書評
山岡洋一
翻訳論の開花

 
 翻訳は過去150年にわたって、日本の学問研究の手段として、重要な位置を占めてきた。ほとんどどの分野でも、外国の優れた文献の翻訳が研究の出発点に なってきたのだ。だから、学者、研究者のなかには専門分野の翻訳を仕事の中心にしてきた人が多いし、仕事の一部にしてきた人はきわめて多い。

 ところが不思議なもので、これほど重要な翻訳が研究の対象になることは、あまりなかったといってもいい。翻訳について論じた文章はそう少なくはないのだ が、たいていはエッセーであって、本格的な研究ではない。日本の学問研究できわめて重要な位置を占める翻訳自体を研究する動きは、それほどなかったのであ る。

 おそらく、唯一の例外だとも思えるのが柳父章の研究だ。日本で翻訳にたずさわっている立場からいうなら、柳父章の翻訳論は、欧米の翻訳論研究の水準をは るかに超えていると思える。皮肉な話だが、翻訳論の著書は翻訳が極端に難しいので、欧米の翻訳論の文献を読んでも、柳父章の業績が紹介されていることはま ずない。2008年にようやく、いくつかの論文が翻訳されたようだが、まだ浸透しているとはいいがたい。だから欧米の翻訳論には深みが欠けるのだといえ ば、言いすぎになるだろうが。

 柳父章は独自に研究を進めてきたのであり、師はいなかったはずだ。そして、弟子らしい弟子もいないように思える。翻訳研究の火は絶えてしまうのだろう か。そう懸念していたのだが、最近になって、翻訳研究の新たな動きがはじまっていることに気づかされるようになった。今回は、この動きを示す学会誌を2つ 紹介しよう。

「通訳翻訳研究」第8号、日本通訳翻訳学会、 2009年1月(「研究」)
「翻訳研究への招待」第3号、日本通訳翻訳学会翻訳研究分科会、2009年3月(「招待」)
入手の方法は、以下の学会サイトまたは「通訳翻訳研究」ブログを参照。
http://blog.so-net.ne.jp/a-mizuno

 ベテランの研究者や新進の研究者の論文や調査報告が多数掲載されている。いくつか目立ったものを紹介しておこう。

翻訳教育の実態調査
翻訳研究分科会翻訳教育調査プロジェクト・チーム「わが国の大学・大学院における翻訳 教育の実態調査概要」、「研究」
長沼美香子「アンケートでみる日本の翻訳教育の現状―翻訳教育実態調査の集計と分析」、「研究」

 日本の大学で翻訳教育がどのように行われているのかは、これまでほとんど分からなかった。この調査報告でようやく、少しは現状が分かるようになった。結 果をみると、仰天させられる。

 何よりも驚くのは、全国の大学・大学院、756校のうち、183校に合計550の翻訳関連科目があるという事実である。1クラスの学生数は30名以下が 25%、20名以下が30%だというので、平均20名とすると、延べ1万人が翻訳を学んでいることになる。外国語の授業での「和訳」や、専門科目での「原 書講読」は対象外にしているというし、授業の大半は2001年度以降に新設されたものだというから、翻訳教育が21世紀に入って、急速に増えているのだろ う。1990年代には翻訳学校での翻訳教育が急成長したので、その流れが大学に移ったといえるかもしれない。これが良い傾向なのかどうかは、しばらく時間 が経たないと分からない。

 また、この調査報告から、標準的な教材がないこと、教師の教育経験が不足していることなどの問題点も読み取れる。たとえば、教材の1位と2位を占めてい るのは安西徹雄の『翻訳英文法』(文庫版では『英文翻訳術』)と『翻訳英文法トレーニング・マニュアル』である。いずれも、1990年代の翻訳学校ブーム のときに使われていた教材であり、大学・大学院の翻訳と翻訳論の教科書になりうるものかどうか、おおいに疑問だと思える。今後、こうした問題を解決する動 きが起こることを期待したい。

翻訳はどうあるべきかを考えるヒント
長沼美香子「翻訳と文法的比喩―名詞化再考」、「招待」
齋藤美野「森田思軒と文学翻訳―起点テキストの『姿』を再現すること」、「研究」

 翻訳者の立場からいうなら、翻訳の現状には満足できず、どうすればもっと良くなるのかをいつも考えている。だから、翻訳はどうあるべきかを探る研究が読 みたいと思う。たとえば、名訳とはどういう翻訳なのか、名訳と並みの翻訳の違いはどこにあるのかといった研究なら、とくに役立つだろう。翻訳が話題になる ときはたいてい、誤訳の指摘なので、それとは逆の観点にたった研究があればと願う。

 また、翻訳のさまざまなスタイルを紹介する研究があれば役立つだろう。翻訳の質を高めるには、ひとつのスタイルにこだわるのではなく、いくつものスタイ ルを使いこなす柔軟性が大切だ。だから、常識とは違うスタイルの翻訳が紹介され、どこがどう違うのかが論じられていれば、翻訳はどうあるべきかを探るヒン トになるので、翻訳の実務に役立つと思う。

 もうひとつ、翻訳教育という観点からも、翻訳はどうであるべきかの研究が大切だと思う。上述のように、大学での翻訳教育が盛んになっているようだし、翻 訳研究者が大学などで翻訳教育にたずさわるケースが多いと思われるので、この点はとくに重要である。翻訳の善し悪しを判断する視点を養うことは、大学や大 学院での翻訳教育で重要な目標になるとみられるからである。それに、翻訳の善し悪しについての基準がなければ、学生が行った翻訳を添削し、評価することは できないはずである。

 要するに、翻訳の研究を教育や実務に結びつけるには、翻訳はどうあるべきかという観点に立つことが必要だと思えるのである。

 今回取り上げた2つの学会誌には多数の論文が収められているが、その多くは記述型の研究である。つまり、翻訳が実際にどう行われているかを研究してお り、翻訳はどうあるべきかを探る研究ではない。そのなかで注目したいのが、この2つの論文だ。どちらも翻訳はどうあるべきかを真正面から論じているわけで はないが、ヒントになる点がいくつもある。

 長沼論文は、選択体系機能言語学の立場から「文法的比喩」、とくに「名詞化」の概念を取り上げ、安西徹雄の『翻訳英文法』などによって、1990年代の 翻訳学校ブームの際に通説になった「自然な日本語」という見方に見直しを迫っている。翻訳者の立場で学べる点、意外な点が指摘されていて、実践に役立つと 思える。

 とくに面白いのは、名詞構文中心の英語の原文を動詞構文で訳すべきだとする通説を批判している点である。これは英日の翻訳だけでなく、たとえば仏英の翻 訳にも共通する「翻訳の普遍的特性」だと長沼はいう。

 齋藤論文は明治中期に活躍した翻訳家、森田思軒の翻訳に関する言説を紹介し、翻訳事例を分析している。翻訳史の研究であって、翻訳はどうあるべきかの研 究ではない。だが、いわゆる翻訳調の成立期に、それとはまったく違う考え方があったことが分かり、翻訳はどうあるべきかを考える際のヒントになると思う。 森田思軒は「周密体」と呼ばれる翻訳スタイルの完成者だという。「周密体」は原文の形式を訳文で再現することにも十分に気を配っているというので、おそら く本来の意味での直訳なのだろう。いわゆる翻訳調と比較すると、今後の翻訳のあり方を考えるヒントになるだろう。

翻訳に役立つ理論の研究
香取芳和「日本語テキストの結束性から考える―英日翻訳における望ましい視点の取り 方、視線の向け方」、「招待」
河原清志「英日語双方向の訳出行為におけるシフトの分析―認知言語類型論からの試論」、「招待」

 翻訳はどうあるべきかを真っ正面から取り上げた研究がまったくなかったわけではない。香取論文は訳文の「結束性」という観点から、まさに「望ましい」翻 訳のあり方を論じている。また『不思議の国のアリス』の原文と矢川澄子訳を具体例として使っている。『アリス』の翻訳はきわめて多く、そのなかで矢川訳を 選んだ理由は書かれていない。しかし、私見では数ある翻訳のなかで、矢川訳は文句なしの名訳である。したがって、香取論文は「名訳とはどういうものか」を 論じているといえるだろう。

 香取論文では、矢川訳で文章の結束性を維持するために使われている工夫をいくつか取り上げているが、そのなかでとくに注目したいのは、「themeまた はrhemeの非明示的な受け継ぎ」と題されている項目だ。ここでは以下の原文と矢川訳、変更訳を提示している。

The Cat only grinned when it saw Alice. ...
.... 'Come, it's pleased so far,' thought Alice, and she went on.
(1) ネコはアリスを見てにんまりわらったきりだ。
「よかった、いまのところは大丈夫そう」アリスはそう思って、....... (矢川訳)
(2) ネコはアリスを見てにんまりわらったきりだ。
「よかった、ネコはいまのところ大丈夫そう」(変更訳)

 日本語では主題は省略してもいいといわれることが多いが、香取は(1)と(2)を比較して、(1)の方が強い結束性が感じられると述べている。「省略し てもいい」のではなく、「省略した方がいい」と感じられるというのだ。この指摘だけでも、香取論文を一読する価値があると思う。さまざまな点を考えるきっ かけになるからだ。

 たとえば、英文では「A1→B. A2→C. A3→D」という構造のパラグラフが少なくない。このとき、A1とA2とA 3は同じAを指しているが、英語は同じ語の繰り返しを嫌うので、代名詞や言い換えなどを使って、表現を変えているのが普通だ。表現を変えるだけでなく、A に関する新たな情報を伝えている場合もある。このような構造のパラグラフを訳すとき、日本語の感覚で考えれば、「A1+2+3は、Bである。Cである。D である」と書く方がいいと感じることが多い。原文の3つのセンテンスの主語をひとつにまとめて最初の文の冒頭に「A1+2+3は」として示し、第2文、第 3文では「Aは」を省く方法をとりたいと感じるわけだ。

 繰り返すが、この方がいいと「感じる」のである。これは訳者の日本語感覚によるものだが、感覚というのはあてになるようで、間違いも多い。この方がいい と「感じる」だけではなく、その感覚が正しいと、あるいは間違っていると「確信」できるだろうか。そう考えたときに大切なのが理論である。この例でいえ ば、三上章が「ハ」の本務のひとつとして「ピリオド越え」をあげたことを知っていれば、「A1+2+3は」が句点を越えるので、こう訳して差し支えないと 確信できる(「ピリオド越え」とは何なのかと思ったのであれば、三上章『象は鼻が長い』を読むべきだ。日本語文法の名著である)。

 香取論文は「結束性」という観点から、この確信を一歩進めて、「こう訳した方がいい」と示唆している。だから一読の価値があるといえるが、「こう訳した 方がいい」という確信をもてるほどの説得力があるとは思えない。

 河原論文は記述型であり、どちらかといえば通訳の研究が中心になっているものの、香取論文と重なる点がかなりある。「結束性」についても論じており、翻 訳者に確信を与えられる理論に発展する可能性を秘めているように思える。今後に期待したいと思う。

記述型翻訳研究とコーパス
Yukari Fukuchi Meldrum, Translationese-Specific Linguistic Characteristics: A Corpus-Based Study of Contemporary Japanese Translationese、「招待」

 今回対象にしたなかで、記述型研究の典型ともいえるのがこの論文だ。1980年から2006年までのベストセラーを対象に、日本語で書かれた小説と翻訳 小説の全文データベース(コーパス)を作成し、「彼」など三人称代名詞の頻度、カタカナ語の頻度など、通常、翻訳文の特徴といわれる点がたしかに特徴に なっているかどうかを調べた労作である。上述の河原論文や、山田優「翻訳メモリ使用時の既存訳が新規訳に及ぼす影響―干渉と翻訳の普遍的特性の観点から」 (「研究」)など、同様の記述型研究が多いので、これが現在の翻訳研究で主流になっているのだろう。

 メルドラム論文は結論が面白い。翻訳文の特徴といわれている点のなかには、日本語で書かれた文章とほとんど差がないものがあるという結論である。たとえ ば、「彼女」の使用頻度には極端な差があるが、「彼」の使用頻度にはそれほど差がないという。また、カタカナ語の使用頻度にはかなりの差があるが、その大 部分は固有名詞によるものであって、外来語の使用頻度は、日本語で書かれた小説の方がわずかだが高かったという。

 だが正直なところ、OCRでコーパスを作成した努力に見合う成果があがったのかどうか、疑問だとも思える。その一因は、ベストセラー小説を対象にしたこ とにあるのかもしれない。記述型研究である以上、ベストセラーを対象にしたのは賢明かもしれないが、翻訳者の立場からいうなら、どちらかといえば質の低い 文章を対象にする結果になったのではないかと懸念する。よくいわれるように、ゴミを入れればゴミが出てくるのだから、何を入れるかは重要だ。

 名文と名訳を対象にしていれば、結果が違っていたかもしない。名文と名訳を対象にすると、記述型の研究からは遠ざかり、翻訳はどうあるべきかを探る研究 に近くなる。たぶん、著者の本意ではないだろうが、翻訳者の立場からは、そうした研究の方が役立つように思える。翻訳教育の立場からも役立つ研究になるだ ろう。

 メルドラム論文では前述のように、まずコーパスを作成して研究に取り組んでいる。河原論文、山田論文も、コーパスに基づく研究を志向している。本来な ら、研究者がいつでも使えるコーパスを学会などで作成しておくべきだと思う。とくに、英和のパラレル・コーパス(原文と訳文が対になったコーパス)を整備 しておくべきだろう。この点を翻訳研究者に要望しておきたい。そして、コーパスを作るのであれば、名訳を対象にしてほしいとも思う。

最後に ― 規範型の研究について
 個人的な関心という点では、翻訳はどうあるべきかが、これまでとは違った形で示されるよう望んでいる。いいかえれば、翻訳の新しい規範の確立を目指した 研究が進むよう望んでいる。

 おそらく、いまの翻訳研究の主流は記述型であり、規範型の研究というと、研究者の側にも読者の側にも抵抗感があるのではないかと思う。そこで、規範につ いて、少し触れておきたいと思う。

 規範に対して抵抗感があるとすれば、それはおそらく、悪い規範を嫌う感情がもとになっているのだろう。だが、どんな分野でも、規範が明確になっているこ とが、質を高めていくために不可欠だと思う。悪い規範すら、質を高めていくのに役立つと思う。良い規範は学ぶべき対象、憧れの対象になるので、質を高めて いくのに役立つのは明らかだが、悪い規範も、それを克服するための努力を生み出すので、やはり質を高めていくのに役立つと思う。規範の縛りが強いほど、そ れを克服しようとするエネルギーが強くなる。よほど質を高めなければ、克服はできない。

 1980年代に、世間的には若くないが、翻訳者としては若手だったころ、この点を痛感した。当時の翻訳の世界ではまだ、いわゆる翻訳調が規範として、か なりの力をもっていた。そして若手翻訳者の多くは、翻訳調を悪い規範だととらえて、何とか克服したいという意欲をもっていた。ある若手翻訳者に翻訳という 仕事を選んだ動機を聞いたところ、大学の教科書として有名な翻訳書をあげて、あのような翻訳で勉強するのでは学生が気の毒だからと話してくれたのを、いま でもよく覚えている。当時、翻訳調の壁は厚かったので、これを突破するのは容易ではなかった。自分の翻訳の質をよほど高めていかなければ、跳ね返される。 これが当時の実感だった。

 あれから20年以上が経過して、翻訳の世界も様変わりしている。ごく一部の分野を除いて、翻訳調が良いとされる状況はなくなった。だが、その結果あらわ れたのは、良い規範も悪い規範も確立していない状況だ。憧れ学ぶ対象もなければ、反発する対象もない。若い翻訳学習者に質問すると、翻訳という仕事への漠 然とした憧れが動機になっていることが多いようで、既存の名訳への憧れも、既存の悪訳への怒りも希薄なように思える。規範が力を失った空白にあらわれてき たのが、「こなれた翻訳」「読みやすく分かりやすい翻訳」だ。規範がなければ幼稚になる事実を象徴するような翻訳である。だから、新しい規範の確立を望ん でいるのである。

 ここで注意しておくべきことがある。翻訳調は信用されなくなったとはいえ、まだ死んではいないのだ。翻訳調は翻訳のスタイルだが、それだけではない。翻 訳調を支えるために、膨大な、気の遠くなるほど膨大なインフラストラクチャーが築かれてきた。たとえば英文法、英和辞典、英語教育はいずれも、翻訳調を支 えるインフラとして整備されてきている。翻訳調による翻訳で海外の優れた知識を学ぶことが、明治以降、いわば国家事業として取り組まれてきたからだ。この 大規模なインフラに対抗できるものは、いまのところどこにもない。たとえば上述のように、翻訳と翻訳論の標準的な教科書すらないのだから。

 翻訳調はほんとうのところは克服できていない。せいぜいのところ、翻訳調はいやだとすねてみせ、幼稚になっているだけなのだ。だから、新しい規範の確立 に本気で取り組まなければならないと思うのだ。そのときに、ようやく成長してきた翻訳研究に期待するものは大きい。

(2009年4月号)