翻訳の現状

「語学」という幻想

山岡洋一


  翻訳の世界に歪みをもたらしている大きな要因のひとつは、「語学」という幻想ではないかと思っている。

 ひとつには、翻訳を「語学」という観点から評価する考え方が根強いために、翻訳者は手枷足枷をはめられている。また、翻訳は「語学」の仕事だという考え方が根強いために、適切な人材が翻訳の世界に集まってこない状況が生まれている。このため、翻訳のどの分野でも、学習者、希望者はきわめて多いのに、発注者からみて安心して仕事を依頼できる翻訳者はきわめて少ないという不思議な状態が生まれている。

 翻訳を「語学」という観点から評価する傾向が根強く、それが翻訳者にとっていかに腹立たしいかは、仁平和夫の『翻訳のコツ』に対する読者の反応の大きさをみても明らかだと思える。とくに強い反応があったのは翻訳者からであり、とりわけ「こぶしだらけを嗤う」など、英語と日本語の違いを論じたものを歓迎する声が強かった。原文にveryとあるのに「非常に」が抜けているとか、in factがあるのに「実際」が抜けているとかの注意を、お叱りを、罵倒を、翻訳者はつねに受けているのだ。だから、仁平和夫の文章に溜飲の下がる思いがしている。

 翻訳をこんな基準で評価されてはかなわない。だから、自分の仕事に誇りをもつ翻訳者ほど、こんな馬鹿げた仕事はやっていられないと考えて転職するか、発注者と衝突して偏屈者とされるようになる可能性が高いといえる。

 翻訳を「語学」という観点から評価する考え方が流す害毒について、いうべきことは山ほどある。だが、以下ではもうひとつの論点、つまり翻訳は「語学」の仕事だという考え方が根強いために、適切な人材が翻訳の世界に集まってこない点を考えていきたい。

「語学」が幻想だという理由

 たとえば、こういう事実を考えてみるといい。国内には、アジアの言語を使いこなす人がたくさんいる。だが、こうした人たちを「語学力がある」とはいわない。「語学」とは、欧米の言語、とくに英語を使いこなす力についてだけ使われている。アジアの言語が「学」ではなく、英語などの欧米の言語が「学」だというのは、どこか歪んだ考えではないだろうか。

 また、こういう事実を考えてみるといい。インドには10億の国民がおり、公用語はヒンディー語だが、20近い地方公用語、数百の言語がある。英語も準公用語になっている。インド人同士が英語で話している場面は珍しくもない。英語の新聞や雑誌、本を読み、英語で書く人の数はきわめて多い。多数の人たちが英語を使いこなし、いくつもの言語を使いこなしているが、インド人の「語学力」が高いという話は聞かない。

 同様のことは、アジアのいくつもの国にもいえる。フィリピンでもシンガポールでも、英語が公用語になっていて、かなりの人が使いこなしている。また、インドネシアには250の言語があり、そのなかで公用語のインドネシア語を母語とする人は少数派だ。

 これらの国では、2つや3つの言語を使えなければ日常生活に差し支える場合が少なくない。家庭内では母語を使い、職場内や学校では公用語を使い、取引先との交渉には英語を使うといった例はいくらでもある。

 こうした例をみていくと、世界人口の60億人のなかに、ひとつの言語だけでそれほどの不自由なく生活でき、仕事ができ、学習できる人たちがはたしてどれだけいるのか、疑問に思えてくる。半分以下であることは間違いない。世界人口の半分以上が、複数の言語を使いこなしているはずである。

 ここから、ふたつの結論が導きだされる。第1に、人間にはもともと、複数の言語を使いこなす能力が備わっているはずである。そうでなければ、これだけ多数の人たちが複数の言語を使えている理由がわからない。第2に、母語以外の言語の習得は、「学」といえるようなものではないはずである。母語以外の言語は生活のための手段、仕事や学習のための道具なのであって、だれでも習得できるものなのだ。

市民農園のおじさんの物語

 30年ほど前に私鉄の新線ができて誕生した新興住宅街、マンションには若い夫婦が住み、子供たちが遊んでいるが、一戸建てには30年前に働き盛りだった人たちが、いまでは子供も独立して、たいていは悠々自適の引退生活を送っている。すぐ近くには農地が点在し、市民農園もあって、暇ができて土に戻りたいおじさんやおばさんが長靴をはき、鍬を持って出掛けていき、夕方になると、こんなものができましたので食べていただけますか、と言って大根や胡瓜を玄関先に置いていってくれる。

 2年ほど前、そんなおじさんのひとりの家にマスコミが押し寄せて大騒ぎになった。おじさんの写真が新聞各紙の一面を飾り、テレビのニュース番組で大写しになった。ときおり、どこそこに新しい店ができたとか、テレビ・ドラマのロケがあってだれそれが来ていたとかの話題があるだけで、いつもは静かな住宅街だから、あっという間に噂が広まって、歩いて10分ほどのところにあり、大根をいただいたこともないし、顔見知りですらないわが家にも聞こえてきた。おいしい野菜を置いていってくれるおじさんだとばかり思っていたから、ほんとうに驚いた、ノーベル賞をとるような偉い先生だとは知らなかったというわけだ。

 マスコミでも近所の噂でも称賛の声がしきりだったが、だれも注目すらしない点があった。このおじさんはもちろん、英語で論文を読み、英語で論文を書き、海外で研究していたときや国際的な学会に出たときに英語で発表したり、話し合ったりしてきたはずだが、あのおじさんは英語ができるんだって、すごいねとは、だれも言わなかった。当たり前である。だれもそんなことは考えもしない。一流の研究者なら英語を道具として使いこなすのは当然であり、自慢の種にはならないし、ましてそんな点を褒めては失礼であることをだれでも知っているのだ。

得意な英語力を活かしたいという人たち

 何年も翻訳を学習している人になぜ翻訳なのかを尋ねると、「英語が得意だから」といった答えが返ってくることが多い。こういう答えを聞くたびに、腹立たしくなり、気の毒にも思う。腹立たしいのは、○○さんは英語がよくできるね、などとおだてた馬鹿がいたに違いないからだ。英語はできて当たり前だと、どうして教えないのか。できて当たり前のことができると褒めるのは、お前には取り柄がないと言うのと変わらないほど失礼な言い種であることにどうして気づかないのか。そして、気の毒に思うのは、こんな失礼なことを言われて、いい気になっているからだ。

 もうひとつ、腹立たしく思い、気の毒に思う理由がある。それは、得意なはずの英語の力が不足していることである。英語が得意だから翻訳を学んでいるという人たちに1ページほどのごく短い翻訳をやってもらうと、英文和訳の試験ですら減点される誤訳がかならずある。10人や20人ではない。1000人をはるかに超える人たちにそうした翻訳をやってもらった経験があるが、そのなかに、英語力という点で翻訳の水準に達している人はひとりもいなかったのだ。自慢できるほどの力をもっていない部分が得意だと思っているのは気の毒だし、そう思わせた人に腹立たしくなる。

 ところが、英語にとくに関心をもってきたわけではない人、言い換えれば、はるかに広い範囲のことを学んでいて、そのための道具として英語を使ってきた人のなかには、翻訳の質という点では不十分な点があるとしても、少なくとも英文和訳の試験でなら満点をとれる人が何人かいた。

 これは奇妙な現象ではないだろうか。英語が得意だと思っている人の英語力がほとんどの場合、たいしたことがなく、とくに英語が得意だとは思っていない人のなかにほんとうに英語力がある人がいるのだから。このような奇妙な現象が起こるのはなぜなのか。ちょっとした謎ではないだろうか。

 答えのひとつは、たぶん、「語学」という幻想の犠牲になっているというものだ。欧米の言語もアジアの言語も、すべて道具でしかない。生活のための道具、仕事のための道具、学習や研究のための道具にすぎない。ところが日本では明治以降、欧米の言語だけは「学」とされ、特別扱いされてきた。そして、エリートを選ぶための手段として使われてきた。そのために、奇妙な結果が生まれている。学校で英語を学ぶと、ごく少数を除く大多数は英語嫌いになり、外国語など使いこなす力は自分にはないと勘違いするようになるのだ。人間のすべてに備わっている能力を開花させるのが教育だとするなら、人間のすべてに備わっている能力を大部分の人で殺してしまうものを何と呼べばいいのか。

 こういう機能をもつ学校で、英語がよくできるね、という言葉はどういう意味をもっているのか。ほかの「学」はさっぱりだけど、英語だけはなんとか少しはできるようだね……。落ちこぼれに投げかける慰めの言葉なのだろう。そう考えれば、謎が解けるように思える。そうとでも考えなければ、謎が解けない。

 翻訳は「語学力」でできるような仕事ではない。翻訳とは本来、外国語で書かれた知の粋の部分を、粋の部分だけを吸収するためのものである。もちろん、外国語が読めないようでは話にならないが(英文和訳ですら満点がとれないようでは問題外だが)、外国語は道具にすぎない。外国語という道具を使いこなして何ができるかが問題である。そのために必要なものは、内容の理解力を中心とする総合力である。

 誤解のないように付け加えておくなら、翻訳家への道はひとつではない。英語力を活かしたいという動機で翻訳をはじめた人が一流の翻訳家になった例は少なくない。入口はどこでもいいのだ。だが、英語がよくできるねなどとおだてられてその気になった人がまともに翻訳ができるようになるには、まず、学校で植えつけられた劣等感を払拭しなければならない。英語だけではない、ある分野の翻訳に必要なすべての面にわたってすぐれた能力をもっているのだという自信と、自信の裏付けになる実力が不可欠である。

総合力をもつ人材を引きつけるには

 翻訳に適しているのは、英語などの外国語が得意だとはとくに思っていない人、外国語を道具のひとつとして使いこなし、もっと総合的な仕事ができる人である。そういう人はとくにめずらしいわけではない。ノーベル賞の候補に挙がらなくても、まともな研究者ならたいてい、そういう力をもっている。企業や官庁で活躍している人たちにも、そういう力をもつ人は少なくない。

 もちろん、総合力だけでは不十分である。総合力にくわえて、翻訳者にとって決定的な力、つまり日本語での文章表現の力をもっていなければならない。日本語は母語だからだれでも書けるのだが、物書きとして通用する力をもつ人がきわめて少ないことも常識である。総合力があり、しかも日本語を書く力が高い人材が翻訳には最適である。

 だが、こうした人材はなかなか翻訳の世界に入ってこない。翻訳の世界には逆に、こうした人材を遠ざける面すらあるように思える。そのひとつが、翻訳とは「語学」の仕事だという考え方だ。

 ほんとうに翻訳に適している人は、語学の仕事は自分に向かないと考えているか、語学屋さんとか英語屋さんとか言われかねない仕事につくことには抵抗を感じていることが少なくない。それに、翻訳の仕事を探そうとすると、「語学力を活かせる仕事」を探している人たちのために作られた仕組みに嫌気がさすことになる。前述のように、「語学」という観点から自分の翻訳を評価されて、やる気をなくす人もいる。

裾野と頂上

 過去15年ほど、翻訳の世界は裾野を広げることに成功してきた。とくに成功したのは学習者の裾野を広げることだが、翻訳者の裾野も大きく広がっている。どれほど広がっているかを示す数値がある。1992年から2000年までの9年間に出版された翻訳書は約5万点、訳者数は約2万2000人だ。訳書のある翻訳者だけで2万人を超えているのだ。その大部分は訳書が1点しかない人だが、年平均1点以上、つまりこの9年間に9点以上の訳書がある翻訳者だけで800人を超える。

 これだけの数の翻訳者がいれば、出版社は訳者を探すのに苦労しないはずだと思えるかもしれない。だが、事実は正反対だ。翻訳をしたい人ならいくらでもいるが、安心して依頼できる翻訳者はほとんどいないというのが、たいていの出版社にとっての現実になっている。どの分野でも、安心して依頼できる翻訳者の数は、少なければ片手で数えられるほど、多くても両手両足で数えられるほどにすぎない。これが現実である。

 もちろん、出版社の編集者が知らないだけで、実力のある翻訳者はもっとたくさんいる可能性がないわけではない。だが、翻訳書の編集者はだれでも、商品価値があるとはとてもいえない翻訳原稿を受け取って頭をかかえた経験がある。安心して依頼できる翻訳者とそれ以外の人たちの間に、大きな実力差があることを知っている。

 裾野が広がれば頂上が高くなり豊かになると予想するのが普通だろうが、そうなるとはかぎらない。裾野が広がった分、頂上を目指すときの道のりが遠くなる場合もあるし、障害が多くなる場合もある。

 翻訳の世界が社会にとっての意義を高めていくには、何よりも頂上を高め、豊かにしていかなければならない。翻訳の仕事をしたい人がいくら増えても、そのこと自体には何の社会的意義もないのだから。

(2002年11月号)