翻訳講義 (1)
山岡洋一

翻訳 と学習

 
 翻訳を学ぶにあたって、これだけはしっかりと理解してほしいと思う点があります。それは、英文和訳と翻訳は違うという点です。

 英文和訳は、皆さんが中学と高校のときに学んできたものです。とくに大学受験用に学んだ方法は、高度に合理化されているので、英文和訳というものの性格 がじつによくでていると思います。翻訳という観点からみると、大学入試の問題はなんと大変なのだろうと思います。ごく短時間に辞書もなく、参考資料もない 状態で大量の問題を解かなければならない。だから、英文和訳の回答を書くときにじっくり時間をとって原文の意味を考えるなどということはできません。あっ という間に訳せなければならないのです。そこで受験英語では、単語や連語の訳し方を一対一対応で覚え、構文の解釈の仕方と訳し方を一対一対応で覚えて、機 械的に訳していきます。意味が分からなくても、機械的に訳せるようにするのです。たとえば、heと書かれていれば、このheは誰かなどと余分なことを考え ることなく、「彼」と訳し、as soon as ...と書かれていれば、何を表現しようとしているのかなどとは考えずに、「〜するやいなや」と訳します。英文和訳の特徴はこの点にあります。

 受験英語というと悪の象徴のように感じ、教育をゆがめるものだと思う人も少なくないでしょうが、受験英語の英文和訳でこのような教え方がとられているの は、それなりに理由があるからです。直接の理由は、大学がそのような問題を入試にだし、そのような答えを求めていることです。受験教育が悪だというのであ れば、非難すべきはそういう問題をだし、そういう回答をした受験生を合格にする大学であって、大学が求めるように教育している側ではないはずです。問うべ きは、大学がどういう能力のある人材を求めているのかのはずなのです。

 英文和訳についていうなら、大学は単語や連語を一対一対応で訳し、構文をしっかりとつかんで一対一対応で訳す能力を学生に求めています。なぜこのような 能力を求めているのでしょうか。この問いに答えるには、明治の初めに欧米の進んだ技術や知識を翻訳して学ぶ方法を採用したこと、そして、明治の半ばに翻訳 の効率をあげるために、単語や連語、構文を一対一対応で訳す方法を採用したことをみていかなければなりません。この点については以前に論じたことがあるの で、くわしくは話しませんが、受験勉強のときに教えられた英文和訳の方法が、じつは20世紀初めから半ばすぎまで、後進国日本が欧米においつくためにとら れれた翻訳方法に基づいているのです。ですから、受験英語の英文和訳の方法は、実際には時代の要請にぴったりあっていたのです。ただし、20世紀初めから 半ばすぎまでの時代の要請です。21世紀の時代の要請には……、いわずもがなではないでしょうか。

 ですから、英文和訳と翻訳は違うという点はじつは、一昔前の翻訳といまの翻訳は違うと言い換えることもできます。一昔前の翻訳の特徴をよく示しているの が、中学高校で教えられ、とくに大学受験用に教えられる英文和訳なのです。

学習としての翻訳

 翻訳とは何かという問いには、さまざまな答えがありうると思いますが、ひとつの答えは、言語を共通項とする共同体としての民族が他の民族から優れた知識 や技術、考え方、感情、情報などを学ぶために、外国語で書かれた本や文書を母語で読めるようにすることだというものです。今回のテーマとの関連で重要なの は、翻訳が学ぶための方法のひとつだという点です。翻訳とはそもそも学習のためのものなのです。

 翻訳は学習のためのものです。ですから、翻訳者は、学習が仕事であり、仕事が学習になるという有利な立場にあります。翻訳を行えば、誰よりも先に、そし て誰よりも深く、細かく、学ぶことができます。翻訳とは、言語を共通項とする共同体としての民族を代表して、他の民族から優れた知識や技術、考え方、感 情、情報などを学び、学んだ内容を母語で伝える仕事です。意義深く、誇り高い仕事です。

 ですが、そのためには、重要な条件を満たしていなければなりません。どういう条件かというと、機械的に訳すようであってはならないということです。受験 英語では、単語や連語の訳し方を一対一対応で覚え、構文の解釈の仕方と訳し方を一対一対応で覚えて、機械的に訳せるようにします。意味を深く考えなくて も、機械的に訳せるようにする。これが受験英語の英文和訳の粋です。この方法で訳していると、原文の内容を誰よりもよく理解しているという自信がもてるは ずがありません。翻訳の仕事が、それほどには学習にならなくなります。

 学習が仕事であり、仕事が学習になる、そういう有利な立場に立つためには、そして、意義深く、誇り高い仕事をしていると思えるようにするには、英文和訳 と翻訳の違いをしっかりと確認しなければなりません。

 英文和訳と翻訳でどこが違うのかは、今後、課題文を訳していくなかで、具体的に考えていきます。ここでは、原則を示しておきます。英文和訳では、単語や 連語、構文などを決まった訳し方を使って、一対一対応で訳していくのに対して、翻訳では、原文を読み、調べ、理解し、理解した結果を日本語で書いていきま す。

 ここでカギになるのは、理解です。原文の意味を理解するという点が、翻訳と英文和訳の最大の違いです。翻訳では、理解していないことは書かない、理解で きるまで調べ、考えてから書くという点が決定的に重要です。

 ですがおそらく、典型的な英文和訳の方法で訳した場合にも、原文の意味を理解しないまま訳したとは自覚していないのが普通でしょう。原文を読んだときに 意味がよく分からないと思えた部分でも、そこで使われている語の訳語が分かり、訳文が分かれば、それで安心するのが普通です。訳語や訳文が分かっても、じ つのところ、意味はほとんど分かっていないのですが、この点を自覚できるようにすることが、翻訳への道の第一歩になります。じつに難しい第一歩です。具体 例にぶつかって実感する以外にこの第一歩を踏み出す方法はないのかもしれませんが、今回は一般論を述べておくに止めます。

 以上では翻訳が学習の方法のひとつであることを説明してきました。つぎに翻訳の学習の方法を紹介していきます。

翻訳の学習

 翻訳という仕事では、年季が重要です。何年も努力してようやく一人前になれるのが普通です。年齢でいうなら、20歳代で翻訳を仕事にできる人はそう多く ありません。出版翻訳では40歳ならまだ若手、50歳でようやく中堅といったところでしょうか。ですから、週に1回の講義を聞き、何度か課題を訳しただけ で、翻訳ができるようになるとは考えられません。少なくとも、商品になる翻訳はできないと考えておくべきです。

 そこでここでは、長い期間にわたって使える翻訳学習の原則を紹介していきます。長い年月をかけて、基礎的な実力を高めていく方法です。楽しみながら学べ る方法も紹介します。学習という目的がなくても、趣味になりうる楽しい方法もあります。

 翻訳の学習というと、まず頭に浮かぶのは、大学や大学院、翻訳学校で学ぶ方法かもしれません。以下で紹介するのは、基本的に独学の方法です。何人かの仲 間で学習する際にも使えるでしょうが、その際にも教師を必要としない方法です。なぜこのような方法を紹介するかというと、よほど優れた教師がいないかぎ り、大学や大学院、翻訳学校に通っても、翻訳はうまくならないと思うからです。大学院であれば、しっかりと調査すれば、優れた教師がいる大学院を探し出せ るでしょうし、それ以上に重要な点として、就職に有利になる場合が多いでしょう。翻訳学校の場合は、就職の手段にならないのが普通なので、よほど優れた翻 訳家に学べるのでないかぎり、高い授業料を支払う意味はないように思います。それに、大学院や翻訳学校に通うとしても、実力をつけなければ意味がないの で、そのための方法を以下で述べていきます。

 まず翻訳にかぎらず、どの分野の学習にも使える一般原則を紹介します。わたしたちの年代では、このようなことは、教師に教えられるのではなく、先輩だと か、同学年でも自分より1日か2日前に学んだ人に教えられるのが普通でした。いわば常識だったわけですが、いまはどうなのでしょう。

 どんな分野でも、学習の最大の秘訣は一流のものをしっかりとみることです。スポーツや芸術ではこれが完全な常識になっていて、うまくなりたい人はみな、 一流のものをしっかりみています。音楽ならしっかり聞いています。たとえば地区予選の1回戦に勝てれば大喜びするような野球チームの選手でも、プロ野球や 大リーグの試合を必死にみています。翻訳なら、一流の本を読むのが基本になります。日本語力を磨きたければ、一流の著者が書いた一流の本を読む。英語力を 磨きたければ、英米の一流の著者が書いた一流の本を読む。これは学習であると同時に、趣味にもなります。つらくても苦しくても読むのではなく、おもしろい から、好きだから読むのが普通でしょう。

 本を読むときは全集を読めとよくいわれたものです。好きな著者の本は代表作だけでなく、すべて読めというわけです。いま、古書店街に行くと、全集がとて も安く売られています。近くに古書店街がなければインターネットで買うこともできます。好きな著者の全集を買って、つぎつぎに読んでいけば、うんと楽しめ るうえ、知らず知らずのうちに学べることがたくさんあるはずです。

 一流のものを朗読するのもいい方法です。黙読ではなかなかわからない文章のリズムが身につくはずです。

 もうひとつ、一流のものを原稿用紙に書き写せとよくいわれたものです。いまでは原稿用紙を使うことはめったにないので、パソコンで入力することになるで しょうが、この方法を使うと、読んだだけでは気づかなかった点にいくつも気づくはずです。日本語の本の場合なら、たとえば、漢字を使っているか、平仮名を 使っているか、どのような漢字を使っているか、句読点などの記号をどう使っているか、といった点です。また、読んでいるときは、1ページにいくつか知らな い言葉があっても、難なく読んでしまいますが、書き写すか、入力するのであればそうはいかないので、しっかりと確認することができます。

 以上はどの分野にも通用する原則ですが、翻訳に的を絞るなら、方法が少し変わります。翻訳というからには原著と訳書があるからです。いまでは原著を買う のが容易になっていますし、ペーパーバックならたぶん、日本語の訳書より安く買えます。2000円から3000円もだせば、原著と訳書を組み合わせて買え ることが多いのではないでしょうか。まず訳書を読み、つぎに原著を読み、これはもちろん逆の順番でもいいのですが、両方を読みおわったら、今度は原著と訳 書を並べて、1パラグラフごとに比較して読んでいきます。

 名訳をうまく選ぶことが条件になりますが、原著と訳書を比較しながら読んでいくと、これはもう最高の趣味になります。なるほど、こんな訳がありうるのか とか、原文の意味はこうだったのかとか、感嘆する点がつぎつぎにでてきて、飽きることがありません。一流の翻訳家をうまく選ぶのがコツです。では誰がいい かということになると、意見の違いがあるのでしょうが、個人的に推奨するのは、吉田健一、村上博基、土屋政雄、上田公子、小尾芙佐、芝山幹郎といった人た ちです。

 翻訳学習の方法としては、よく翻訳学校などで添削を受けるのがいいという人がいますが、正直なところ、疑問だと思います。ほんとうに優れた翻訳家の添削 を受けられればいいのですが、それほど優れた翻訳家ではない人の添削を受ければ、逆効果にすらなりかねません。ですから、添削を受けるのなら、ほんとうに 一流の翻訳家か文章家に添削してもらうべきです。そんな機会はめったいないと思えるかもしれませんが、じつはあるのです。それもほとんど無料に近いほど安 い費用で、いくらでも添削を受けることができます。

 どうすればいいのかというと、一流の翻訳家による訳書とその原著の組み合わせを使い、英語の方だけをみて自分で訳し、ある程度の長さを訳したところで、 日本語の方をみて、自分で添削をしていきます。英語の原著を訳して、名翻訳家の訳文と比較する方法もありますが、もうひとつ、日本の作家が書いた本の英訳 を使う方法もあります。和英の方向の翻訳を学べといいたいのではありません。一流の翻訳家が英訳した本を教材にして、英和の方向に翻訳して、日本語の原著 と比較してみるのです。この方法で学べる点は少なくないはずです。

 いずれにしろ、何かを学ぶとき、一流のものを真似るのが第一歩であることを確認しておくといいでしょう。一流のものを真似るのが、どの分野でも上達のコ ツであり、翻訳でも例外ではありません。一流のものを真似るときはまず、形から真似ます。ほんとうに一流だと思える人に出会うことができれば、たぶん、無 意識のうちに真似ることになるはずです。翻訳の場合には、とくに出版翻訳の場合には、訳書という形で一流の翻訳家が自分のすべてを示しているので、文字通 りの意味でお会いする機会がなくても、訳書と原著を読んでいけばいいのです。だから、過去の名翻訳家からでも学ぶことができます。

データベース作成

 わたしたちの年代が学生のころに先輩から教えられた方法をもうひとつだけ紹介します。それは個人でデータベースを作成する方法です。

 当時はコンピューターがきわめて高価だったので、実際に教えられたのはデータベース作成ではなく、カードを作っていく方法です。京大式カードというもの がありました。A5より少し小さいカ−ドで、何本かの横線が入っているだけです。翻訳の場合なら、たとえば一流の翻訳家による訳書とその原著を比較しなが ら読んでいくとき、これはすばらしいとか、役立ちそうだとか思えた部分があったとき、カードに記録していきます。たとえば見出し語を書き、用例を書き、訳 を書いていきます。

 こうやってカードを作っていったとき、何千枚かカードがたまると、翻訳で困ったときに何か役立つことがないかと思って、カードをみていきます。すると、 ほとんどの場合、カードには覚えていることしか書かれておらず、役に立たないと思えてきます。しかし、そこで気づくのですが、カードが数千枚の段階には、 そこに書いたことをみな覚えているという点が重要なのです。カードに訳語や用例などを書き込んだときに、覚えてしまうわけです。これがどれほど役に立つか はいうまでもないはずです。カードが何万枚かになると、忘れていまったことも記録されているので、カードをみると思わぬ発見があるということもでてきま す。

 パソコンが普及しはじめたころ、カードのデータをパソコンに入力したいという人が少なくなかったためでしょうが、カード型のデータベース・ソフトが何種 類もありました。いまでは時代が変わって、はじめからパソコンでデータベースを作る人が大部分になっているので、とくにカード型と銘打つことは少なくなり ました。ですが、同じことはたとえば、エクセルなどのソフトを使ってできるようになっています。

 仕事と学習のなかで作成したデータベースを2つ紹介します。第1は、インターネットで公開している翻訳訳語辞典(http: //www.dictjuggler.net/)です。これは名訳と原著から辞書にない訳語を集めて作ったデータベースです。第2は、経済・金融関係の仕 事のなかでぶつかった連語や用例を集めた『経済・金融英和実用辞典』です。これは10年以上前に日経BP社から出版されたものです。実際にはアクセスとい うデータベース・ソフトを使って作成したのですが、ここではエクセルでその一部を示します。下の左が翻訳訳語辞典のもとになったデータベース、下の右が 『経済・金融英和実用辞典』のもとになったデータベースです。

 このようにデータベースを作っていくのも、学習の方法として役立ちますし、ノウハウを蓄積して翻訳の質を高めていく一助になります。

 以上では一般的に使える学習方法を紹介しました。どの分野の翻訳を行うのか、何を目的にするのか、現在の実力がどの程度なのかなど、各人の状況によっ て、具体的な学習方法は違ってくるでしょう。その点については、いずれ取り上げる機会もあると思います。

翻訳訳語辞典データベース経済・金融辞典データベース