翻訳概論
山岡洋一

『ミル自伝』に学ぶ翻訳教育・翻訳学習の力

 
 ジョン・スチュアート・ミルはいうまでもなく、19世紀半ばのイギリスを代表する思想家であり、哲学の『論理学体系』『功利主義論』、経済学の『経済学 原理』、政治学の『自由論』『代議政治論』など、多彩な分野で優れた著作を残している。この時代の人には珍しく、学校教育を受けておらず、父親による英才 教育を受けたこともよく知られている。死後に出版された『ミル自伝』(村井章子訳、みすず書房)を読むと、このあたりの事情がよく分かる。

 学校に行かず、自宅で教育を受けたというと、父親は大金持ちか大権力者だったのだろうと思えるかもしれない。たとえば、お城に住む領主なら、自分の子供 を領民の子供たちと同じ学校に通わせるのではなく、城内で教育しようと考えても不思議ではない。一流の教師を雇い、家来の子供をご学友に選んで教育する。 そういう構図なら、昔話の世界の話ではあるものの、まあ理解しやすい。

 だが、ミルの父親、ジェームズ・ミルは大金持ちでも大権力者でもなかった。当時は新聞や雑誌に雑文を書いて、ようやく生活を支えていたというので、貧乏 というほどではなくても、生活が楽だったはずがない。だから、子供を自分で教育したのは、贅沢でも道楽でもないのである。

 ではなぜ、生活が楽とはいえない雑文書きの立場で、自分の子供をみずから教育しようとしたのか。『ミル自伝』を読むとよく分かるはずだが、この疑問を解 くカギは、ジェームズ・ミルがいまではあまり話題になることがなくなっているとはいえ、19世紀初めのイギリスではおそらく並ぶものがないと思えるほどの 大思想家であったことだ。しかも、フランス革命で揺れたこの時期に、無神論者で急進的な哲学者だったのだから、イギリスではまったくの少数派であった。そ こで、考えられるかぎり最高の教育を自分の子供に行って、みずからの哲学の正しさを示そうとしたのである。J.S.ミルはイギリスを代表する思想家になっ たのだから、父親の目的は少なくとも半ば達成されたといえるはずである。

 では、19世紀初めのイギリスを代表する大思想家が考えられるかぎり最高の教育を自分の息子にほどこすために、どのような方法を選んだのか。村井章子訳 の『ミル自伝』から、その部分を引用しよう。

 自身のことでは寸秒たりとも無駄にしない父のことだから、息子の教育でもそれを貫い たのはふしぎではない。私が三歳になると、さっそくギリシャ語を教え始めたという――もっとも私は覚えていないのだが。今思い出せるいちばん古い記憶は、 よく出てくる単語の綴りと意味をカードに書いた父の手製の単語帳を渡されて、一生懸命暗記したことである。文法はとりあえず名詞と動詞の語形変化だけを教 わり、それ以外のことは数年後に後回しにして、単語帳を終えるとすぐに訳読に移った。初めてギリシャ語で読んだのは『イソップ寓話集』である。これはおぼ ろげにしか覚えていない。次が『アナバシス』。こちらはもう少しはっきり覚えている。八歳でラテン語を始めるまでの間に、父に教わりながら、ギリシャ語の 散文をずいぶんたくさん読んだ。ヘロドトスの歴史を始めから終わりまで、クセノポンの『キュロスの教育』と『ソクラテスの思い出』、ディオゲネスの『哲学 者列伝』から数巻、ルキアノスの風刺対話をすこし、イソクラテスの『デモニコスに与う』と『ニコクレスに与う』等々。七歳の頃には、プラトンの『対話篇』 を読んでいる。……(前掲書、6〜7ページ)

 有名な話だが、注目されるのはたいてい、3歳でギリシャ語を学びはじめたことだ。驚くべき早期教育ではないか。だが、ここでは別の点に注目したい。ギリ シャ語を教科書で学んだのではなく、いきなり『イソップ寓話集』を読み、しかも、ただ読むだけではなく、訳読(翻訳)を行っていることだ。原文では、こう なっている。

... Of grammar, until some years later, I learnt no more than the inflexions of the nouns and verbs, but, after a course of vocables, proceeded at once to translation; and I faintly remember going through AEsop's Fables, the first Greek book which I read.

 単語を覚えて、つぎにtranslationを行ったというのである。父親のジェームズ・ミルはさまざまな教育方法のなかから最善のものとして、訳読を 選んでいるのだ。なぜなのか。残念なことに、『ミル自伝』にはその理由は書かれていない。だが、理由が書かれていないという点から分かることもある。 J.S.ミルはじつに周到な人だから、読者が疑問をもちそうな点はていねいに説明する。批判されそうな点では、あらかじめ反論している。そのミルが理由を 説明していないのは、訳読が当時、正統的な教育方法だったからだろう。

 いや、当時だけではない。はるかな昔からごく最近まで、訳読は教育の柱として使われてきた。日本でも、旧制中学、旧制高校で、そして戦後もしばらくの 間、訳読がごく普通に使われ、この『ミル自伝』が教材として使われることも少なくなかったという。ある年齢以上なら、訳読で教育を受けたことがある人は少 なくないはずだ。

 訳読とは何なのか。訳読とは要するに、学習目的の翻訳である。外国語で書かれた著作を読み、翻訳していくよう求める教育法が訳読なのである。翻訳を手段 とする教育の方法だといえる。この訳読法こそ、もっとも効率的な教育方法だとジェームズ・ミルは判断したし、この判断はJ.S.ミルにとって、説明する必 要がないほど自明のことだったのだ。『ミル自伝』を読むと、以上の点がよく理解できる。

 訳読は何を目的に行われるのだろうか。『ミル自伝』を読むと、父親がギリシャ語やラテン語の教育を目的としていたわけではないことは明らかだと思える。 外国語教育が目的ではなかったのだ。翻訳能力をつけることも目的にはしていない。外国語で書かれた著作を母語に訳していくのだから、直接には翻訳能力を高 める教育だと思えるかもしれないが、たぶん、父親も息子も翻訳能力が目的だとはまったく考えていなかったと思う。外国語力も翻訳能力も手段にすぎず、目的 ではありえなかったはずである。

 では何を目的にしていたのか。教材をみていくとヒントが得られる。哲学書と歴史書を中心に、科学書や文学など、じつに広い分野にわたっている。もちろ ん、これらをすべて訳読で学んだというわけではなく、読んで要約し、父親と議論するなどの方法もとったようだが、こうした学習の目的はおそらく、一般教養 というのがもっとも適切だろう。訳読は一般教養教育で重要な位置を占めていたのである。

 訳読という形の翻訳がどうして、一般教養教育の重要な手段になるのだろうか。訳読に似ている英文和訳と比較してみると、その理由が分かるかもしれない。 英文和訳ではたとえば「Are you a girl? あなたは少女ですか」のように、教材として作られた無意味な文を訳していく。外国語教育だけが目的だから、書かれている内容は重要ではない。 これに対して訳読では、読む価値がある著作を教材に使う。ミルの場合、『イソップ寓話集』や『アナバシス』をはじめ、一流の著作を使っている。書かれてい る内容がとても重要なものばかりだ。

 この違いはたぶん、決定的であり、この違いから訳読のさまざまな利点が生まれる。第1に、翻訳を行うことで、読書の場合とは比較にならないほど詳しく、 原著の内容が理解できる。一流の著作を教材に選べば、一流の著作の内容を詳しく理解できるのである。それだけでなく、その著作を理解するために必要な参考 文献なども読んでいけば、ひとつの分野をかなり理解できるようになるはずである。外国語を学ぶと同時に、優れた考え方や知識などを学ぶことができるのであ り、この点が英文和訳とはまったく違う。

 第2に、母語の執筆能力を高めることができる。原著の内容を母語で伝えるのが翻訳だから、翻訳とは何よりもまず執筆の作業である。したがって、翻訳の訓 練を積めば、母語での執筆能力を高めようという動機が生まれ、母語で書かれた文章をしっかりと読み、語彙を増やし、表現力を磨こうとするようになる。英文 和訳ではそうはいかない。英文和訳では訳し方が決まっており、訳語も決まっているので、母語での執筆能力を高めようと考える必要がない。逆に、英文和訳で 使う奇妙な言葉や表現を覚えて、母語での執筆が下手になりかねない。

 第3に、力が不足している部分がよくわかるので、学習を進めるきっかけになる。当然ながら、外国語の読解力が不足していれば、優れた翻訳はできない。翻 訳は原著の意味を母語で伝える作業なので、意味が分からなければ、訳文は書けない。また、意味が分かったと思って書いた訳文を読めば、じつは意味が分かっ ていなかったことに気づく場合もある。自分では気づかなくても、他の受講生に読んでもらって、意味の通じない部分を指摘してもらう方法もあるし、優れた教 師なら、そういう部分を鋭く指摘するはずである。そういう部分は、原文を読み違えている可能性が高いので、原文を読み直し、構文を解析し、語句の意味を調 べて、何とか理解しようとする。こうした努力を繰り返していけば、外国語の読解力が高まっていく。

 原文の意味がわからなかったとき、あるいは意味の通じない訳文になったとき、その原因は原文の読み違えだとはかぎらない。原文の内容を理解する力が不足 していた場合にもそうなる。たとえば、原文の内容を理解するには、何らかの事実や考え方など、原文に直接には書かれていないことを知っていなければならな い場合もあるし、原文の論理を充分に理解しなければならない場合もある。そのような場合には、知識を増やし、理解力を深める必要があることが分かる。ま た、母語の執筆力が不足しているために、原文の意味を充分に伝えられていない場合もある。その場合には上述のように、母語での執筆力を高めようと努力する きっかけになる。

 要するに、翻訳の場合には翻訳の過程で、あるいは訳文を検討する過程で、間違いや弱点に気づいて問題を是正するフィードバック・ループが形成される可能 性があるのである。フィードバック・ループがうまく形成されれば、学習が飛躍的に進む可能性がある。この点が翻訳を手段とする教育の最大の利点だろう。 フィードバック・ループでカギになるのは、原文の意味を訳文で伝えられているかどうかである。英文和訳は意味を伝えることを目的にしていないので、フィー ドバック・ループは形成されない。正解を与えられなければ、間違いに気づくことはできない。訳読であれば、正解を与える必要はない。自分で問題点に気づく か、受講者同士で問題点を指摘しあうことで、学習が進むようになる。

 このように、訳読は大きな潜在力をもっていると思うのだが、過去数十年に少なくとも日本ではあまり使われなくなってきた。なぜなのだろう。

 第1にいえるのは、訳読が受講者と教師の双方にかなりの負担になることである。受講者は猛勉強をしなければついていけないし、教師は受講者の訳文をすべ て読んで、適切な指摘と指導ができなければならない。そしてゆとり教育という言葉が使われるようになる以前から、日本の公教育はゆとりだらけになってい る。たとえていうなら、ネクタイはうんとゆるめ、だぶだぶのシャツの裾をだし、ズボンは腰骨より低い位置でとめて腹部を圧迫しないようにしているようなも のだ。公教育がそういうゆるゆるの姿勢になっているのだから、訳読が流行らなくなるのは当然である。

 だが、経済と社会をめぐる環境は厳しさを増している。「うるせーな」と舌打ちされるかもしれないが、こんな教育では国際競争に勝てないと苦言を呈したい 人は少なくないのではないだろうか。中国、韓国などのアジア各国はもちろん、アメリカなどの欧米各国でも、はるかにしっかりした教育を行い、国民がはるか に懸命に学んでいるようだ。もっと真剣に、必死に学ぶ環境を作らなければならないのであれば、はるか昔から効果が実証されている正統的な教育法、訳読を復 活させるべきではないだろうか。

 第2にいえるのは、訳読を指導できる教師が不足していることだ。いま、中学から大学までの教員は大部分、翻訳調が規範としての力をもっていた時期に教育 を受けている。訳読教育を受けていても、翻訳調に基づく訳読を行ったにすぎない。いまの時代にはこれでは訳読を指導できない。英文和訳のような翻訳しか指 導できないのであれば、訳読を行う意味がない。翻訳調がいまの時代に合わないことを感じている教員は多いだろうが、新しいスタイルの翻訳を理解している人 はまだ少ない。

 だが、翻訳者や翻訳学研究者なら、翻訳がいかにみずからの学習に役立ってきたかを実感しているはずだ。学習方法としての翻訳の力を知っているので、訳読 の指導にはうってつけである。こうした人材に目を向ければ、訳読を指導する教師になりうる人がそう少ないわけではない。

 訳読はミルの例から分かるように、外国語教育だけを目的とするものではない。自然科学、社会科学、人文科学のどの分野でも優れた教育方法になる。ミルの 早期教育を真似ることはないにしても、中学からは訳読を教育のひとつの柱にすることは可能なはずだ。大学になれば、専攻が何であれ、訳読が役立つ。生涯教 育であればもちろん、教師がいなくても、何人かの学習会で訳読を行うことができる(もちろん、教師がいればもっといいのだが)。これほど優れた教育・学習 方法を使わない手はないのではないだろうか。

(2010年3月)