翻訳講義(第2回)
山岡洋一

名訳を読む


  前回は主に、ひとつの原著を訳した複数の翻訳を比較する方法を紹介しました。この方法を使うと、翻訳がいかに多種多様かが分かり、翻訳の面 白さが分かるはずです。しかし、この方法には限界もあることもお話しました。最大の問題は、複数の翻訳がでている本がそう多くなく、普通は古典と呼ばれて いるものだけであることです。もっと新しい本で翻訳について考えてみたい場合には、この方法は使えないのです。

 そこで今回はもっと新しい本で翻訳の面白さを考える方法を紹介します。それは、一流のものを見る方法、一流の翻訳家が訳した本と原著を比較していく方法 です。

 これはどんな仕事でも使える方法、というよりも、どんな仕事でも使わなければならない方法を翻訳に応用したものです。少々脱線になりますが、一流のもの を見る方法について、少しお話しておきます。皆さんが卒業して仕事をはじめたとき、一流のものを見ることをいつも心掛けておくと役立つはずです。仕事は選 ぶものではありません。選べるのは趣味であって、仕事ではないのです。仕事というからには、選ぶものでなく、選ばれるもの、あるいは選んでもらえるように するものです。仕事は選ばれるものだから、社会人として働くようになると、どのような仕事を任されるかは分かりません。もちろん、自分の希望する仕事を任 せてもらえることもあり、そうなれば幸運ですが、まったく考えてもいなかった仕事を割り当てられることもあります。何をどうすればいいのか分からないと、 困惑することもあるでしょう。そういうときにどうすればいいのか。答えはこうです。一流のものを探して、それを真似るようにする。これがコツです。

 じつのところ、誰でも自然に一流のものを見て真似る方法はとっています。いちばん分かりやすい例はたぶん、スポーツでしょう。上達したい人はかならず一 流のものを見ています。テニスがもっとうまくなりたいと考える人なら、ウィンブルドンの中継を見ているはずです。たいていの人にとってスポーツは趣味で あって仕事ではありませんが、趣味ですらそうしている。仕事ならましてそうすべきです。

 では、翻訳でこの方法をどう使うか、具体例をみていきましょう。以下で何人かの一流の翻訳家の作品をみていきます。いわゆるエンターテインメントの分野 の翻訳家を中心に取り上げますが、その理由は簡単です。いまの日本で一流の翻訳家と呼べる人の数がいちばん多いのがこの分野なのです。たぶん、純文学やノ ンフィクション、社会科学、自然科学などの分野とくらべて、専業の翻訳家、つまり翻訳家以外に肩書をもたない人の数がもっとも多く、したがって、競争がい ちばん激しいのがこの分野だからでしょう。

 各翻訳家の代表作と思われるものの冒頭部分を紹介していきます。なぜ冒頭部分なのかと思われるかもしれませんが、文章は本来、前後との関係があってはじ めて成り立つものです。前があり、後ろがあってこそ理解できるものなのです。全文をみていくわけにはいかない場合、少なくとも前がない冒頭部分を見るのが いちばん良いと考えられます。

 前置きはこの程度にして、まずは『不思議の国のアリス』でも紹介した矢川澄子の翻訳を見てみましょう。
4ページ以下の資料の1と2をみてください。

 矢川澄子は2002年に惜しくも亡くなっていますが、現代の日本を代表する翻訳家のひとりであることは確かだと思います。何よりも美しい日本語を書く翻 訳家です。前回に紹介した『不思議の国のアリス』の例をみても、ここにあげた2つの例をみても、この点はあきらかでしょう。

資料2の『雪のひとひら』は原作がとうに絶版になっているのに、日本では矢川訳が売れつづけて います。女の一生を童話風に描いていますから、時代を超えた 魅力がある作品だと思いますが、日本で読みつがれているのは、何よりも訳文が美しいからだと思います。前回に矢川訳の特徴として、朗読に適した文章である 点をあげましたが、『雪のひとひら』もまさにそういう文章になっています。

 原文は平易な英語なので、たとえば高校で英語を学ぶときや、大人になって英語を再学習する際に、恰好の教材になるようにも思います。英語を学ぶときに訳 文として示されるのが、ほとんどの場合、日本語とはとてもいえないような惨めな文章であるのは不幸なことです。外国語を学ぶときにこそ、美しい日本語が必 要なのだと思います。そういう意味で、矢川訳は英語の教材としても最適かもしれません。

 矢川澄子は小説家としてもすぐれた作品をのこした人だから、翻訳が優れているのは当然だという意見もあります。しかし、有名な作家や名文家が翻訳では悲 惨な文章になる例はたくさんあります。その方が多いといえるほどです。翻訳になると、美しい日本語を書けなくなり、あるいは論理的な日本語を書けなくなる 場合が少なくないのです。おそらく、翻訳にはさまざまな約束ごとがあって、それに縛られるからでしょう。そして約束ごとというのは、大部分が英文和訳の約 束ごとです。

 矢川訳が素晴らしいのは、翻訳の約束ごとにはまったくとらわれず、自由に日本語を書いているからです。自由な訳で、語順も自由に選び、訳語も自由に選ん でいますが、かといっていわゆる豪傑訳ではありません。矢川澄子が自分の名前で翻訳と執筆をはじめたのは渋澤龍彦と離婚した後ですが、渋澤は自由にという より奔放に訳したことで有名です。原文と照らし合わせながら読んだことはないので、確かなことはいえませんが、そういわれているのは事実です。これに対し て矢川訳は、自由ではあっても、原文からかけ離れることはありません。原文に密着して訳しながら、心地よく朗読できる美しい日本語になっているのです。

 おそらく、矢川澄子は翻訳にあたっていつも、朗読する読者を念頭においていたのでしょう。メルヘンの翻訳が主な仕事だったので、朗読する読者こそ本来の 読者だったのでしょう。本来の読者に原著の素晴らしさを伝える姿勢がはっきりしていたから、翻訳の約束ごとにはとらわれず、自由に日本語を書くことができ たのだと思えます。

 つぎに、やはり現代の日本を代表する翻訳家のひとり、村上博基の訳(資料3と4)をみてみま しょ う。

 前回、サイデンステッカーが『山の音』の翻訳で、「冷静に」の1語をcalmly and deliberatelyと2語で訳していることを紹介しました。英語では形容詞や副詞の同義語を複数並べることが多く、1語だけで訳すと、落ちつかない 文章、間の抜けた文章になりかねないからだとみられます。この点を考えると、資料3の『女王陛下のユリシーズ号』の冒頭にあるSlowly, deliberatelyは、1語で訳してもよかったように思えるかもしれません。しかし村上博基はそうせず、「おもむろに、もったいぶって」と訳してい ます。この点に、村上訳の特徴がよくあらわれていると思えます。

 日本では、前述のように翻訳にはさまざまな約束ごとがあります。前回にも触れたように、この点でいちばん大きな制約を受けているのは、おそらく英語の原 著を和訳している翻訳家です。たとえば原文の2語を1語で訳したりすると、訳抜けだと非難されかねません。英文和訳の原則は知っているが、英語の性格も日 本語の性格もおそらくはじっくり考えたことがない人に、鬼の首でもとったように「誤訳」だと指摘されかねないのです。そういう読者がいても、笑っていれば いいともいえますが、読者のそういう要求を感じて、編集者が同じことを要求する場合が少なくありません。編集者は翻訳家にとって直接の発注者ですから、編 集者の要求をはねつけるのは、そう簡単ではありません。だから原文の2語は2語で訳す。それだけでなく、原文にできるかぎり忠実に訳して、原著と突き合わ せて読む読者も満足するようにする。そしてもちろん、訳書だけを読む本来の読者が満足してくれるように訳す。村上博基の翻訳を読むと、訳者がそう意識して いたかどうかは分からないが、そういう訳文になっていると思います。いってみれば綱渡りのようなことなのですが、それをやすやすとやってみせるのが、村上 博基なのです。

 じつは、翻訳の約束ごとは、原文の2語は2語で訳すということにとどまりません。それぞれの語で使える訳語も決まっています。たとえばslowlyなら 「遅く」か「ゆっくり」が正解、deliberatelyなら「慎重に」か「ゆっくり」が正解です。この正解をみても、この2語が同義語の並列であること が分かりますが、それはともかく、訳語まで制約されては、訳書だけを読む本来の読者が満足する訳文は書けません。そこで、村上博基は訳語の部分で思い切っ て飛躍します。そうしてでてきたのが「おもむろに、もったいぶって」という訳文なのです。この訳語なら、たしかに辞書にはでていないとしても、誤訳だとい われる気遣いはないし、しかも、訳書だけを読む本来の読者が満足してくれるはずです。

 同様のことが資料4の『スマイリーと仲間たち』の冒頭部分にもいえます。たとえば、 seemingly、by tradition、bus-loads ofといった言葉が1語ずつ丁寧に訳されています。そして、「一見」「例のごとく」「バスでくりこむ」という文脈にぴったりの言葉、そして英和の辞書には ない言葉を使っています。

 英語の原著を和訳している翻訳家はいうならば、がんじがらめの制約を受けていますが、村上博基はこの制約を言葉に対する鋭い感性ですり抜けています。原 文の語の意味を読み取る感性、正解とされている訳語を無視してぴったりの語を見つけ出す感性、そしてもちろん語彙の豊富さが村上博基の特徴でしょう。

 つぎに土屋正雄の訳(資料5と6)をみてみましょう。

 土屋正雄は村上博基とは違って、翻訳の約束ごとや制約がないかのごとく、自由に訳しています。翻訳のスタイルとしてはサイデンステッカーのものにかなり 近いといえるでしょう。原著者が書いた内容を日本語で伝えること、これだけをひたすら追求しており、その際に、おそらくは翻訳者という立場からではなく、 原著者になりきって小説を日本語で書く姿勢をとっているように思えます。

 この立場から、たとえば資料5の『日の名残り』の冒頭部分でそうしているように、原文の1パ ラグラフを2段落に分けることもあります。これはたいていの 翻訳家にとって禁忌ですし、禁忌を犯して段落を増やすと、訳文が読みにくくなることも少なくないのですが、土屋正雄の訳では、段落分けがごく自然になって います。おそらくは原著者になりきっているからこそできることなのでしょう。

 また、英文和訳の原則では、後ろから前に訳すように決められていることが多く、1つのセンテンスだけを切り離して訳す場合には、たしかにその方が素直な 日本語になると思える場合も少なくないのですが、土屋正雄は、正解とされる訳し方にはとらわれず、正解とされる訳語にもとらわれず、じつに自由に訳してい ます。『日の名残り』の冒頭部分で、whenではじまる節がどう訳されているかに注目してください。

 つぎに上田公子の翻訳(資料7と8)をみてみましょう。数年前に引退を宣言して、いまは悠々 自適 の生活を送っているそうですが、復帰してほしいと考えている読者は少なくないと思います。

 上田公子の翻訳も、日本語の小説として完成度の高い文章を書く姿勢が特徴になっています。台詞の訳が素晴らしい点も特徴です。たぶん、演劇をやっている 人なら気持ち良く読める台詞なのではないでしょうか。基本的には原文に忠実な訳だし、とくに原文の流れに忠実な訳ですが(つまり、原文通りに前から後ろへ と訳していく訳ですが)、ときには思い切った飛躍もしています。資料8の『将軍の娘』でNo trespassingを「人食い座」と訳しているのに注目してください。

 このように思い切って飛躍しながら、破綻していないのは、訳者が原著者になりきって小説を書いているからでしょう。その点で、上田公子は土屋正雄に似て いるともいえます。

 最後にもうひとつ、芝山幹郎の訳(資料9)を見てみましょう。原著者のスティーブン・キング は作 品の数が極端に多いうえ、それぞれがきわめて長いので、2人や3人の翻訳家ではとても訳しきれません。これまでに20人を超える翻訳家が訳していますが、 そのなかで翻訳の質の高さが群れを抜いているのが芝山訳の『ニードフル・シングズ』でしょう。

 この翻訳の特徴は原文の内容だけでなく、原文の文体を見事に活かしている点にあります。ラリった原文をラリった日本語で訳しているのです。

 たぶん、いちばん注目したいのは語尾です。翻訳には約束ごとや制約がたくさんありますが、語尾についてはほとんど何の制約もないといえます。日本語では 表現力の点でも、小説ではあまり問題になることはありませんが論理性の点でも、語尾がきわめて重要な役割を果たしています。たとえば、以下を比較してくだ さい。

・ 初めてじゃないね
・ 初めてじゃないさ
・ 初めてじゃない
・ 初めてではない
・ 初めてではないのです
・ 初めてではないのだ

 これぐらいにしておきましょう。たぶん、数十通りならすぐに思いつくはずです。100通り以上考えつくこともあるでしょう。このように語尾を変えていく と、もちろん、意味が微妙に変わります。表面的な意味は同じですが、裏の意味、含意が微妙に違ってくるのです。日本語の語尾がいかに豊富かを考えていく と、日本語の豊かさ、美しさ、表現力、論理性が実感できるかもしれません。そして、日本語の豊かさ、美しさ、表現力、倫理性を支えているともいえる語尾に ついては、翻訳にあたって何の制約も約束ごともないといえるのです。

 翻訳の約束ごとや制約は基本的に英文和訳で公式や正解とされているものです。英語の学習と研究のなかで形作られてきたものです。英語の表現力を支えてい るのはたぶん語彙であり、語尾にあたるものはないともいえるので、英語の学習者や研究者にとって盲点だったのでしょう。だから、英和辞典をみればすぐに実 感できるように、英語の膨大な語彙のひとつずつに訳語を割り当てることには熱心に取り組んできましたが、訳文に使う語尾には、ほとんど関心が払われてきま せんでした。芝山幹郎はいわば、この盲点をうまく利用して、翻訳の約束ごとや制約をうまく突破しているといえます。

 以上のように一流の翻訳家の訳文をみていくと、いくつかの基本的な点を確認できるはずです。

 第1は、翻訳は英文和訳とは違うという点です。英文和訳は自分の英語力を教師に、あるいは採点者に示すことが目的です。教育と学習を効率化するために、 そしてもうひとつ、採点を効率的に行えるようにするために、たくさんの公式や正解が決められています。翻訳は原文・原著の内容を読者に伝えることが目的で す。この目的を達成する方法は本来なら訳者に任されています。公式や正解はなく、自由に訳すことができます。

 だだし、とくに英語で書かれた原著・原文を日本語に訳す場合には、訳者はもともと英文和訳のために作られた約束ごとや制約に、かなりの程度しばられてい ます。この制約をどう突破するか、あるいはすり抜けるかが、翻訳家の腕の見せ所になります。

 第2は、今回取り上げた小説の翻訳でいうなら、訳文が日本語の小説として読めるものになっていなければならないという点です。一流の翻訳家が訳した小説 はみな、そうなっています。言い換えれば、翻訳なのだからという言い訳は許されないのです。翻訳だから、日本語の文章としては少々おかしくなっていても仕 方がないとか、少々読みづらくても仕方ないとか、文章が美しくなくても仕方ないとかの言い訳は許されません。読者は翻訳物を読むか日本人の書き手が書いた ものを読むかの選択権をもっています。原著で読むという選択肢もあり、最近ではこの方法を選べる人が増えています。翻訳物を読まなければいけないという理 由はないのです。

 この点を考えると、翻訳では「訳すのではなく書く」のが正解だといえるはずです。訳すのではなく書く、これが一流の翻訳家に共通する特徴です。

 今回紹介した一流の翻訳家はすべて小説の分野の人たちですが、翻訳の対象はもちろん、小説だけではありません。ノンフィクションもあれば、社会科学や人 文科学、自然科学もあり、実務の分野でも大量の文書が翻訳されています。しかし、どの分野のものでも、翻訳とはどういうものか、どうすれば優れた翻訳がで きるか、翻訳の面白さはどこにあるのかを考える際には、今回紹介したのと同じ方法を使うことができます。一流のものを読む、これが最善の方法です。二流、 三流のものを読むと、時間を無駄にするだけでなく、知らず知らずのうちに真似ることになって、害になることすらあります。だから、一流のものを読むように 心掛けるべきです。それが自分の力を伸ばす最善の方法であり、同時に人生を豊かにする方法にもなります。

(2004年1月号)