単に「来るトキ」を表しているため、そこに「意 志」性や「推量」性がないため、未来のことであっても「現在形」でマークするのである。
 以上のように、主語(ないし主題)の言語化の仕方や時制に関してだけでも、日英語でこれほどの言語構造上の差異が観察されるということは、各言語のあら ゆる文法項目についてその差異にすべて配慮しなければ翻訳は不可能であることを示している。また当然、言語によって何を文法化し、何を文法化しないか、あ るいはそもそも何を言語化し、何を言語化しないかについて相違があり、これが翻訳に付随する「損失と付加(loss and gain)」(Bassnett 2002, pp. 36-37)となって発現するが、これはヤコブソンの言葉を借りると(英語のほうがわかりやすいので英語のままで記す)、
 
Languages differ essentially in what they must convey and not in what they may convey.
(Jakobson 1959/2000, p. 141。強調は筆者による)

ということになる。そうすると、翻訳において言語的等価を実現しようとすると、この“what they must convey”という部分で言語構造上、義務的な翻訳シフト(ズレ)が生じるし、“what they may convey”の部分で任意的な翻訳シフトが生じることになる。ここでの議論は、例として文法項目のうち主語の設定と時制を取り上げたが、あらゆる翻訳の 文法的局面において見られる翻訳シフトを扱ったのがCatfordの“A Linguistic Theory of Translation”(1965)である。
 このモデルでは、言語はコミュニケーションとして分析され、文脈の中で様々なレベル(音韻、書記、文法、語彙など)とランク(文、節、語群、単語、形態 素など)において機能するとし、まず言語の形式的な対応関係を両言語(起点テクストと目標テクスト)間で同定した上で、特定の箇所が等価(テクスト的等 価)を実現する上でその対応関係がズレている場合、そのズレを「翻訳シフト」と呼んだ。キャトフォードはこのシフトを2種類に分けている。
 
(1)レベルのシフト:一方言語では文法で表現され、他方言語では語彙で表現される場 合
(2)カテゴリーのシフト
  @構造的シフト:文法構造のシフト
  Aクラスのシフト:品詞転換
  Bユニットのシフト/ランクのシフト:階層的言語単位(文、節、句、語群、単語、形態素)のシフト
  C体系内シフト:起点言語と目標言語がほぼ対応する体系であるのに、翻訳が目標言語において非対応の言葉を選ぶ場合
(Catford 1965。訳はマンデイ2009準拠)

ここでの翻訳シフトは文法的なものに限定されていると言ってよい。しかも、上記(2)Cで露呈しているごとく、これは(いわゆる言語距離の近い)西洋言語 間での翻訳シフトの分析であるので、言語ペアの相違を超越した普遍性を見据えた分析であるとは言えない。しかし、このような分析を言語学者が手がけたこと は、翻訳の科学的分析の先駆けとなったわけであり、諸説批判はあろうとも、翻訳とは何かを学問として論じる(つまり翻訳学をやる)うえで極めて大切な理論 であると言える。
 キャトフォードのモデルは、文脈を排除し、頭で考え出した作例に基づいたセンテンス単位での分析であったため、静的な対照言語学的なモデルに陥ってはい るが、現時点でこれを再解釈し、有用なモデルの一部に組み込むことはできる。そもそも翻訳シフトの分析は、翻訳プロセスを統御する翻訳規範の解明に必要不 可欠な方法であり(Toury 1995; Chesterman 1997)、方法論上、次のことが言える。

一.義務的シフトと選択的シフトを抽出し、前者は起点言語と目標言語の言語構造上の差異のうち、規則性の強い文法項目としてマークする。そして、この項目 一覧と従来型の言語類型論で論じられている項目とを照らし合わせ、符合するものを抽出して、義務的シフトの一覧を作ることで、強い目標言語規範としての翻 訳規範の体系が得られる。
二.選択的シフトは起点言語・目標言語の「言語らしさ」(prototype)を司る文法項目で、規則性は弱く、原則論として捉えられる。選択的シフトを 選ばない訳出は、起点言語の干渉を強く受けたいわゆる「異化」翻訳として目標言語の言語規範を更新する可能性のあるものであり(さもなくば受容されない翻 訳と化する)、逆に、選択的シフトを選んだ訳出は、目標言語らしい、いわゆる「受容化」翻訳として目標言語の言語規範になじんだものとなる。この選択的シ フトを実際の翻訳結果から抽出し、それと認知言語類型論で論じられている項目と照らし合わせ、符合するものの一覧を作ることで、選択的シフトの体系が得ら れる。

近時、翻訳を言語学的なアプローチで分析することに対する激しい批判が多くなされているが(スコポス理論の陣営は概ね批判的な立場であろうし、文化的・社 会的・イデオロギー的転回を主張する陣営はおしなべて批判的であると言える)、キャトフォード自身が「翻訳における等価は単なる形式的な言語的基準ではな く、機能や関連性、状況、文化といったコミュニカティヴな特徴に依存している」と主張しているように、翻訳の言語行為性を統御している社会行為性の諸側面 にも目配せをして初めて言語学的なアプローチがその本領を発揮するのであるし、逆に言うと、翻訳の社会行為性(社会的・文化的・政治的・権力的・歴史的な どの側面)は、言表に現われている緻密な翻訳シフトの分析を通してしか確固たる裏づけが取れないのも事実である。
以上を踏まえると、上記の一.二.は起点言語=目標言語間の言語構造が孕む「構造上のシフト」という位置づけになり、具体的な翻訳実践における「運用上の シフト」を併せて論じなければならない。翻訳シフトと翻訳規範との関係を簡単に図にすると次のようになる。

概念図


             
三.運用上のシフトを、具体的な翻訳結果と起点テクストとを対象分析することで抽出する。そして、個別のシフトの背後にある社会的諸要因を特定し、当該翻 訳行為の特徴分析を行う。

 以上が「文法」に関する翻訳シフトをめぐる論点のあらましである。ここで「転換操作」(conversion)について触れておきたい。この「翻訳シフ ト」は起点言語と目標言語の言語構造の差によって不可避的に翻訳が内包している言表のズレであり、静的な現象として捉えられるが、実際の翻訳プロセスとい う動的な次元では、このズレを実現するためにさまざまな転換操作(ズラし操作)を行っている、ということになる。この操作の土台になる言語構造の違いは、 どちらかの言語を外国語として習得した場合はそのすべてではないにしてもその多くを意識的に当該言語の文法として学習するものであるし、環境によって自然 に獲得したバイリンガル(natural bilingualism)の場合には意識せずして獲得していると思われる。しかし、翻訳という作業のなかでは、その多くの部分が自動化し無意識化してい るのも事実であろう。ところが、翻訳者がその一部を意識化し、自らの翻訳行為における指針や方針としている場合も多くあり、それが「訳出方略」 (strategy)と呼ばれるものだと筆者は考えている。このあたりの概念(翻訳規範、翻訳方略、翻訳シフト、転換操作など)の相互連関については、論 を改めたい。
 翻訳という多義的で複層的な行為概念のうち「文法的等価実現行為としての翻訳」の側面にフォーカスを当てて議論をすると、以上のようになる。具体的な翻 訳シフトの分析例は、拙著「英日語双方向の訳出行為におけるシフトの分析―認知言語類型論からの試論」を参照されたい(日本通訳翻 訳学会・翻訳研究分科会(編)『翻訳研究への招待』第3号所収)。
 ところが、この翻訳シフトというのは何も文法という言語構造のみに現われるものではない。翻訳シフトの概念範疇で「文体」について論じたものを次に若干 紹介する。

翻訳とは何か―「文体的等価実現行為」としての翻訳
文芸翻訳は等価な美的効果を目的とする再生産的かつ創造的な営みである。
(Levý 1963, pp. 65-9。訳はマンデイ2009準拠)

 チェコスロバキアのレヴィーは翻訳シフトの文学的側面、テクストの「表現的機能」や文体にフォーカスを当て、等価実現のためには

指示的意味、暗示的意味、文体的布置、シンタックス、音の繰り返し(リズムなど)、 母音の長さ、音の明瞭度

を要素にテクストの特徴をカテゴリー化し、テクストタイプに応じて何が重要になるかが決まる、としている(Levý 1963)。その他チェコで文体的等価に取り組んだ研究者にミコ(Miko 1970)やポポビッチ(Popovič 1976)がいるが、詳細は省略する。
 しかし、文体の問題は言語学でもまだ十分解明が進んでいるとは言えず、これを翻訳学の俎上に乗せて緻密な翻訳シフト論を体系化するには、かなりの力量が 要るものと思われる。

翻訳とは何か―「言語的等価実現行為」としての翻訳
 その他、文法や文体に限らず、翻訳の言語面にフォーカスを当てて等価(および実際上は等価実現のためのシフトないし転換行為)を扱っているものとして、 代表的にはKoller(1979/1989)とBaker(1992)がある。
 年代は前後するが、まずベーカーの5つの次元での等価概念(およびそれを実現するための転換操作)を扱った翻訳指導書では、

・equivalence at word level(語レベル)
・equivalence above word level(フレーズレベル)
・grammatical equivalence(文法レベル)
・textual equivalence: (テクストレベル)
-thematic and information structure(主題進行)
-cohesion(結束性)
・pragmatic equivalence(語用論レベル)
(Baker 1992)

の各等価について、規範的ではあるが等価実現のための翻訳シフト(転換操作)を指南している。そしてベーカーは、等価は「様々な言語的・文化的要因に影響 され、したがって常に相対的である」という条件を付しているが(Baker 1992, p. 6)、これは翻訳指導書としてある種の規範を説くに当たって、現実の具体的翻訳実践における等価実現行為、すなわち運用上の翻訳シフト実現行為(転換操 作)においては、様々な社会的要因を考慮しなければならない、という極めて真っ当な謂いである(前頁図参照)。
 また、コラーは重要な指摘をしていて、筆者がさきほど「言語構造上の翻訳シフト」と「運用上の翻訳シフト」を峻別したが、それとパラレルに「対照言語 学」(当時は対照言語学どまりの研究であった)は「対応」(correspondence)を、「翻訳の科学」は「等価」(equivalence)を扱 うとし、前者は「外国語の能力」が、後者は「翻訳の能力」が問題になる、としている。そして、等価のタイプとして、

(1) 指示的等価:語彙、言語外的内容の等価に関わる。
(2) 暗示的等価:文体的等価。同義語彙間の選択や文体的効果、フォーマリティなどに関わる。
(3) テクスト規範的等価:テクストタイプ(Reiß 1977/1989)や話法に関わる。
(4) 語用論的等価:コミュニカティヴな等価。動的等価(Nida 1964)に関わる。
(5) 形式的等価:表現的等価。韻、比喩などテクストの形と美的価値観に関わる。
(Koller 1979/1989。訳はマンデイ2009準拠)

を提案している。そしてコラーは、コミュニケーション状況に応じて等価が階層化される必要性を説き、そのためのテクスト分析のチェックリストとして、

言語の機能、内容の特徴、言語と文体の特徴、形式的/美的特徴、語用論的特徴

を挙げ、翻訳の観点から見たテクスト的特徴の類型論の体系化の必要性を唱えている。
 恐らく、包括的な翻訳シフト論(転換操作)を論じるには、これが到達目標だと思われる。コラーが提唱する5つの等価実現のための体系化・階層化とテクス ト分析との相互連関を精緻化するのは至難の業であるが、それに到達するための理論整備のあり方として、本稿では「文法」にフォーカスを当てて、従来の「対 照言語学」の手法のみならず、その発展形である「認知言語類型論」まで射程に入れながら緻密な議論をしていく必要性を説いた(つもりである)。コラーにつ いても、機会を改めて論じたい。

翻訳学とは何か―翻訳テクスト分析としての翻訳学
具体的な論証は論を改めるとしても、翻訳規範という翻訳の社会的側面を論じるには、具体的な翻訳テクストの言表に現われている翻訳シフトを分析することが 不可欠である(Toury 1995)。翻訳学が文化的・社会的・イデオロギー的転回を経た今日、翻訳をめぐる社会的コンテクストの分析や翻訳者自身を分析の対象にすることにフォー カスが当たるのも理解できるが、翻訳テクスト自体の分析も研究に組み入れることによって、テクストを紡ぎ出すことが仕事である翻訳の真の実像により迫るこ とができると筆者は考える。翻訳学は、@前・言語学的時代、A言語学的時代(後に語用論的転回を経る)、B文化的・社会的・イデオロギー的転回を経て今日 に至るが、その次の段階として、C言語学的回帰(linguistic re-turn)が望まれる。このCは言語学の手法自体が、社会的転回(social turn)を経験したものであり、言語学はそうしたパラダイムを提供する理論的お膳立てをかなり展開させている。

参考文献
Baker, M. (1992). In other words. London: Routledge.
Bassnett, S. (2002). Translation studies. London: Routledge.
Catford, J.C. (1965). A linguistic theory of translation. Oxford: OUP.
Chesterman, A. (1989). Readings in translation theory. Helsinki: Finn Lectura.
―――. (1997). Memes of translation. Amsterdam: John Benjamins.
堀江薫・パルデシ, P.(2009)『言語のタイポロジー』研究社
池上嘉彦(2000)『「日本語論」への招待』講談社
Jakobson, R. (1959/2004). ‘On linguistic aspects of translation’. In Venuti, L. (Ed.). (2004). The translation studies reader. 2nd edition. London: Routledge.
Koller, W. (1979/1989). Equivalence in translation theory. translated from the German by Chesterman, A. In Chesterman, A. (ed.) (2004). pp. 99-104.
マンデイ, J.(著)・鳥飼玖美子(監訳)(2009)『翻訳学入門』みすず書房[原著Munday, J. (2008). Introducing Translation Studies. London: Routledge.]
中村芳久(編)(2004)『認知文法論U』大修館
Nida, E. (1964). Toward a science of translation. Leiden: Brill.
Reiß, K. (1977/1989). Text types, translation types and translation assessment. translated by Chesterman, A. In Chesterman, A. (ed.) (2004). pp. 105-15.
佐藤芳明・田中茂範(2009)『レキシカル・グラマーへの招待』開拓社
Toury, G. (1995). Descriptive translation studies and beyond. Amsterdam: John Benjamins.
坪本篤朗・早瀬尚子・和田尚明(編)(2009)『「内」と「外」の言語学』開拓社