翻訳についての断章
 山岡洋一

翻訳調の規範が崩れて

 
 先月号の「直訳と意訳」では、翻訳調に基づく直訳の考え方を取り上げた。翻訳調の起源は明治半ばだとみられる。幕末から明治にかけて、日本は理解するこ となどとても無理なのではないかと思えるほど進んでいるし、異質な欧米の文化に触れて、翻訳という手段で何とか学ぼうと努めた。当初はたとえば福沢諭吉や 中村正直らが原文を読みこなし、その意味を伝えるために自由に訳す方法がとられた。だがこの方法では、ごく少数の天才しか翻訳を行えないという問題があっ た。欧米の文化を丸ごと学ぼうとしたとき、翻訳すべき文献は無数といってもいいほど多く、福沢、中村のように原文の意味を理解して訳せる人材は圧倒的に不 足していた。そこで開発されたのが、意味の理解を後回しにしてとりあえず訳しておく便法である。これが翻訳調の起源だとみられる。

 翻訳調ではこのため、原文の語句や語法について、それぞれ正しい訳し方を決め、この訳し方を忠実に守って訳していくことがとても重要だとされた。原文の 語句については英和辞典に示されている訳語に忠実に、原文の語法については英文法書に示されている訳し方に忠実に訳していくのが、翻訳調の原則なのであ る。

 いまでは時代が違っている。翻訳にあたって原文の意味を伝えるのは当然であり、さらに、原文の文体、リズム、美しさ、分かりやすさや難解さなどまで忠実 に再現する方向に進むべきだと思う。そう考えたとき、明治半ば以降、100年近くにわたって当然とされてきた翻訳の常識は、一掃すべきだといえるだろう。

翻訳者の自由
 原文の意味を忠実に伝えようとするのであれば、英和辞典に書かれた訳語だけを使って翻訳すべきだとはいえない。英和辞典に書かれた訳語を使っておけば安 全だともいえない。原文の1つの語や連語には1つの訳語を使うべきとはいえない。原文の違う語に同じ訳語を使うのは避けるべきだとする理由はない。原文の 1つの語に1つずつ訳語をあてるべきだとはいえない。原文の品詞を変えないように訳す理由はない。原文にない語句を補うのは控えるべきだと考える理由はな い。原文の主語を「〜は」か「〜が」と訳さなければならないとはいえない。原文の1つのセンテンスを1つの文で訳すべきだとはいえない。原文の関係詞節の 制限用法を後ろから前に訳さなければならないとする理由はない。原文の過去形を「〜た」と訳さなければならないとはいえない。英文和訳で教えられるその他 もろもろの訳し方を使わなければならないと考える理由はない。

 要するに、原文の意味を忠実に伝えようとするのであれば、まして、原文の文体、リズム、美しさ、分かりやすさや難解さなどまで忠実に再現しようとするの であれば、翻訳者はどんな規則にも従う必要はないのだ。翻訳調の直訳で使われる方法を、使いたい部分では使ってもいいし、使いたくない部分では使わなけれ ばいい。翻訳者は翻訳の方法やスタイルについて、まったく自由であるべきだ。

 だが、自由があればすべてはうまくいくというわけではない。世の中、それほど甘くはない。規則があり縛りがあるというのは、規範があるということだ。規 範は質を高めるために、少なくとも質が下がらないようにするために、とても大切である。以前には翻訳調という規範があったために、少なくともある時期まで は、翻訳の質を一定水準以上に維持するのが容易になっていた。ある時期からは、翻訳調という規範が時代後れになり、翻訳の質の向上を妨げる手枷足枷になっ ただけでなく、翻訳の堕落をもたらす要因になったのは事実だとしても、規範というものの役割を否定する理由にはならない。規範なき世界では質がかぎりなく 低下することになりかねない。

翻訳の分業化の動き
 翻訳調の規範が信頼性を失ってきたころ、翻訳の新しい方法がいくつか登場している。規範といえるほどの力はもっていなかったが、翻訳にかかわる問題を解 決する新しい方法として、ある程度の支持を集めたのは確かだと思う。その動きをみていくと、翻訳者の自由を真っ先に活用したのが、専業の翻訳者ではなく、 翻訳出版の起業家とでもいえる人だったことが分かる。

 新しい方法のなかでとくに目立ったのは、いわば、翻訳の分業化である。この時期には、ある新興出版社が「超訳」と銘打った翻訳書をつぎつぎに出版し、い ずれもベストセラーになって注目された。売らんかなのあくどいやり方だとして嫌う人も少なくなかったが、その裏では、それほどあくどくはない形で、同じよ うな方法がかなり使われるようになっていた。

 たとえば(あくまでも、たとえば、だが)、以下の4段階の方法があった。第1段階として、原文を3人から10人の翻訳者が訳す。つぎの第2段階では、1 人か2人の翻訳チェッカーが問題点や疑問点を解決し、誤訳を見つけて訂正して、翻訳を完成させる。第3段階では、編集者が訳文の表記を統一し、翻訳調で訳 されている部分を書き換えるなどの作業を行う。最後の第4段階に、編集責任者が商品になる文章に仕上げる。当初の2段階には当然ながら、原文を読みながら 作業するが、後ろの2段階には訳文だけをみて文章を直していくのが通常になる。

 この場合、最後の段階を担当する編集責任者が事実上の翻訳者になるとみるべきだろう。その前の段階を担当するのは下訳者であって翻訳者ではない。原文を 読まない翻訳者が翻訳を担うようになるのである。

 この方式は、一見きわめて合理的だと思えた。第1に、1人の翻訳者がすべてに対して責任を負う場合と比較して、圧倒的に時間を短縮できる。たとえば、 300ページの本を1人で訳すと、翻訳にとりかかってから出版するまでに少なくとも数か月はかかるが、この方式では数週間に短縮できるだろう。第2に、翻 訳者の不足という問題を簡単に解決できる。第1段階を担う翻訳者はある程度力が不足していてもいいので、依頼できる人の数が多いし、第2段階を担う翻訳者 はもっと力が必要なため人数が少ないのだが、チェックだけでいいので、一から翻訳するよりはるかに大量の翻訳をこなせる。また、訳文を磨く部分を編集者に まかせられるので、効率が高くなる。第3に、編集者は原文を読む必要がないので、原文を読む力が不足していても、まったく読めなくても仕事ができる。

 以上の方式は、もちろん、4段階でなければならないわけではない。2段階か3段階にすることもできるし、もっと段階を増やすこともできる。

 この方式は一見、きわめて合理的なので、翻訳という仕事の本質を考えたことがない経営者には魅力的だったようだ。だからだろうが、他の業界から出版業界 に進出してきた起業家や、新たに翻訳出版に取り組むようになった出版社や雑誌社がこの方式を取り入れた例がいくつもある。だが、知っているかぎりでは、3 段階、4段階の仕組みをとったケースでは、ほぼどれもうまくはいかなかったようだ(例外は前述の「超訳」だけかもしれない)。

 うまくいかなかった理由はさまざまだろう。まずはコスト高だとみられる。第1段階から第3段階までで単価を思い切り低く設定できなければ、関与する人数 が多い分、全体のコストが高くなる。だが、コストを抑えると別の問題がでてくる。力のある人は抜けていき、力が落ちる人だけが残るため、質を維持するには 第2段階以降のどこかに負担がかかる。スピードを重視すれば徹夜続きになって、体力がもたなくなる。また、翻訳の品質は基本的な部分では、原文をどこまで 深く読み、深く理解するかで決まる。したがって、第1段階の質が低ければ、第2段階以降でいくら努力しても、問題を隠すのが精々であり、限界がある。初め が肝心なのだ。

 それに、あまり注目されなかったようだが、別の問題もいくつかあったように思える。第1に、この方式では第3段階以降はいわば伝言ゲームになり、原文の 意味を正確に伝えるという翻訳の基本が守れなくなる。最後の段階を担う編集者が事実上の翻訳者になるのだが、原文を読まないという性格上、翻訳者の自由は 放埒に堕していく。第2に、翻訳者はいつまでも下訳の役割しか与えられないので、学習して質を高めていこうとする意欲がそがれる。翻訳者はたいてい、学習 意欲と向上心が強いのだが、この良さを活かすことができない。

 第3に、この分業方式の前提には大きな問題があった。翻訳は外国語で書かれた原文を読み解く部分と、日本語で訳文を書く部分に分解でき、それぞれを担当 する人の分業が成り立つという前提である。外国語読解の専門家と日本語執筆の専門家が協力すれば最高の翻訳ができるというわけだ。一見、もっともだと思え る前提だが、翻訳の現場を知らないための誤解だといえる。これまで、翻訳者と翻訳学習者を合わせて1000人以上の翻訳を検討してきた経験からいうなら、 日本語を書く能力が抜群なのに、外国語の読解力に問題があると思える翻訳者はごくまれにいる。だが、外国語の読解力が翻訳に十分な水準に達しているのに、 日本語の文章がいまひとつという人はまずいない。たいていは、外国語の読解力と日本語の執筆能力がほぼ比例している。この2つは分かれているようにみえ て、実は不即不離の関係にあるのである。日本語の文章という観点でみて訳文の質がいまひとつだというときには、原文の読みもいまひとつであるのが普通なの だ。その場合に訳文だけを修正しても、質の高い翻訳にはならない。

 そしてもうひとつ、ある意味で決定的な問題があったように思える。この方式では編集責任者が訳文の仕上げに時間と関心を奪われて、編集者本来の仕事がお ろそかになりかねない。編集者はいわば、出版の現場の指揮官である。出版を成功させるために、冷静に全体像をつかみ、無数の要因を調整していかなければな らない。ひとつだけ例をあげるなら、読者が何を求めているかをつかみ、適切な原著を選ばなければならない。この点がおろそかになれば、翻訳の質をいくら高 めても、それほど効果はない。翻訳出版では原著の力がおそらく決定的な要因だ。力のある原著を訳さなければ成功は難しい。指揮官である編集者が訳文の細部 にばかり気をとられているとすれば、翻訳出版で成功できるとは思えない。

 多段階式の翻訳の方法はいつしかはやらなくなってきたようだが、消えたわけではない。形を変えてますます広まってきたようなのだ。いま、よくみかけるの は多段階式ではなく、2段階式である。つまり、編集者が訳文の仕上げを担う方式である。編集者が事実上の元訳者になり、翻訳者を下訳者として扱う方法だと いいかえてもいい。この方法には上述の問題があるのだが、それよりも、「読みやすく分かりやすい訳文」「こなれた訳文」にすることができる利点が勝ってい ると考えられているようである。翻訳者はどうしても原文に引きずられるが、編集者は原文にこだわらず、思い切ったことができるので、読みやすい訳文ができ るというわけだ。

 そのため、原文の意味を忠実に伝えるという翻訳の基本中の基本がおろそかにされるようになってきたようにも思える。訳しにくいところ、理解が難しい微妙 なニュアンスを取り除くという単純な方法をとれば、じつに簡単に読みやすく理解しやすい訳文ができあがるのだから。だが、読者はほんとうにそれを望んでい るのだろうか。

 翻訳の基本に戻って、原文の意味を忠実に伝えることに努めるべきだと思う。また、出版の基本に戻って、読者に価値のある本を提供することに努めるべきだ と思う。たとえば、分かりやすい情報がインターネットやメディアでいくらでも提供されている今日、読者は一読すればすぐに分かるようなことを読むために、 本を買おうとするのだろうか。懸命になって繰り返し読んではじめて理解できるような内容をほんとうは求めているのではないだろうか。そうでなければ、古典 が売れている理由は理解できない。

基本に戻る
 翻訳出版の基本に戻るには何よりもまず、分業を本来の姿に戻すべきだと思う。第1に、翻訳という作業のなかでの分業ではなく、編集者と翻訳者の分業に戻 るべきだろう。編集者が翻訳者を事実上の下訳者として扱っていては、翻訳の質は結局のところ高まらないし、そのうえ、前述のように、編集者の本来の仕事が おろそかになる。もうひとつ、編集者と校正者・校閲者の分業も再確立する必要があるかもしれない。最近では外注の校正者に対する支払いを削っているため か、ほんとうにプロといえる校正者が減ってきたように思えるからだ。編集者、翻訳者、校正者の分業が再確立すれば、編集者は本来の仕事に集中できるだろ う。

 そのためにはもちろん、翻訳者が事実上の下訳の地位に甘んじていてはいけない。日本語の文章を磨く部分を編集者に任せておけば、原文の理解に集中できる ので楽だと思えるかもしれない。しかし前述のように、原文の読解と訳文の執筆は不即不離、表裏一体の関係にある。訳文の質が低いとき、先ず間違いなく、原 文を十分に理解できていない。同様のことは、内容の理解についてもいえる。たとえば大リーグに関する本を訳すのなら、少なくとも熱心なファンに匹敵するほ ど大リーグのことを熟知できるようにしなければいけない。その点は任せてくださいと編集者にいわれても、任せてはいけない。翻訳者は訳文のすべてに責任を 負ってはじめて翻訳者なのである。これが翻訳者として成長するための必須条件だ。

 編集者からみれば、訳文のすべてに責任を負えるほど力のある翻訳者はめったにいないと思えるかもしれない。だが、翻訳者を甘やかしてはいけない。原文の 読解はもちろん、内容の理解から日本語として完成度にいたるまで、すべての点で質の高い訳文を書くよう、翻訳者に強く求めるべきだ。訳文のすべてに対して 責任を負うよう求めれば、下訳程度の翻訳しかできなかった人が飛躍的に成長する場合が少なくない。

 編集者、翻訳者、校正者など、翻訳出版を担う人の分業が再確立すれば、翻訳者は原文の意味を忠実に伝えるという原点に戻って、翻訳の質を高めるために努 力するようになるだろう。

新しい方向
 原文の意味を忠実に伝えるというときにすぐに思い出すのは以下の訳だ。何度も同じ部分を引用すると思われるかもしれないが、重要な点は何度でも繰り返し 強調しておくべきだと思う。だから、何度でも引用する。

 一見関係のないふたつの出来事が、ミスター・ジョージ・スマイリーを、そのあやぶま れた引退生活からよびもどすことになった。最初の出来事の背景はパリ、季節はうだるような八月、例のごとくパリジャンが、灼けつく日ざしと、バスでくりこ む団体観光客に、街を明け渡すときであった。(村上博基訳ジョン・ル・カレ著『スマイリーと仲間たち』ハヤカワ文庫、7ページ)

Two seemingly unconnected events heralded the summons of Mr. George Smiley from his dubious retirement.  The first had for its background Paris, and for a season the boiling month of August, when Parisians by tradition abandon their city to the scalding sunshine and the bus-loads of packaged tourists. (John Le Carre, Smiley's People, Bantam Books, p.1)

 この原文と訳文をよくよく眺めてみるといい。たとえば、by traditionを「例のごとく」と訳す。また、bus-loads of packaged touristsを「バスでくりこむ団体観光客」と訳す。じつに自由に、訳語を選んでいる。英和辞典に書かれている訳語など、端から無視している。だが、 自由に訳していながら、原文の一語一語をもらさず訳すという縛りをみずからに課しているようなのだ。原文を決しておろそかにしないという点で、翻訳調の最 良の部分を受け継いでもいるのだ。そして、その結果できた訳文は、原文に忠実であり、しかも美しい日本語になっているのである。

 思うに、翻訳調の規範がくずれて、翻訳者は自由を手に入れた。翻訳者の手足を縛るものは何もない。だが前述のように、規範なき自由は堕落をもたらすだけ になりかねない。だから、翻訳者はみずからの意思で、強い規律を定めるべきなのだ。

 原文に忠実に訳さなければならない。これは翻訳である以上、絶対に譲ってはならない大原則である。原文に忠実に訳すのがいやなのであれば、翻訳するので はなく、自分で書くべきだ。原文に忠実に訳したのでは読者に読んでもらえないというのであれば、原著の選択を間違っているのである。翻訳する理由のない本 を翻訳しようとしているのである。

 つぎに問題なのは、原文の何をどのような意味で忠実に訳すのかである。翻訳調では、原文の語句については英和辞典に示されている訳語に忠実に、原文の語 法については英文法書に示されている訳し方に忠実に訳していくべきだとされていた。いまでは、これと同じ方法をとる理由はまったくない。だが、原文の意味 を忠実に日本語の読者に伝えられるように訳すのは当然である。そして、村上博基の例にみられるように、原文の一語一句をもらさず訳していくのは、そのため の優れた方法になりうる。1つの語を1つの訳語で訳さなければならないと考える理由はない。原文の1つの語を2つの訳語、3つの訳語、10の訳語で訳して もいいし、逆に、原文の2つや3つ、あるいは10の語を1つの訳語で訳してもいい。重要なのは、もれなく訳すことだ。

 これは規律の例にすぎない。他にもさまざまな規律がありうる。翻訳にあたっては、どのような規則にも従う必要はないのだが、だからこそ、みずから縛りを 設けるべきなのだ。好き勝手に訳せばいいというわけにいかないのであれば、原文を深く読み込んで訳文を考えるしかなくなる。その結果、翻訳の質が高まって いくだろう。

(2009年6月号)