翻訳とは

音楽からの類推

山岡洋一

  読んで楽しい哲学書というと、形容矛盾ではないかと思えるかもしれないが、まさに楽しい哲学書が最近出版された。ニコラス・ファーン著中山元訳『考える道具〔ツール〕』だ。古代から現代まで、20人余りの著名な哲学者について、それぞれがどのような理論を構築したかではなく、どのような「道具〔ツール〕」を使って考えたかを紹介する本だ。

 たとえば第5章の「プラトンの洞窟」には、アナロジー(類比、類推)とアレゴリー(寓喩)という道具が紹介されている。独善的になりかねないので危険でもあるが、便利な道具だというのがこの章の論旨のようだ。

 そこで考えてみた。アナロジーという道具を使うと、翻訳について何かがみえてくるだろうか。翻訳と似ていると思える活動を探せば、類比と類推によって何かのヒントが得られるのだろうか。まず思いついたのは、音楽のアナロジーだ。音楽のアナロジーを使って、翻訳について何が分かるだろうか。

 もちろん例外もあるが、音楽ではかなりの場合、作曲家が楽譜という形で書いた「原作」を、歌手や演奏家、ミュージシャンなどが音に「翻訳」して聞き手に届ける。原著者が書いた「原作」を、翻訳者が母語に「翻訳」して読み手に届けるのが翻訳だから、よく似た経路をたどるとも思える。この点を考えていくと、原著と翻訳の関係、翻訳の評価基準、翻訳の性格と役割などについて、類推できる点があるかもしれない。

正確さが最重要の評価基準なのか
 翻訳批評の場を作りたいというのが『翻訳通信』をはじめた動機のひとつだ。ところが翻訳の批評というと、たいていの人は誤訳の指摘のことだと思うようだ。無理もない。翻訳批評をたまに目にすると、大部分が誤訳の指摘なのだから。だが、誤訳の指摘が翻訳批評の本流だとするのは疑問だと思う。傍流にすぎないかもしれない。そういえるのかどうか、音楽の批評と比較して考えてみよう。

 翻訳批評の現状をみると、たしかに誤訳の指摘が圧倒的に多い。この事実をみると、翻訳の評価基準のなかで、「正確さ」がいちばん重要だとされているように思える。もちろん、誤訳だらけの翻訳を読まされるのはかなわない。誤訳は少ないほどいい。だが、正確さがいちばん重要な評価基準かどうかは別問題である。もっと重要な基準があるかもしれない。そこで音楽の例をみていくと、面白い事実に気づく。

 音楽でも、正確さが問題になることがある。たとえば、音程が外れっぱなし、リズムが狂いっぱなしの歌を聞かされると、聞いていられないと言いたくなる。だが、これは例外であり、正確さが話題になることはあまりない。なぜ正確さがあまり話題にならないのかは、正反対の例、つまり正確無比の演奏の例をみてみれば分かるかもしれない。

 コンピューター技術の進歩はすさまじいようで、いまでは音楽を演奏するぐらいの芸当はみごとにやってのけるという。楽譜を入力しておけば、もちろん100分の1秒の狂いもなく、100分の1ヘルツの狂いもなく、まさに正確無比に演奏するという。機械翻訳はいまだに、笑い話のタネをたくさん提供してくれる状況なので、音楽ソフトはすごいと思う。

 だが、寡聞にして「機械音楽」の発達で歌手や演奏家、ミュージシャンが失業したという話は聞かない。また、音楽CDなんぞは時代後れで、いまや音楽ソフトで音楽を聞く時代になったという話も聞かない。音楽をパソコンで聞く人はたくさんいるが、音源は昔どおり、人間が演奏し歌ったものであって、正確無比の「機械音楽」によるものではない。

 では、音程やリズムの正確さという点ではコンピューターにかなうはずがない人間の演奏をなぜ聞くのか。そう質問すると、音楽好きにじろりとにらまれるのではないだろうか。「機械音楽」は楽譜にまったく忠実であっても、「表現」ではない。音楽とは表現であって、音を組み合わせただけのものではない。この点を誰でも知っているから、「機械音楽」がいくら正確無比でも、試しに聞いてみようと思う人はいない。

 音楽にははた迷惑な歌もあれば、風呂につかっての鼻唄もある。だが、ここで考えているのはプロの演奏と歌だけだ。プロは演奏し歌うとき、何かを表現し、聞き手に伝えようとしている。だからこそ聞き手には音の組み合わせだけではない何かが伝わる。表現し伝達するのが音楽であり、正確無比だろうが何だろうが、音を組み合わせただけで音楽になるわけではない。

 この点をよく示すのが、スタジオ録音よりもライブ演奏の方が感動が大きい事実だろう。スタジオ録音の場合には、間違いを修正していることが多いので、正確さという点では優っている。ライブでは当然ながら音程が外れたり、音が飛んだりすることがあるので、正確さという点では劣っている。しかし、ライブはスタジオ録音よりも、「表現」としての質が優れている場合が多い。

 要するに、音楽の質を判断するとき、間違いがどこまで少ないかはあまり重要な基準ではない。音程やリズムの正確さよりもはるかに、表現としての質が重視されている。たとえば「音楽性」といった言葉、「力」とか「感動」とかの言葉で語られているのが、表現としての質の高さである。

 以上の音楽の例から類推して翻訳の質について考えても、そう的外れになるとは思えない。翻訳の成果である本や文書は、言葉を組み合わせただけのものではない。読者に何かを伝えようとする表現である。小説などのフィクションでは表現であることが明らかだし、たとえば経営書や技術文書などでも、読者に伝える内容に違いはあるが、何かを伝えようとしていることに変わりはない。翻訳者は何よりも表現者であり、原著から読み取った何かを読者に伝えようとしている。優れた翻訳家であれば、かならずそうしている。伝えようとしているからこそ、読者に伝わるのだ。

 正確無比の「機械音楽」は誰も聞こうと思わない。正確さで優るスタジオ録音よりも、少々傷はあっても力のあるライブのほうがいい。だったら、少々傷があっても、表現としての質が高い翻訳がいいという価値観があってもいい。誤訳の多寡は翻訳を評価する際の基準として絶対のものではないし、最重要のものですらなく、表現としての質の方が重要な基準だと考えることもできるだろう。

表現者としての翻訳者
 表現しているのは原著者であって翻訳者ではないという意見もあるだろうか。もしそう考えるのであれば、同じ考えを音楽にあてはめてみるといい。何かを伝えようとしているのは作詞家や作曲家であって、歌手や演奏家ではないと考えるのだろうか。

 そう考えるはずがないことは、簡単な事実をみれば明らかだ。いま流行りの歌でも、昔の流行歌でもいい、好きな歌を10あげる。そして、それぞれの歌手と作曲者と作詞者をあげていく。作曲者や作詞者の名前を知っている歌は半分もないのが普通ではないだろうか。たとえば、「亜麻色の髪の乙女」は誰の作曲だろうか。「大きな古時計」は誰が作曲したのか。「地上の星」は。そう、「地上の星」だけは知っている。シンガー・ソングライターの歌だから。

 歌手の名前を知っているのに、作曲者や作詞者の名前を知らないことがあるのは、歌手や演奏家が音楽を聞き手に届けてくれる直接の表現者だからだろう。作曲家や作詞家は、歌手や演奏家を介して音楽を聞き手に届けるので、間接の表現者だといえるのかもしれない。直接の表現者の方が印象が強いから、名前もよく覚える。

 直接の表現者の力をよく示すのがいわゆるカバー曲だろう。同じ曲でも歌手や演奏家が違えば、違った印象の曲になる。もちろん、編曲の違いという要素も加わるからだが、編曲も同じでも、印象は違う。歌手や演奏家、ミュージシャンが表現者として強い力をもっているからだ。

 翻訳の場合はどうだろう。たとえば、最近読んだ翻訳物の題名をあげて、それぞれの原著者と翻訳者の名前をあげていく。原著者の名前を忘れた本がいくつかあるかもしれない。だが、それ以上に忘れているのは、翻訳者の名前ではないだろうか。

 原著者の名前はある程度覚えていても、翻訳者の名前は覚えていないのは何故なのか、ここで追求しようとは思わない。だが、音楽と同じように、翻訳でも、翻訳者が違えば印象がまったく違った本や文書になることを指摘しておきたい。ひとつの本に複数の訳があるものを読んでみれば、この点はすぐにわかる。たとえば『ファウスト』なら森鴎外訳と池内紀訳、『精神現象学』なら金子武蔵訳と長谷川宏訳を比較してみるといい。翻訳者は表現者であり、原著から読み取ったものを読者に伝えようとしている。翻訳者が違えば、読み取るものが違い、訳文が違ってくる。

 もうひとつ、音楽の場合、作詩や作曲と演奏や歌唱が別の活動だと考えられている点にも注目したい。作曲家として優れていても、歌手や演奏家、ミュージシャンとして優れているとはかぎらない。だから、自分が作曲した曲は自分で演奏し自分で歌うという人はそう多くない。

 翻訳の場合にも、同じことがいえるように思える。著作と翻訳とは違った活動なのだろう。小説家が小説をうまく翻訳できるとはかぎらないし、学者が自分の専門分野の本をうまく翻訳できるとはかぎらない。できない場合の方が多いのではないだろうか。

翻訳は語学の仕事か
 翻訳は語学の仕事だといわれることが多い。この見方が正しいかどうか、音楽の例をみてみよう。

 演奏や歌唱はある意味でスポーツに似たところがある。たとえば歌をうまく歌うには、声帯の運動能力が高くなければならない。いわゆる音痴というのは、声帯をうまく制御できないことを意味するので、有名な演奏家が音痴だったりすることがある。耳はいいし、腕と指の運動はうまいので、たとえばピアニストとして著名であっても、声帯の運動能力が低ければ、歌は歌えない。だから、歌手とは声帯の運動能力が人並み外れて高い人だともいえる。

 だが、演奏や歌唱が運動だといえば、誰でも首を傾げるはずである。たしかに声帯などの運動能力が高くなければ歌は歌えないし、腕や指などの運動能力が高くなければ楽器は弾けない。たしかに運動能力は重要だが、それだけではない。それだけでは歌手や演奏家、ミュージシャンになれない。

 同じことが翻訳にもいえる。たしかに、いわゆる語学力、つまり外国語で書かれた原著を読む力がなければ翻訳はできない。しかしそれだけでは翻訳はできない。翻訳とは何よりも、原著から読み取ったものを読者に伝える活動である。伝える姿勢があり、伝えられる表現力がなければ、何も伝わらない。

音楽にもいろいろあるように……
 以上では「音楽」という言葉をとくに分野を限定せずに使ってきた。しかし誰でも知っているように、音楽にはさまざまな分野がある。クラシックもあれば、ジャズ、ロック、フラメンコ、演歌、民謡などもある。音楽とはこれらすべての分野の総称だ。

 翻訳にもやはりさまざまな分野がある。法律文書の翻訳と小説の翻訳では、きわめて大きな違いがある。コンピューター・マニュアルなどの技術文書、経営や経済などの研究書とノンフィクション、映画やドラマの字幕や吹き替え、雑誌や新聞の記事など、じつにさまざまな分野があり、分野ごとに性格が違い、要求されるものが違っている。

 ジャズ・ピアニストに津軽三味線を弾いてもらおうとは誰も考えないし、オペラ歌手にエレキ・ギターを弾いてもらおうとは誰も考えない。音楽といっても分野が違えば大きな違いがある。翻訳にも同じことがいえる。

その他の類推
 他にも、音楽からの類推で分かる点がある。そして、分からない点もある。

 たとえば、音楽を学び、練習する人はきわめて多いが、そのなかでプロになれる人はごく少数しかいない。プロになれても、音楽で食べていける人はきわめて少ない。同じことが翻訳にもいえる。翻訳学習者はきわめて多いが、そのなかでプロになれる人はごく少数しかいない。プロになれても、翻訳で食べていける人はきわめて少ない。

 音楽を学ぶ人が多いので、音楽教育が大きな産業になっている。大学から街の音楽教室まで、じつにさまざまな教育機関がある。音楽で食べていけなくても、音楽教育でなら食べていける人も少なくない。翻訳でも学習者が多いので、翻訳教育がちょっとした産業になっている。翻訳の仕事はできなくても、翻訳教育でお小遣いを稼いでいる人が少なくない。

 音楽の場合、誰でも名前を知っているコンクールがいくつもあって、新人の登竜門になっている。翻訳もそうなっているはずだと思えるかもしれないが、この類推は間違いのようだ。翻訳のコンクールはたしかにいくつかあるが、「誰でも名前を知っている」ものにはなっていない。名前があまり知られていないのだから、権威あるコンクールとはいえず、したがって登竜門にはなりにくい。

 もうひとつ、大きな違いがある。音楽の場合、大ヒットがあって知名度があれば、一生困らないだけの収入と仕事を確保できる。翻訳の場合も翻訳書で大ヒットがでることがあるが、しばらく食べていける収入が入るだけで、すぐにまた貧乏に逆戻りする。音楽なら、ごく一部ではあっても優雅に暮らしている人がいるが、翻訳で優雅に暮らしている人の話は聞いたことがない。この違いだけは当面、なくなりそうにない。