翻訳調の堕落
山岡洋一

羊頭狗肉
 ― ケインズ「孫の世代の経済的可能性」の悲惨な既訳

 
 2007年から、100年に一度ともいわれる経済・金融危機がつづいており、そのために、1930年代の大恐慌とそこから生まれたケインズ経済学に関心 が集まっている。ケインズの著作でもっとも有名なのはいうまでもなく『雇用、利子、通貨の一般理論』(1936年)だが、たくさんの時評にも魅力がある。 そのなかで、『説得論集』(1931年)に収録された「孫の世代の経済的可能性」(1930年)は、21世紀のいま、とくに興味深いように思える。未曽有 の不況を背景に悲観論が蔓延するなか、100年後の経済がどうなっているかを予想したものだからだ。1930年の100年後は2030年であり、それまで あと20年しかないのだ。

 ケインズは2030年になれば、生きていくために必要不可欠な衣食住のニーズを満たすという意味での経済的な問題は解決のめどがついていると予想してい る。そうなれば倫理観も変化し、貪欲は悪徳だという原則、高利は悪だという原則、金銭愛は憎むべきものだという原則に戻れるだろうという。今回の経済・金 融危機がその方向への一歩になればいいのだがと思う。

 ケインズのこのエッセイには、以下のように、既訳が少なくとも2つある。

救仁郷繁訳「わが孫たちのための経済的可能性」(『説得評論集』、1969年、ぺりか ん社)
宮崎義一訳「わが孫たちの経済的可能性」(『ケインズ全集第9巻』、1981年、東洋経済新報社)

 今回、機会があって、この2つの既訳を詳しく検討した。そして正直なところ、質の低さに少々驚いた。戦後のこの時期になると、翻訳調の栄光の時代は終わ り、堕落の時代がはじまっていたのだろうと思わざるをえない。

 まずは訳者について。救仁郷〔くにごう〕繁については、ほとんど何も知らなかった。インターネットで検索しても、この本の「訳者紹介」を超える情報は得 られなかった。「北海道帝国大学農業経済学科卒。農学博士。主著『西ドイツの農業経済』」とあり、訳書が10点以上並んでいる。おそらくは経済学者なのだ ろうが、翻訳が業績の中心であり、著名な経済学者ではなかったようだ。

 もうひとりの宮崎義一は、著名なケインズ経済学者だから、経歴を調べる必要すらない。バブル後の不況を分析した『複合不況』が、この種の本としては異例 のベストセラーになったことでも有名だ。ケインズ経済学の解説ではなく、日本経済の分析を行ってきた学者なので、『説得論集』の翻訳者としては最適だと思 える。

 だが、どちらの翻訳も、驚くほど誤訳や不適切な訳が多く、ケインズの主張が読み取れていないのではないかという印象をもった。これは想像にすぎないが、 救仁郷訳に問題が多いのは力不足のため、宮崎訳に問題が多いのは下訳者(たぶん大学院生)に任せたためだと思われる。具体例をいくつかみていこう。なお、 このエッセーはTとUの2つの部分に分かれている。Tの第1段落などの形で場所を示すことにし、原著と訳書のページは省略する。原文はJ. M. Keynes, Essays in Pursuasion, Macmillan, 1931, pp. 358 - 373による。

 
タイトルの問題
 このエッセーのタイトルを、原文、救仁郷訳、宮崎訳の順に並べてみよう。

Economic Possibilities for our Grandchildren
「わが孫たちのための経済的可能性」
「わが孫たちの経済的可能性」

 ここで気になるのは、救仁ク訳の「〜のための」だ。原文のforをこう訳したのだろう。本文中に同じ表現があるので、その部分をみてみよう。

Tの第4段落
... What are the economic possibilities for our grandchildren?
……わが孫たちのための経済的可能性はどんなものだろうか。(救仁郷訳)

「わが孫たちのための経済的可能性」とはどういう意味なのだろうか。正直なところ、よく分からない。「のための」というのは、forを英和辞典で引いたと きに真っ先にでてくる訳語だ。学習辞典なら太字で書かれている。これが翻訳の際に訳語として使える場合はなくはないが、それほど多くはない。少し考えれ ば、forの意味はすぐに分かる。たとえば、possibilityの形容詞形であるpossibleでは、つぎのような文型がよく使われる。

It is possible for sb to do sth.

 これと同じforが名詞形のpossibilityでも使われていると考えれば、いちばん理解しやすい。それでも不安なら、possibilityの用 例を大量にみていけばいい。救仁ク繁が訳した1960年代後半には使えなかった手だが、いまでは誰でも簡単に使える。コンピューターとインターネットが発 達したいまでは、全文データベースから、さらにはインターネット全体から用例を探し出せるので、こういう間違いは簡単に防げるようになっている(救仁ク訳 のように訳したときにどこかがおかしいと気づけば、という条件がつくが)。

「信じる」の意味は
Tの第2段落
   I believe that this is a wildly mistaken interpretation of what is happening to us.
 これは、現在われわれに起こりつつある事態を乱暴に誤って解釈したものと私は信じる。(救仁郷訳)

 たぶん、翻訳調の翻訳でいかに奇妙な訳ができるかを示す典型例だともいえるだろう。原文の意味を考えて、それを伝えるのにふさわしい日本語で書こうとす れば、このような訳は生まれない。「われわれに」「乱暴に」「信じる」はどれも、英和辞典に太字で表示される類の訳語だ。だが、believeと thinkの意味の違い、「信じる」と「思う」の意味の違いを少し考えてみるといい。「信じる」は、どちらかといえば真実である可能性が低いときに使われ ることが多い言葉だが、believeは逆に、真実である可能性が高いと考えるときに使われる言葉だ。あとふたつの語も、意味を少し考えれば、使わなかっ ただろうと思える。

経済用語をどう訳すか
Tの第2段落(続き)
... We forget that in 1929 the physical output of the industry of Great Britain was greater than ever before, and that the net surplus of our foreign balance available for new foreign investment, after paying for all our imports, was greater last year than that of any other country, being indeed 50 per cent greater than the corresponding surplus of the United States.
……われわれは次のことを忘れているのだ。それは、一九二九年にはイギリスの工業産出量が空前の水準に達したということ、また、イギリスが輸入総額を決済 したのち新規対外投資に向けうる、対外収支の純余剰額は、昨一九二九年には他のあらゆる国よりも高く、アメリカのそれを事実五〇パーセントも上廻ったとい うことである。(救仁郷訳)
……われわれは次のことを忘れているのだ――一九二九年のイギリスでは、工業の物的産出量は史上最高であったし、また輸入総額を支払った後の新規対外投資 に利用できる対外収支の純余剰は、昨一九二九年、他のどの国よりも大きかったし、アメリカのこの純余剰よりも実に五〇パーセントも大きかったということで ある。(宮崎訳)

 じつに不思議な訳だと思う。「工業の物的産出量」は、the physical output of the industryの訳語として考えれば、間違いではない。「輸入総額を決済したのち新規対外投資に向けうる、対外収支の純余剰額」も、原文のこの部分の訳 としては間違いではない。だが、間違いではないといいうるのは、経済や経済学について何も知らない人が訳した場合である。原文の語をひとつずつ、経済用語 の辞書で調べて、たぶん間違いないだろうと思える訳語を選択し、英文和訳で教えられる通りに組み合わせていくと、こういう訳ができあがる。要するに素人さ んの訳なのである。

 読者はこの訳文を読んで、意味がまったく分からないというわけではないが、すぐに理解できるわけでもない。何を意味しているのか、考えていかなければな らない。1930年に書かれているから、いまとは違って、経済のさまざまな用語が確立していなかったのだろうと考え、いまの普通の経済用語になおせば(翻 訳すれば)、どうなるのだろうと考える。たとえばいまなら、国際収支についてはIMF(国際通貨基金)が決めた用語が使われているが、当時はそうした用語 が確立していなかった。そのためにこのような表現になっているのだろうが、などと考える(実際には英語ではいまでも、このような曖昧な表現をよく使うのだ が)。経済学の専門家なら、この原文の背景にある事実を考えて、ケインズが論じたことをしっかりした日本語で表現してもらいたいと思う。救仁ク訳、宮崎訳 ともに、そうした読者の要望には答えていない。

 宮崎訳の「輸入総額を支払った後の新規対外投資に利用できる対外収支の純余剰」の部分はもっと悪い。さっと読み飛ばせば、何となく意味が分かるようにも 思えるが、じっくり読むと、「輸入総額を支払った後の新規対外投資」の「の」が気になる。これは誤植で、正しくは「に」なのだろうか。そう考えていると、 「純余剰」も気になってくる。何かから何かを差し引いた額が「余剰」であり、それに「純」がつくと、さらに何かを差し引いているはずである。いったい何を 差し引いているのか、訳文には手掛かりは何もない。読者は不安になる。こんなことが分からないのだから、自分はよほど無知なのか、それとも頭がよほど悪い のかと。心配は無用だ。悪いのは訳文であって、読者の頭ではない。

「欲望」とは
Tの第3段落
   The prevailing world depression, the enormous anomaly of unemployment in a world full of wants, the disastrous mistakes we have made, blind us to what is going on under the surface―to the true interpretation of the trend of things.
 世界中を覆っている不況、世界中に充足されない欲望が溢れているのに失業が存在しているという最悪の異常事態、われわれが犯した惨めな誤りなどが、表面 に現われない所で進行している事態に対して――すなわち事態の趨勢の正しい解釈に対して――われわれを盲目にしている。(宮崎訳)

「……不況が……われわれを盲目にしている」という訳文は、たぶん、英文和訳としても疑問符がつくし、翻訳という観点からは、初歩的な問題があるといえる はずである。翻訳について考えたことがある人なら誰でも気づくように、これは無生物主語の文だからだ。意思をもたないものが人間に働きかけるように表現す るのが無生物主語であり、英語ではごく普通に使われる。このような文の訳し方は高校の英文和訳でも教えられるはずだ。初歩的な工夫が足りない訳だといえる はずである。

 もうひとつ、「世界中に充足されない欲望が溢れているのに失業が存在しているという最悪の異常事態」もいただけない。欲望と失業にどういう関係があるの かを考えてみるべきだ。経済学者なら経済学的に。そうすれば、この部分の訳がどこかおかしいことに気づいたはずである。そう、wantsの意味を取り違え ているのである。英和辞典をみればたしかに「欲求」や「欲望」などの訳語がでているので、誤訳ではないと訳者は主張するだろう。だが、この語は「生活に必 要なものが不足している状態」を意味する。文脈によっては、そこから派生した「欲求」や「欲望」などの訳語が使える場合もあるというにすぎない。訳語では なく、意味を考えていれば、このようなみっともない訳にはならなかったと思える。

Tの第3段落(続き)
... For I predict that both of the two opposed errors of pessimism which now make so much noise in the world will be proved wrong in our own time―the pessimism of the revolutionaries who think that things are so bad that nothing can save us but violent change, and the pessimism of the reactionaries who consider the balance of our economic and social life so precarious that we must risk no experiments.
……というのは、現在世界中に大騒ぎを起こしている悲観論の二つの相反する誤りは、いずれもわれわれが生きている間にその間違いが明らかにされると私は予 言するところのものだからである。その二つの誤りとは、暴力的変革以外にわれわれが救われる道はないとほど事態は悪化していると考える革命家たちの悲観論 と、われわれの経済的社会的生活のバランスは、自らの意思によって達成されたものではないので、あえてどのような実験も企てるべきではないと考える反動家 たちの悲観論とである。(宮崎訳)

 ここで、「自らの意思によって達成されたものではないので」の部分は、二重の意味で理解不可能だと思える。まず、訳文だけを読んだときに意味が理解でき ない。つぎに、原文をみると、なぜこのような訳になったのか、理由が分からない。救仁ク訳では「著しく不安定となっているため」になっている。宮崎訳はも ちろん、救仁ク訳を参考にしながら訳されているはずだが、なぜ、このような訳でなければならないと考えたのかは、まったく分からない。奇妙だというしかな い。

ダッシュをどう処理するか
Tの第5段落
   From the earliest times of which we have record―back, say, to two thousand years before Christ―down to the beginning of the eighteenth century, there was no very great change in the standard of life of the average man living in the civilised centres of the earth.
 記録が残されているもっとも古い時代――それは、たとえば紀元前二〇〇〇年までさかのぼることができよう――から一八世紀の初めに至るまで、地球上の文 明の中心地に生活していた普通の人の生活水準には、大きな変化はなかった。(宮崎訳)

 このダッシュの処理はある意味で、翻訳調の典型である。この2つのダッシュは挿入を意味しており、宮崎訳は挿入として処理しているので、何の問題もない ように思えるかもしれない。だが、音読してみると、すぐに問題が明らかになる。訳文の2つめのダッシュの後にある「から」が浮いているのだ。「もっとも古 い時代から」という文章の「時代」の部分に挿入句があるのでこうしたのだろうが、その結果、読者は前から後に順に読んでいくことができなくなった。いうな らば、訳文の2つめのダッシュの後に返り点がついていて、「もっとも古い時代」まで戻らなければならなくなっているのである。文章は、前から順に読んでい くものだ。途中からもとに戻れというのでは、お話にならない。

 もうひとつ、原文にダッシュがあれば、訳文にも同じ場所にダッシュがなければならないと、訳者は思い込んでいるようだ。英文のダッシュは実際には、コン マやパーレンとほぼ同じように使われるが、強さという点に違いがある。コンマやパーレンより若干強い符号なのだ。日本語ではどうだろう。日本語では英語と 違って、各種符号の正式な使い方が決まっているわけではない(だからだろうが、英語を学ぶ際にも、パンクチュエーションにはほとんど関心をもたない人が多 い)。このため、コンマに近い読点、パーレンに近いカッコ、そしてこのダッシュの使い方も決まってはいない。そこで、読んだときの印象はどうかを考えるし かない。読めばすぐに分かることだが、読点もカッコも全角1字分(ときには半角1字分)だが、ダッシュは全角2字分になるのが普通だ。だから若干どころで はなく、強烈に目立ち、強烈に強い。そのため、まったく使いにくい符号であり、日本語で書かれた文書ではめったに使われない。

 翻訳にダッシュが目立つのは、訳者が符号について考えていない証拠である。英語のダッシュの使い方をおそらくそれほど知らないし、日本語の文章でダッ シュがどういう印象を与えるかも、おそらく考えたことがない。翻訳者は物書きなのだから、これではいけない。原文に使われているからという理由で、機械的 にダッシュを使うべきではない。英語のダッシュと日本語のダッシュでは性格が違うという点をしっかりと意識すべきだ。

 ちなみに、疑問符と感嘆符についても同じことがいえる。英語では横幅がないのであまり目立たないのだが、日本語の縦書きになると、全角1字に空白1字分 をくわえて、2字分もとるので、極端に目立ってみっともない符号になる。そもそも日本語の文章では疑問符も感嘆符も不可欠ではない。原文にあるからという 理由だけで疑問符や感嘆符を使うべきではない。

原文の読み違え
Tの第9段落
   I believe―for reasons with which I must not encumber the present argument―that this was initially due to the rise of prices, and the profits to which that led, which resulted from the treasure of gold and silver which Spain brought from the New World into the Old.
 私の信じるところによれば――私としてはここに示した論拠の妨げには決してならない種々の理由からそう信じるのであるが――この資本蓄積は初めは物価騰 貴と、それによって生じた利潤とがその原因になっていた。このことは、スペインが新世界から旧世界に運び込んだ金銀財宝が生んだ結果であった。(救仁郷 訳)

 ダッシュで囲まれた挿入部分は誤訳だとしか思えない。宮崎訳でも「私は幾つかの理由から――といってもその理由のためにここでの議論が妨げられることは ないが――」になっていて、やはり誤訳だとしか思えない。この2つの既訳で、原文がI must notになっている理由を説明できるのだろうか。原文は要するに、長くなるから理由は書かないが、といっているにすぎない。

割り注という悪弊
Tの第10段落
... Something of this sort has now been going on for about 250 years.
……今やこの種のことがおおよそ二百五十年間〔訳注 ――三百五十年間の誤植であろう〕もつづいてきたのである。(救仁郷訳)

 この訳注は実際には割り注になっている。つまり、小さな活字で、本文の1行のスペースに2行に分けて表示されている。この割り注は、翻訳調の性格を示す 点で面白いと思う。

 長くなるのでこの部分の前後は示さないが、2つの理由で、原文の250 yearsが誤植か間違いであることははっきりしている。第1に、ケインズはここで英国の海外投資について論じており、当初の4万ポンドを3.25%の複 利で運用すると、250年後にほぼ40億ポンドになると述べている。計算すればすぐにわかることだが、1.0325の250乗は約3千なので、4万ポンド は約1億2千万ポンドにしかならない。第2に、英国の海外投資の出発点は1580年だと論じているので、このエッセーが書かれた1930年には350年 たっていた。

 原文に誤植か勘違いがあることがはっきりしているとき、翻訳者はどうするか。この場合のような単純な間違いであれば、「三百五十年」と訳せばいい。たぶ ん、一般読者向けの出版翻訳を行っている翻訳者なら、誰でもそうするだろう。だが、救仁ク訳ではそうしていない。割り注をつけて、「誤植であろう」と書い ている。なぜこのように書くのか。このように書くとき、どのような読者を想定しているのだろうか。

 おそらく答えはひとつしかない。読者は原著を読んでいて、参考のために訳書もみていると想定しているのである。原著を読んでいる読者なら、注釈なしに 「三百五十年」と訳されていた場合、原著との違いに気づいて戸惑うかもしない。そこで親切に訳注をつける。この訳注は、訳書だけを読む読者にとって邪魔で しかないのだが。ちなみに、宮崎訳ではこの部分が「二五〇年」になっている。原文の間違いに気づかなかったのであれば、お粗末としかいえない。救仁ク訳を みるまでもなく、数字をいつも扱っている経済学者なら、すぐに気づくべき誤りなのだから。

著者が意味を説明しているのだが
Tの第15段落
... In quite a few years―in our own lifetimes I mean―we may be able to perform all the operations of agriculture, mining, and manufacture with a quarter of the human effort to which we have been accustomed.
……ほとんど数年のうちに――ということは、われわれがまだ生きているうちにということである――われわれは、農業、鉱業、製造業のあらゆる経営を、これ までの習慣となってきた労働力の四分の一で成しとげることができるようになるだろう。(宮崎訳)

 このダッシュで囲まれた挿入部分までの訳は、何とも理解しがたい。著者はここでまず、In quite a few yearsといった後、一呼吸おいて、この言葉の意味を説明している。したがって、「ほとんど数年のうちに」ではないのだ。救仁ク訳も「確かに数年のうち に」になっている。どちらの訳者も、a few yearsは「数年」なのだと思い込んでいて、この表現の意味を考えてみようともしなかったと思える。このa fewは「多くはない数」を意味しているにすぎず、2〜4を意味しているわけではない。そして、quite a fewでは「かなり多い数」を意味する。

誤訳を2つ
 このように、「孫の世代の経済的可能性」の既訳は、誤訳や不適切な訳がどの段落にもあるのだが、最後に2つ、かなり決定的な誤訳を指摘しておこう。

Uの第2段落
   Now it is true that the needs of human beings may seem to be insatiable. But they fall into two classes―those needs which are absolute in the sense that we feel them whatever the situation of our fellow human beings may be, and those which are relative in the sense that we feel them only if their satisfaction lifts us above, makes us feel superior to, our fellows.
 ところで、人間のいろいろな欲求が飽くことを知らないもののように見える、というのも本当である。しかし、それらの欲求は二つの種類に分かれる。すなわ ち、われわれが自分の仲間の人間の状態がどうであろうと必ず感ずるという意味での絶対的な欲求と、その充足によって自分自身の状態が向上して、仲間に対し て優越感をもつようになる場合にのみ感ずるという意味での相対的な欲求とである。(救仁ク訳)

 ここで、「自分自身の状態が向上して」と訳したとき、訳者はlifts us aboveのaboveを副詞ととらえたはずである。だが、その場合、superior toの後にコンマがある理由を説明できなくなる。ここにコンマがあるのは、lifts us aboveとmakes us feel superior toが並列されていて、どちらもour fellowsにつながっているからである。

 この部分では、宮崎訳はコンマをうまく処理できているように思える。だが、つぎの部分では、救仁ク訳、宮崎訳ともに、これと同じコンマを説明できない訳 になっている。宮崎訳をみてみよう。

Uの第14段落
... But it will be those peoples, who can keep alive, and cultivate into a fuller perfection, the art of life itself and do not sell themselves for the means of life, who will be able to enjoy the abundance when it comes.
……しかしこの豊かな時代が到来したときに、その豊かさを享受することのできるのは、活力を維持することができ、生活術そのものをより完璧なものに洗練 し、生活手段のために自らを売り渡すことのないような国民であろう。(宮崎訳)

 ここで問題なのは、cultivate into a fuller perfectionの後のコンマだ。これを説明できるのはUの第2段落と同じ共通構文になっていると考えたときだけだろう。そう考えなければ、 cultivateの目的語が本来の位置ではなく、into sthの後に置かれている理由が説明できないし、keepには目的語がないので、自動詞と考えるしかなくなる(なお、宮崎訳ではkeep aliveだけで「活力を維持する」訳していることになるが、そう訳した理由はよく分からない)。

翻訳調が堕落した時代の翻訳
 救仁ク訳、宮崎訳ともに、一言でいえば、かなり質が低いと思える。宮崎義一訳は救仁ク訳という既訳を参照して訳せたわけだし、ケインズ全集という権威あ るシリーズのために訳されたものなので、とくに罪が重いと思われる。だが、戦後のこの時期になると、一流の学者にとって、翻訳は主要な任務だとは感じられ ないものになっていたはずだ。明治から昭和の前半まで、翻訳こそが学者の本業だった時期、一流の学者が一流の本を訳していた時期とは、状況が大きく変わっ ていたからだ。だが、出版社も読者も依然、一流の学者による翻訳を求めていた。そのため、学者は大学院生などの弟子に翻訳を押し付けるようになっていた。

 宮崎訳はおそらく、そういう翻訳なのだろう。この時期の翻訳を読むと、たとえば経済書であれば、訳者は経済についても経済学についても何も分かっていな いのではないかという感想をもつことがある。翻訳調という縛りがあるために、経済と経済学についての知識を活かせないという要因もあったのだろうが、それ 以上に、実際に経済と経済学についての知識が不足している下訳者が訳したからである場合が多いのだろうと思える。

 発展途上国の市場を歩いていて、羊の頭を飾ってある肉屋があるのに気づいたことがある。この羊の肉だから新鮮だよという意味なのだそうだ。羊頭狗肉とい う言葉はこのような習慣から生まれたのかとおかしくなった。1980年代以降の学者訳はまさに、羊頭を掲げて狗肉を売っているようなものだということが多 かったとみられる。翻訳調の翻訳が嫌われるようになった背景には、明らかに質が低下していたという要因があったのである。

 いまはどうか。いまはこうした動きがさらに進んでいる。ここで取り上げたのは経済書だが、どの分野でも、たとえば古典の小説といった分野でも、大学教授 の翻訳をありがたがる理由はなくなっている。もちろんなかには、翻訳こそが天職だと考えているが、生活を安定させるために大学で教えている人もいるだろ う。そうであるなら、○○大学教授ではなく、翻訳家という肩書きを使うべきだ。現状をみると、そういう人すら大学教授の肩書きを使いたがるようだ。腐って も鯛というべきか、翻訳家の地位はまだまだ低いというべきかはよく分からないが。

(2009年8月号)