翻訳講義
山岡洋一
『ミル自伝』を訳す (5)
今回はこれまでに皆さんの翻訳を読んで感じたことを話していきたいと思います。
じつのところ、大学生の皆さんに翻訳をしてもらって、それを材料に講義をするという方法は、当初から計画をしていたものではありません。いくつかの理由
があって、演習に近い方法はできれば避けようというの当初の計画でした。なぜそう考えていのか、なぜ当初の計画を変更したのかを話していきたいと思いま
す。
まず、翻訳演習であれば、受講生は1人が理想的であり、いくら多くても10人が限度だと思います。翻訳には決まった正解がないので、10人の翻訳家が同
じ原文を訳すと、10通りの訳ができ、そのすべてが正解だという場合もあります。演習の場合にはもちろん、どの受講生の翻訳にも改善すべき点、改善できる
点があるのが普通ですが、改善の方向は1人ずつ違っています。受講生が10人いれば、10通りの正解ができるようにする必要があります。ですから、人数が
数十人であれば、翻訳演習が成り立たなくなると考えるのが当然なのです。
それに、翻訳の演習では受講生の翻訳力を高めるという点で十分な効果をあげられないという問題もあります。翻訳の演習でできるのはたったひとつ、翻訳家
になりうる実力のある人を選ぶことだけだというのが、長年の経験で得た結論です。選ぶことはできるが、実力を高めるのは難しいと考えているのです。翻訳に
は外国語の原文を読む力、原文の意味を理解する力、母語を書く力といった総合力が必要です。それを週に1回程度の演習で高めるのは不可能に近いと思えま
す。それよりはたとえば、名訳をひたすら読むほうが、長い目でみて役に立つ可能性が高いと考えています。そう考えて、昨年の講義では主に名訳を読んできた
わけです。
ですが、昨年の講義が終わるころ、受講生に聞いてみたところ、名訳を読むだけでなく、翻訳をやってみたかったという人が何人かいました。もっともだと
思ったので、今回は最初に演習に近い形で授業を行ってみようと考えたわけです。まずは翻訳をしてもらい、その後は名訳を読んでもらおうと考えていたので
す。
第1回課題の訳文を読んで、正直なところ驚きました。ほんの少し手直しすれば出版できると思える訳があったのです。それでなぜ驚いたかというと、翻訳の
世界の常識では、20歳そこそこの年齢で翻訳ができるとは考えられていないからです。翻訳は普通、40歳ごろからというのが常識です。30代で活躍してい
る翻訳家もいますが、例外といえるほど珍しく、40代なら新人、50代になってようやく中堅というのが常識なのです。とくに出版翻訳では、年齢層が高く
なっています。ですから、20代前半の皆さんのなかに出版翻訳の水準に達しそうな人がいるというのは、衝撃だったのです。何人かの編集者や翻訳家にも読ん
でもらいましたが、皆、ほんとうに驚いていました。
落ちついて考えてみれば、たとえば小説なら、20代前半で優れた作品を書いた小説家は何人もいるわけですから、20代前半の翻訳家がいても何の不思議も
ないともいえます。中学高校から大学にかけての時期は、一生の間でいちばん本を読む時期ですし、20代前半ならもう完全な大人なのですから、優れた文章が
書ける人がいても、不思議ではないはずです。ですが、翻訳の世界の常識では、翻訳はかなり若い人でも30代半ばから、普通は40代からの仕事だとみられて
きたのです。たぶん、この常識を見直す必要があるのでしょう。
皆さんの訳文を読んでいて、なるほどと思える点がありました。翻訳調の重み、圧迫を感じていないようなのです。たぶん、いま40代半ば以上の世代の翻訳
者にとって、翻訳はいわゆる翻訳調で行うものだというのが常識になっていました。原文の単語や構文を決められた通りに訳していくのが常識になっていたので
す。原文の単語には一対一で訳語が対応し、原文の構文には一対一で訳文が対応するというのが常識になっていたのです。これが常識になっている一方で、翻訳
調ではいけないというのがここ十数年の常識にもなっています。このため、翻訳調をどう克服するかが、ほとんどの翻訳者にとって大きな課題になっていたので
す。ですから、翻訳調を習得するために苦労し、翻訳調を克服するために呻吟するという過程をたいていの翻訳者が経ています。皆さんはそういう重み、圧迫を
感じていないようです。
これは有利な点でもあり、同時に不利な点でもあります。まず不利だという理由をあげておきます。翻訳調はひとつの規範ですから、これを習得すれば誰でも
ある水準の翻訳ができるという利点がありました。とくに、翻訳調では原文の構文を間違いなく読み取ることが重要なので、原文の文法構造を把握して翻訳でき
るという利点がありました。翻訳は一筋縄ではいかず、構文を必死になって解析しているはずなのに、たとえばandやorなどの並列を間違えるといった問題
がたくさんありましたが、それでもある程度の水準には達することができました。不利な点というのは、この縛りがなくなっているために、原文をまったく読め
ていないのではないかと思えるような訳になりかねないことです。構文解析の重要性を何度も指摘してきたのは、この点がかなりの人にとって、大きな弱点に
なっていると感じたからです。
つぎに有利な点をあげておきましょう。たいていの翻訳者は、原文がこうであればこう訳さなければならないという決まりごとに縛られています。原文を読ん
だときにまず頭に浮かぶのは、翻訳調で決まりになっている訳語や訳文であり、つぎにこれを普通の日本語ではどう表現するだろうかと考えていきます。翻訳調
という束縛のない皆さんは、原文を読んで、すぐさま普通の日本語による表現を考えているように感じます。だからこそ、ベテランの翻訳家や編集者が仰天する
ような訳がでてくるのでしょう。
考えてみれば、時代が変わるとはこういうことなのだと思います。前の世代を苦しめていた束縛を端から受けていない若者が、新しい時代を切り開いていくの
だと。ですから今後、20代前半の翻訳者が活躍するようになっても、不思議ではないと感じています。そう感じられるようになった点が、わたしにとっては、
今回の講義で最大の成果でした。そこでいまでは、学生のなかから新しい翻訳家が生まれてこないかと期待して、演習に近い方法を続けているのです。
ですが、ひとつだけ皆さんにお断りしておかなければならない点があります。それは、現状では翻訳を職業にするのはかなり難しいという点です。翻訳家にな
ること自体はそれほど難しくはありません。やる気があり、ほんとうに実力があれば、つまり実績のある翻訳家と競争して勝てる実力があれば、出版社に紹介す
ることができます。来年にははじめての訳書が出版されるということも夢ではありません。ですが、それで生活できるほどの収入を確保するのは容易ではありま
せん。
たとえば文庫本を例にとります。定価が700円とします。通常の印税率は8%ですが、それより低い場合も少なくありません。8%としても1部当たり56
円、部数は多くて1万部から1万5000部ですから、1冊訳して得られる収入は56万円から84万円ですが、これでも多い方です。訳すのにどれだけの期間
がかかるかを考えれば、これでは職業になりうそうもないということがすぐに分かるはずです。
産業翻訳であれば、もう少し収入が多いという人が多いようですが、安定した収入を確保するのは並大抵ではないようです。もちろん、翻訳を職業にしている
人は少なくないのですが、そのためには自分の分野で、たいていはごく狭い分野で、発注者に高く評価されるようになっていなければなりません。たくさんの翻
訳者のなかで競争に勝ち抜き、実力を認めてもらえるようになっていなければなりません。
さきほどもいいましたが、翻訳に必要な力は総合力です。総合力を磨けば、翻訳に役立つだけでなく、他の仕事にも役立ちます。ですから、実力をつけてほし
い、ただし、実力を発揮する場は翻訳とはかぎらないと考えてほしいと願っています。翻訳で食べていくのは容易ではないことを承知のうえで、それでも翻訳に
取り組みたいというのであれば、まずは他の手段で生活を安定させるか、そうでなければ、競争に勝ち抜いてみせるという元気がほしいと思います。甘く考えて
はいけない、中途半端ではいけない、その点だけは忘れないようにしてほしいと思っています。
お知らせ
学生か大学院生で、古典の出版翻訳に取り組みたいと希望される方は山岡まで連絡ください。この通信の表紙に連絡先が書かれています。