翻訳の新しい地平を求めて
山岡洋一

文末表現を垣間見る

 
 今後、翻訳の飛躍をもたらしうる要因はいくつかある。たとえば、情報技術とインターネットの発達によって翻訳にあたって利用できる情報の量が、以前とは 桁違いに増加した。いまでは翻訳者にとって、情報の洪水にどう対処すべきかが悩みのタネになっているほどだ。今後は情報の利用技術を磨くことが課題のひと つになっている。一例をあげれば、大量にある翻訳データをパラレル・コーパスにしてうまく活用できるようになれば、翻訳の質を飛躍的に高める一助になるだ ろう。同時に、辞書などの翻訳の基礎資料も、情報技術を活用すれば、様変わりするかもしれない。

 もっとも、情報の利用技術を磨くだけでは解決できない問題もある。大量の情報を効率良く利用できるようになっても、何に注目すべきかが分からなければ、 重要な事実が目に入らない。目の前にある事実をみるためにも、考え方、視点が重要である。もっといえば、理論が必要になる。

 そういう例のひとつとして、日本語の文末表現をとりあげたい。日本語にはたとえば、「〜のだ」「〜してしまった」「してくれた」などの多彩な文末表現が あり、これが日本語の豊かな表現力と論理性を支えている。ところが、英語などの欧米言語には日本語の文末表現にあたるものがない。翻訳という観点では、こ うした部分は盲点になりやすい。実際にも、日本語の会話でも文章でも文末表現はいくらでも使われているのに、翻訳のノウハウや理論でこれまで、文末表現が 真剣に議論されることはあまりなかったようだ。翻訳という観点からは、文末表現は未開の原野に近いようなのだ。この広大な原野を開拓することができないま でも、一端を眺めてみたいと考えている。まずは、大きく遠回りして、中学1年のときに習った英文とその訳し方を考えていく。

《I am a boy.》をどう訳すか
 ダニエル・デフォーは18世紀前半のイギリスを代表するエンターテインメント作家だが、代表作の『ロビンソン・クルーソー』は何人もの経済学者が好んで とりあげたことでも有名だ。経済は、何億人、何十億人もの人が関係する複雑な構造体なのだが、その本質を考えるとき、まずは孤島に流れ着いたロビンソン・ クルーソーのたった1人の「経済」について考えてみるべきだというのである。

 複雑な現象を考えるとき、まずはいちばん単純な現象をみる方法があるのなら、翻訳について考えるときにまず、たとえば《I am a boy.》をどう訳すかを考えてみる方法があるといえるはずだ。

 中学1年のとき、《I am a boy.》は「わたしは少年です」と訳すよう教えられた。翻訳というからにはこれで満足するわけにいかない。

 そこで問題。《I am a boy.》を百通りに訳してみよう。そして、それぞれの訳について、どのような場面で誰がなぜ、こう発言したかを考えていこう。

 一見、難しそうな問題だが、そうでもない。百通りの訳なら簡単に作れる(それぞれの場面を考えるには想像力が必要なので、そう簡単ではないが)。Iと boyについて、いくつもの案がすぐに思い浮かぶはずだ。組み合わせを考えていけば、すぐに百通り以上になる。

 まず「わたし」について。英語には日本語と比較したときに、誰でも知っている特徴がある。一人称単数の代名詞が事実上、Iしかないのである。これに対し て日本語には、一人称単数の代名詞は多彩だし、一人称単数に使える語は代名詞以外にもきわめて多数ある。そのうえ、英語のセンテンスには基本的に主語が必 要だが、日本語の場合には必要ではないので、Iの訳語にあたる部分が省略可能だ。このため、「わたし」の部分の選択肢が1つ増える。

「わたし」の部分に使える語にはたとえば何があるのか。代名詞に限定したときにすぐに思いつくのは「ぼく」だろう。「おれ」や「おれさま」もあるし、「わ たくし」や「手前」もある。「てめえ」「おいどん」「わし」「わしゃ」「わて」「わい」「こちら」「こちとら」「こっち」もある。「吾輩」や「乃公」「余 輩」「余」「麻呂」「当方」などもある。代名詞以外に範囲を広げれば、数え切れないほどの語が使える。

 つぎのboyについては、「少年」以外にさまざまな意味があることを無視するとしても、「男」と「子ども」の2つの意味を重ねた語であることが重要だと 思う。《I am a boy.》は、性別を間違えられたときの台詞なら「男」だよという意味になるし、大人と間違えられたときの台詞なら「子ども」だよという意味になる。そう 考えると、「少年」の部分に使える言葉もかなり多いことがわかるはずだ。

 まず思い浮かぶのは「男の子」だろうが、「小僧」などもある。「男児」や「男子」などもある。「子ども」の系列には「小童」だとか「未成年」「若造」な どもある。

 このように考えていくと、《I am a boy.》を百通りに訳すのがじつに簡単であることが理解されるはずだ。それぞれ、ニュアンスが少しずつ違う。場面が違い、話し手が違い、相手が違う。翻 訳とはこうした可能性のなかから、文脈にぴったりの1つの表現を選び出す作業なのである。

 そこで、つぎの問題。「わたし」と「少年」を使って、何通りに訳せるか考えてみよう。そんなことができるのかと思えるかもしれないが、じつは簡単であ る。

 まず、「は」の部分について考えてみると、「わたしは少年〜」以外に、「わたし少年〜」「わたしが少年〜」の2つがすぐに思いつく。

 つぎに「わたしは少年〜」までを固定しても、「です」の部分をさまざまに変えられる。たとえば以下の通りだ。

わたしは少年です。
わたしは少年だ。
わたしは少年である。
わたしは少年であります。
わたしは少年なのです。
わたしは少年なのだ。
わたしは少年なのである。
わたしは少年ですよ。
わたしは少年だよ。
わたしは少年であるよ。

 まだまだある。日本語には多彩な文末表現があるので、訳文を何十でも作れる。

 では、最後の問題。つぎの2つの文がどのような文脈でどのような人物によって使われるかを考えたうえで、それぞれを英訳してみよう。

わたしは少年だ。
わたしは少年なのだ。

 どちらも《I am a boy.》でいいのだが、それでは芸がなさすぎると思うのであれば、「わたしは少年なのだ」をどう訳すのか。

 これまでさまざまな機会に翻訳者や翻訳学習者、学生にこの質問をしてきたが、たいていは、2つの方法がすぐに頭に浮かぶようだった。第1に、 actuallyやin factなどの副詞・副詞句を使う方法である。第2に、becauseなどの接続詞を使う方法である。答えがない場合にも、この2つの方法を示すと納得が 得られた。これはじつに面白い現象だと思う。文末表現を副詞か接続詞で訳すようにと教えられたことがある人はまずいないはずなのに、直感的にこれが正しい 方法だと感じられるのである。

 直感というものがあてになるとはかぎらない。あるときは正解でも、あるときは大間違いということがある。だから、慎重に考えていかなければいけない。だ が、正解である可能性があるのであれば、じつに面白いことではないだろうか。

 文末表現に関心をもったのは、まさにこの副詞と接続詞の訳し方の常識に対する違和感が嵩じてきたからだ。「のだ」などの文末表現が接続詞や副詞の訳とし て使えるのであれば、翻訳の方法がかなり変わる可能性がある。だがこの方法を使うと、訳抜けだなどと非難されかねないので、慎重に理論を構築する必要があ る。

 ある程度まで理論的に把握できた場合、成果は翻訳の方法が変わるだけではないかもしれない。日本語の文末表現が英語の接続詞に似た機能をもっているので あれば、日本語の論理性に関する考え方が変わる可能性がある。また、英語の副詞(さらには形容詞)が日本語の文末表現に似た機能をもっているのであれば、 英語の感情表現に関する考え方が変わる可能性がある。そういう観点から、考えを進めていくことにしよう。

「のだ」が支える論理構造
 まずは「のだ」についてみていこう。「のだ」は、ほとんど意識されないまま使われているのがふつうだろう。意識したとしても、強調表現の一種だと考え て、それ以上に深く追求することはない。それでも「のだ」に関しては日本語文法という観点で研究がかなり進んでいるようなので、それをある程度まで確認し た後に、村上春樹著『ノルウェイの森』とその英訳から実例をみていくことにする。

 国文法では、たとえば三上章『現代語法序説』(くろしお出版)のうち、第3章九「ノデアル」が参考になる。三上の議論はつねにそうだが、この節も決して 読みやすくないし、まして分かりやすくはない。三上の文法理論が理解できたとはとてもいえないが、それでも、いくつかは学べた点があると考えている。「の である」や「のだ」について、三上章はこう指摘している。第1に、「前文との関係的に出てくる」、つまり、前の文との関係を示すものである。第2に「続き 具合は順でなくて「逆」である」、つまり、「のである」や「のだ」が使われている文は、前の文との時間的前後関係が逆になるというのである。論理的な前後 関係が逆になるといってもいいはずである(逆になっているとはかぎらないようだが)。

 三上章の文法論をもう少し分かりやすくした解説が、外国人向けの日本語教育という分野にある。白川博之監修『中上級を教える人のための日本語文法ハンド ブック』(スリーエーネットワーク)(以下では『ハンドブック』)である。その282ページ以下に「関連づけ」という章があり、「日本語には文が他の文や 状況と関連性を持っている(関連づけられている)ことを表す形式があります」と指摘し、典型的な文末表現のうち、「のだ」と「わけだ」を扱っている。この うち、「のだ」の部分では、関連づけを表さないものも含めて、さまざまな用法をとりあげている(同書282〜290ページ)。ここにあげられた用法と用例 を紹介しておこう。

理由、解釈
例 昨日は学校を休みました。頭が痛かったんです
  (デパートで泣いている子どもをみて)きっと迷子になったん だ
言い換え
例 明日は入社式だ。明日からは社会人なのだ
発見
例 (掲示板をみて)明日会議があるんだ
再認識
例 この道はよく渋滞するんだった
先触れ
例 先生、お話があるんです。お部屋に伺ってもよ ろしいでしょうか。
命令、認識強要
例 さっさと帰るんだ

 同書にはそれぞれの用法についての解説もあるので、詳しくは同書を参照されたい。

 もっと詳しく、理論的な研究に、野田春美『「の(だ)」の機能』(くろしお出版)がある。博士論文に加筆訂正したものだというので、読みやすくはない が、幸い、野田春美が執筆にくわわった日本語記述文法研究会編『現代日本語文法4 第8部モダリティ』(くろしお出版)(以下では『モダリティ』)に趣旨 がみごとにまとめられている。

 両書では、「のだ」をまず、否定などの「スコープ」を表すものと、説明の「モダリティ」を表すものに分類している。

 このうち、スコープの「の(だ)」については、「悲しいから泣いたんじゃありません」という用例をあげている。「悲しいから泣いた」という部分が「の」 (この場合には「ん」)でまとめられ、否定のスコープになって、「悲しいから」が否定の焦点になるという。翻訳という観点からは、野田のいう「否定のス コープ」が、たとえば部分否定の訳し方などで問題になる場合が少なくない。否定や疑問のスコープと焦点は文の論理性を支える重要な要素なので、いずれじっ くりと考えてみたい。以下では、もう1つの「説明のモダリティ」を表す「のだ」についてみていく。

 野田春美は「説明のモダリティ」の「のだ」を2つの軸で4種類に分類している。提示と把握、関係づけと非関係づけである。それぞれの用例は以下のように 示されている(『モダリティ』189〜207ページによる)。

提示・関連づけ
・ 私、明日は来ません。用事があるんです
把握・関連づけ
・ あいつ、来ないなあ。きっと用事があるんだ
提示・非関連づけ
・ スイッチを押すんだ
把握、非関連づけ
・ そうか、このスイッチを押すんだ

 このうち、「関連づけ」は「先行文脈や状況について、その事情などを提示・把握する」ものであり、「非関連づけ」は「事態をそのまま提示したり把握した りする」ものである。「提示」は話し手が認識していたことを聞き手に提示して認識させようとするときに用いられ、「認識」は「話し手自身が認識していな かったことを認識したときに用いられる」という。提示の「のだ」の関連づけの用法には、「事情の提示」と「換言の提示」があると指摘されている。

 なお、「のだ」は提示(理由や言い換え)、把握(発見)などを明確に表すのではなく、かといって言外に表すのでもなく、その中間あたりでそれとなく表す 表現であることに注目したい。

『ノルウェイの森』の用例
 以上を前提に、村上春樹著『ノルウェイの森』(講談社文庫)第一章の実例をみていこう。この章は空白行などで5つの部分に分かれている。それぞれを仮に 節と呼ぶなら、第1節は10段落で30行、第2節は1段落で10行、第3節は4段落で44行なので、第2節になって段落が急に長くなる。すぐに気づくの は、長い段落でいくつもの「のだ」が使われている場合が多いことだ。第1節では「のだ」は使われていない。第3節第1段落は9行の長い段落であり、ここで はじめて「のだ」が使われ、しかも何度も使われている。この段落をみてみよう。

 記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそ んな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきも しなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩い ていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべては ブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったの だ。おまけに僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持を向ける余裕なんてどこにもなかっ たのだ

 前述のように、翻訳という観点では「のだ」は強調表現だと感じられるだけで、それ以上に詳しく分析されることはまずない。だが、この1段落に8つある文 のうち、第4、第6、第8の3回も強調表現が使われているとすると、修飾過剰の幼稚な文章だということにならないだろうか。現代日本を代表する作家の代表 作なのだから、もっと丁寧に分析するべきだと思う。ではどうとらえるべきか。上記の「関係」「関連づけ」などの観点がおそらくヒントになる。

 まず、第4文の「のだ」について。この「のだ」が第3文までと第4文を関連づけているのは確かだろう。『モダリティ』の分類では「提示・関連づけ」、 『ハンドブック』の分類では「理由」にあたると思われる。前述のように、「のだ」は理由などの関連づけをあからさまにではなく示す表現だが、第4文の「の だ」を明確に表すのであれば、たとえばこうなるだろう。

なぜなら、正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうで もいいようなものだったからだ

 あるいは、第4文を第2文の前に移して、論理的な順序関係通りの順番にする方法もある。

 第6文の「のだ」はどうだろう。これも第5文を受けて、その「理由」を示していると考えることもできるだろうが、それより、第5文の内容を要約したと考 える方がいいと思える。『モダリティ』の分類では、「提示・関連づけ」のうち「換言の提示」にあたり、『ハンドブック』の分類では「言い換え」に近いとい えよう。英語流に結論をまず示すのであれば、第5文の前に移すのが適切だと思う。

 第8文の「のだ」も「理由」を表していると思うが、順序が第6文のものとは逆のようだ。第7文が第8文の理由だという関係になっていると思える。第8文 の「のだ」を明確に表すのであれば、たとえばこうなる。

だから、まわりの風景に気持を向ける余裕なんてどこにもな かった。

 あるいは、第7文の前に移動して、「なぜなら」などの接続詞でつなぐ方法もある。

 このようにみていくと、日本語では文末表現という目立たない形で、文と文の関係を示し、時間的な関係や論理的な関係を表現していることが分かるはずであ る。こうした構造はふだん、ほとんど意識されていないが、それでもいうならば無意識のうちに把握されている。日本語が母語である人ならだれでも、「わたし は少年だ」と「わたしは少年なのだ」の違いを言葉でうまく表現することはできないにしても、敏感に感じ取っている。だから、英語にどう訳すかを考えると何 らかの案が頭に浮かんでくるのである。

 今回調べた3つの「のだ」についていうなら、いずれの場合にも、「のだ」の英訳に接続詞が使えるという直感の正しさを示しているように思う。

 もうひとつの副詞で訳す方法については、第4節の第17段落から第18段落の冒頭にかけて、以下の部分をみていきたい。

「どうしてそんなことがわかるの?」
「私にはわかるのよ。ただわかる」直子は僕の手をしっかりと握ったままそう言った。そして しばらく黙って歩きつづけた。

 ここで使われている「の」と「のよ」は「のだ」とほぼ同じ機能をもっている。いずれも『モダリティ』の分類では「非関連づけ・提示」にあたるといえよ う。「すでに定まっているが聞き手は認識していない事態を提示し、認識させようとするときに用いられる」というのが『モダリティ』の解説である。
このように「非関連づけ」の「の」や「のよ」は、当然ながら接続詞で英訳するわけにはいかない。では何を使うかというと、副詞が適切だろう。

 以上のように、国文法と日本語文法の研究の成果を利用すると、翻訳という観点では強調表現の一種だと感じられるだけだった「のだ」に、英語の接続詞や副 詞に近い機能があることが裏付けられる可能性がみえてくる。

文末表現はどう英訳されているか
 今回、文末表現について調べて見ようと思ったのは、パラレル・コーパスが作りたくて、さまざまな翻訳書とその原著をコンピューターに入力していたとき だ。電子データになっていれば、たとえば「のだ」がどこで使われているかを簡単に探し出せる。とくに、日本語の小説を英訳した例で、「のだ」がどう訳され ているかが気になり、調べ始めた。

 結論からいうなら、強調構文で処理されていることはあるものの、「のだ」が伝える論理構造は無視されていることが多いように思えた。たとえば『ノルウェ イの森』の第1章第3節第1段落について、アルフレッド・バーンバウムとジェイ・ルービンによる2つの訳をみてみたが、「のだ」が訳されているようには思 えなかった。参考までにルービン訳をあげておこう(Norweigian Wood, translated by Jay Rubin, Vintage, 2000による)。

   Memory is a funny thing. When I was in the scene I hardly paid it any attention. I never stopped to think of it as something that would make a lasting impression, certainly never imagined that 18 years later I would recall it in such detail. I didn't give a damn about the scenery that day. I was thinking about myself. I was thinking about the beautiful girl walking next to me. I was thinking about the two of us together, and then about myself again. I was at that age, that time of life when every sight, every feeling, every thought came back, like a boomerang, to me. And worse, I was in love. Love with complications. Scenery was the last thing on my mind.

 ここで、I was at that age, that time of life whenの部分は強調になっているものの、前のセンテンスとの関係は明示されていない。あと2つの「のだ」も訳されていないように思える。英語が母語であ る読者が読めば、暗黙のうちに論理関係が示されていると感じとれるのであろうか。感じとれるとすればなぜなのかを追究するべきだが、おそらく、そうはなっ ていないのだと思う。日本語の文末表現は、文法理論がまだ十分には発達していないために、誰にとっても理解が難しい。英日の優れた翻訳者にとっても、理解 が難しいのだと思う。

 第4節の第17段落から第18段落の冒頭にかけてでも、「の」と「のよ」は無視されているように思える。ルービン訳は、じつに淡泊なのだ。

   "How can you be so sure?"
   "I just know," she said, increasing her grip on my hand and walking along in silence.


 日本語の文末表現が英日の優れた翻訳者にとっても理解が難しいことを示すように、もう少し理解がやさしいはずの文末表現も、バーンバウムとルービンの英 訳で無視されていると思える場合が多かった。いくつかの例をあげておこう。原文はいずれも『ノルウェイの森』の第1章であり、訳はいずれもルービンによ る。

第1節第5段落
スチュワーデスはにっこりと笑って行ってしまい、 音楽はビリー・ジョエルの曲に変った。
She smiled and left, and the music changed to a Billy Joel tune.

第1節第9段落
彼女はそう言って首を振り、席から立ちあがってとても素敵な笑顔を僕に向けてくれた
She stood and gave me a lovely smile.

第2節第1段落
十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕 はあの草原の風景をはっきりと思い出すことができる。
Eighteen years have gone by, and still I can bring back every detail of that day in the meadow.

歩きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた
As we ambled along, Naoko spoke to me of wells.

 このように、「〜してしまった」「〜してくれた」という文末表現は無視されている。「のだ」が無視されても不思議だとはいえない。

 文末表現をみごとに訳している英日翻訳があれば、英語の微妙な表現を知る手掛かりになるのだが、『ノルウェイの森』の2つの訳はそうなっていないよう だ。

 もっとも文末表現以外の部分では、上に引用した部分だけでも、じつに面白い点がある。もう一度引用しておこう。

第1節第9段落
彼女はそう言って首を振り、席から立ちあがってとても素 敵な笑顔を僕に向けてくれた。
She stood and gave me a lovely smile.

第3節第1段落
おまけに僕は恋をしていて、その恋はひどくややこ しい場所に僕を運びこんでいた。
And worse, I was in love. Love with complications.

 原文にある「とても」と「ひどく」という言葉は、どちらもveryと訳せるはずだが、ルービンの訳にはveryがみあたらない。無視されているように思 える。だが、以下の例もある。

第2章第23段落
それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだっ た。
This was one of the very first new impressions I received when I came to Tokyo for the first time.

 このように、原文に「とても」とか「非常に」とか書かれていないのに、訳文でveryが使われている例は少なくない。英語のveryがどのように使われ る語なのかを考えるときにヒントになりそうだ。

 以上では、文末表現という分野のうち、ごく一部を眺めただけだが、この分野に大きな可能性があることが理解いただけるはずである。とくに大きな点は、日 本語の論理性についての見方が変わる可能性があることだ。日本語は論理表現に弱いという見方があるが、日本語の論理性を支える仕組みを理解できていないた めの誤解にすぎないのかもしれない。日本語の論理表現力をもっと鍛えなければならないのは事実だとしても、まずは、日本語についての理解をもっと深めるべ きだ。文末表現はその際の対象の1つになると思う。

 英語の感情表現についても、もっと理解を深めることができるだろう。日本語の場合には文末表現によって書き手や話し手の感情を表現できるが、英語にはこ れにあたる文法範疇はない。このため、英語の感情表現は語彙、とくに副詞と形容詞が担っているように思える。翻訳の立場では、英語は感情を表現する副詞や 形容詞が多すぎると感じられることがある。これを文末表現で訳すことができれば、ずいぶん楽になるように思う。そのためには英語と日本語とで副詞や形容詞 がどう違うのかをもっと調べなければならない。大規模なパラレル・コーパスが完成すれば、分析が進むだろう。たとえば、英語と日本語で副詞の頻度が違うか どうかを調べるだけで面白い結果が得られるのではないかと思う。
(2011年1月号)