古典翻訳の現状
 山岡洋一

読みやすく分かりやすい古典翻訳という愚

 
 まともな翻訳で古典を読みたいと思ったのは、もう数十年も前のことだ。偶然が重なって翻訳を職業にするようになると、自分で古典を訳したいと思うように なった。古典の翻訳について積極的に話し、書くようになったのはもう10年以上も前のことだが、当初は夢物語にすぎないというのが一般的な反応だった。実 現の可能性などないと考える理由はよく理解できたので、とくに落胆もしなかった。否定的な反応ばかりでも意気消沈しなかったのは、ひとつの思い込みがあっ たからだ。ひとりが考えることは、少なくとも何百人か何千人かが考えているに違いないという思い込みだ。そして、その何百人か何千人かのなかから、あらゆ る常識に逆らっても実行しようという人がでてくれば、賛同してくれる人が1%ぐらいはいるだろうという思い込みである。

 1%というといかにも少ないと思えるかもしれない。だが、出版の世界では、これはきわめて大きな数だ。出版翻訳は国際性がまったくなく、国内の読者だけ を対象にしているのだが、それでも潜在的な市場規模は1億3000万人に近い。その1%なら130万人弱だ、1%が賛同してくれて、その全員が本を買って くれれば、1年に1点あるかどうかというほどの大ヒットになる。実際に買ってもらえるのは1%のうちのさらに1%にすぎないとしても、実売部数が1万部を 超える。文句のつけようのないヒットだ。出版という世界は0.01%の人に買ってもらえれば成り立つほど、小さな事業を行っているのである。

 10年以上前、そんなことを考えていたときと比較すると、いまは状況が様変わりしている。21世紀になって、古典翻訳に取り組む出版社が急激に増えてい る。いまや、古典翻訳は注目を集める分野だと思えるほどになっている。

 だがそのなかで、気になる傾向もあらわれている。いちばん気になるのは、古典翻訳で「読みやすく分かりやすい翻訳」が合い言葉になっているように思える ことだ。古典というとこれまで、解読不可能と思えるような悪訳が多かったことを考えれば、「読みやすく分かりやすい翻訳」を求める読者が少なくないのは理 解できないわけではないが、そもそも古典とは、読みやすくも分かりやすくもないものなのではないだろうか。

 古典が難しいのは、著者が全身全霊を傾けて書いた本だからだ。読者におもねらず、受けを狙わず、誰が何といおうと、これだけは書いておきたいと思って書 いた本だからだ。だからこそ、何世代にもわたって、ときには何十世代にもわたって読み継がれてきた。だから、古典は鯣(するめ)のようだと思う。簡単には 歯が立たない。顎の筋肉が疲れ、歯が悲鳴をあげるほど噛みつづけてようやく、味がでてくる。それが嫌なら、鯣を選ぶことはない。冷や奴あたりを肴にすれば いい。

 読みやすく分かりやすい本がお望みなら、古典などを選ぶことはない。タレントまがいの「著者」がしゃべりちらした内容に、何十回目かの使い回しを付け足 して、どこかのライターが読みやすく分かりやすく書いた本、そういう本がいくらでもある。読者は馬鹿だし、頭を使うのを嫌うから、この程度のことを書いて おけば十分だと考えて作られた本がいくらでもある。そんな本が「渾身の力作」という宣伝文句で売られていたりするのだから、読者はよほど見くびられている というべきだろう。意地も矜持もなく、自負心や自尊心なんぞ、かけらもないと思われているのだろう。

 馬鹿な読者には馬鹿な本を買わせるにかぎるといわんばかりの新刊書に飽き飽きしたのなら、古典を読むのもひとつの方法だ。いま、古典が小さなブームに なっているのは、そういう背景があるからだろう。世の中はうまくできている。ひとつの流れが極端になれば、逆の性格をもった流れがあらわれる。この新たな 流れは主流に対する傍流なのだから、当初は小さくていい。主流との性格の違いがはっきりしていれば、小さくてもたしかなニッチ市場を確保できるだろう。そ して、当初は隙間を狙う小さな動きでしかなかったものが、やがて主流になる例だって、世の中にはいくらでもあるのだ。

 カギは性格の違いをはっきりさせることにある。出版業界でいまの主流な何かというと、まさに「読みやすく分かりやすい本」ではないか。古典はこの主流で できた隙間を埋めるニッチ分野だ。だとしたら、いまの主流におもねることはない。「読みやすく分かりやすい古典」というのはまさに主流におもねる見方だ。 これではうまくいかない。うまくいくはずがない。古典は読みやすくも分かりやすくもない、難しいからこそ味があり、読みがいがあると真っ正面から主張する べきなのだと思う。これが事実なのだから、事実をしっかりと読者に伝えるべきだ。

 まともな翻訳で古典を読みたいというのが出発点ではないのか、昔の読みにくい翻訳でいいのかという質問がでてくるだろうか。では説明しよう。

 1冊の本を訳すのは、山を歩くのに似ている。とんでもなくきびしい山もあれば、峠道を歩く程度のこともある。はじめての分野の難しい本であれば、道なき 道を行くことになるし、やさしく書かれた本で、同じ著者の本を何度か訳していたのであれば、よく整備された峠道を鼻歌まじりで散歩するような場合もあるだ ろう。難易度はさまざまだが、翻訳の上り坂はふつうの山と違って、はじめがけわしい。富士山の胸突き八丁のような難所がはじめにある。とくに難しい場合に は、ロック・クライミングのように一歩ずつ、足下を確かめながら進んでいくしかない。よく知っているはずの語でも、何度も辞書を引いて訳語を考える。手に 入るかぎりの資料を時間が許すかぎり読んで、ヒントを探す。そうやって、おそるおそる進んでいく。いつになったらこの本の翻訳が終わるのだろうかと不安に なる。この難所をすぎると傾斜が緩やかになる。翻訳のペースが少しずつ上がってくる。やがて平坦になり、下り坂になる。ときには、辞書も資料も不要に思え て、超特急で下り坂を駆け抜けられるようになることもある。そのとき、翻訳者は訳者ではなくなる。著者になりきっている。原著者が乗り移ってきたというべ きか、原著者に乗り移ったというべきかは分からないが、原著者が読者に伝えようとしたことがすべて理解できるように思えて、適切な言葉が苦労なく浮かんで くるようになる。

 翻訳者個人の道のりもこれに似ている。誰でも、はじめて翻訳に取り組んだときは、ロック・クライミングのように、こわごわだったはずである。やがて、翻 訳が少しずつ楽になり、ペースもあがるようになったのではないだろうか。いつも下り坂を下りるように、楽に翻訳ができるようになるのかどうかはまだ分から ない。個人の場合には、記憶力の衰えや体力の衰えといった別の問題がからんでくるからだが、知っているかぎりでは、翻訳者の盛りは普通の職業では引退の時 期になってからである。

 個体発生が系統発生を繰り返すように、翻訳者が経験する変化は、日本の翻訳の歴史にもあるのではないだろうか。ロック・クライミングのようであった時代 があり、苦しい上り坂だった時代があり、平坦な道に近くなった時代があるのだと思える。いまの時代の翻訳者は、幕末維新の時代から150年ほどにわたっ て、先人が苦労して切り開いてきた道を歩いているのだから、以前とは時代が違うのは確かだ。

 ところが古典の翻訳ではとくに、ロック・クライミングのようであった時代に確立されたスタイルが色濃く残っている。原文の語や句にそれぞれ決まった訳語 をあてはめ、一対一対応で訳していく方法、原文の構文のそれぞれを決まった訳し方で訳していく方法がとられている。いわゆる翻訳調だ。まずはこの翻訳調か ら脱却して、普通の日本語で訳す時期がきているのではないだろうか。

 翻訳調になぜ問題があるのかという意見もあるだろうが、実際には無視できない問題がある。本来、楽しむために読む小説が楽しめなくなっているという問題 もあるが、それ以上に大きな点として、翻訳調が論理を伝えるのに適していない可能性がある。

 翻訳調は本来、原著を読む読者のための参考資料になるように訳すという性格をもっていた。だから、原文を読むためという観点でみれば、翻訳調の優れた訳 文には一貫性がある。だが、原著を読むための参考資料として訳書を読む読者がほとんどいなくなった現在、訳文の質は日本語の文章として、単独で読むという 観点で判断するしかない。この観点で判断したとき、翻訳調ではたして原文の論理を伝えられるのか、疑問だと思えるのである。英文和訳にみられるような翻訳 調が、原文の情緒や感情を伝えるのに適していると考える人はそう多くないと思うが、論理を伝えるには翻訳調がいいと考えている人は多いのではないだろう か。だが論理的なはずの翻訳調が支離滅裂ではないかと思えることも少なくない。

 だから、昔ながらの翻訳調の翻訳はいまでは受け入れがたい。新しい翻訳が必要になっている。翻訳調の翻訳によって切り開かれてきた道をもっとうまく利用 して、日本語で原著の論理を伝えるようにしなければならない。

 要するに、いま、古典を訳し直すべきだと考えるのは、既存の訳が「読みにくく分かりにくい」からではないのだ。古典は難しい。だから、古典の翻訳にあ たっては、原文の難しさをしっかりと伝えるようにしなければならない。これが当然のことだ。したがって、古典の翻訳を評価する際に、「読みやすく分かりや すい」かどうかが基準になるはずがない。基準はまったく違う。少なくとも論理を扱う本では、原文の論理を日本語で伝えられているかどうかがもっとも重要な 基準になるはずだ。日本語として読んだときに(つまり、原著を読むための参考資料としてではなく、訳書だけを読んだとき)、原文の論理がしっかりと理解で きるようになっているかどうかが、もっとも重要な基準になるはずだ。原文が読みにくければ、訳文も読みにくくなる。原文が分かりにくければ、訳文も分かり にくくなる。それでも、しっかり読めばしっかり理解できる、そういう訳文になっているかどうかが、何よりも重要なはずだ。

 具体的にどういう翻訳にすべきなのかに関しては、技術的な問題をいくつも考える必要がある。また、論理を伝えるのに適した新しい文体が必要になっている とも思える。しかし、じつのところ、まずは翻訳にあたっての姿勢が重要なのではないかと思う。ロック・クライミングのように一歩ずつ、足下を確かめながら 訳していくのではなく、著者になりきって訳していく姿勢である。原著者になりきって、原著者が読者に伝えようとしたことを素直に伝えようとする姿勢であ る。つまり、下り坂を下りていくときの姿勢である。

 この姿勢で古典を訳すのがじつはきわめて危険であることも、心得ておかなければならない。訳者は原著者になりきっているとき、原著の一語一句を慎重に確 認したりはしない。原文を読んで自然に頭に浮かんでくる文章をひたすら入力していく。こういう状態になれば、日本語としての質の高い訳文ができることが多 いが、同時に、思い込みが激しくなる危険がある。語句の解釈を間違えたり、語句や文、ときには段落まで飛ばして訳したりもする。一種の陶酔状態になって訳 しているので、荒い訳になる危険があるのだ。

 翻訳者はある程度熟練してくれば、このような危険を十分に認識しているはずなので、翻訳が終わった後に、慎重に見なおしをする。抜けや間違いを修正して いく。だが、思い込みというのは恐ろしいもので、いくら慎重に見なおしても、翻訳者本人が気づく点にはかならず限度がある。誰でも、どんなことでも、自分 の間違いにはなかなか気づかないものなのだ。

 そこで重要になるのが編集者と校正者だ。第三者の冷静な目で、はじめての読者という立場で、訳文を慎重に検討すれば、抜けや間違いを指摘するのはそう難 しくない。古典の翻訳ではとくにそうだ。古典というからには、定評のある既訳があるはずだからだ。そして、古典のように難しい本を訳すときには、優秀で熱 心な編集者や校正者と組めるかどうかが、翻訳者にとって決定的な意味をもっている。翻訳というのは個人技だと思えるかもしれないが、実際にはチームで取り 組む仕事なのである。

 じつは、「読みやすく分かりやすい翻訳」という見方がいちばん危険なのは、この段階だともいえる。編集者や校正者が読みやすさと分かりやすさにばかり気 をとられていると、原文の段落が長すぎるからここらで切ろうとか、理解が難しい言葉や文章をやさしくしようとかにばかり関心を向けるようになる。翻訳の質 を高めることにはそれほど注意しなくなる。これではうまくいかない。

 21世紀にふわさしい古典翻訳、質の高い古典翻訳のためには、編集者、校正者、翻訳者の連携が重要だと思う。そして、古典の翻訳書がちょっとしたブーム になっているといっても、潜在的な読者のうち、1%にも満たない数の読者を獲得できているにすぎないことを忘れてはならない。古典の分野で未曾有の大ヒッ トでも、0.1%から0.2%の読者に買ってもらえるにすぎない。古典翻訳はいまのところ、少数派のなかの少数派の支持に支えられているのだ。この支持が さらに強固になるように努力していけば、いつか、支持者が増えて、多数派になる可能性だってないわけではないのだ。それには古典の強みを強調するべきだ。 翻訳でどれほど工夫しても、読みやすさや分かりやすさで勝負するのであれば、古典に勝ち目はない。勝ち目がないところで競い合うことはない。古典には、昨 日今日書かれた本にはない良さがあるのだ。勝負するなら、いちばん強みがある部分で勝負したい。「読みやすく分かりやすい古典翻訳」などというのは、愚の 骨頂ではないだろうか。

(2008年7月号)