出版翻訳の現状
山岡洋一

翻訳者の役割と 編集者の役割

 翻訳者の小さな集まりで、翻訳出版に失望したという話がでた。編集者が勝手に訳文を変えてしまうので、原文と意味が違ってしまう。ゲラで元に戻しても無 視されるので、もう出版翻訳はやりたくないというのだ。同じような経験をした翻訳者は何人もいるようで、そうそう、そうだったという話になった。以下は、 その時に話した内容をまとめたものである。
 
 似たような体験はたぶん、ほとんどの出版翻訳者にあるのではないかと思います。私自身もたとえば、「コンピューター」がゲラですべて「コンピュータ」に 変えられていたことがありました。ゲラに音引きをトルという赤字が入っていたのではなく、音引きがない形でゲラになっていたのです。これは翻訳者と編集者 の信頼関係を損ねる重大問題ですから、編集者を呼んで、次の行に「エレベーター」とあるのに、ここが「コンピュータ」になっているのは何事だと詰問したこ とを覚えています。最近、新聞の記事で「シンドラーエレベータ社製のエレベーター」という表記をみるたびに、そのときの編集者の顔を思い出します。

 それはともかく、いまの話を聞いていて、頭に浮かんだ言葉が2つあります。「男芸者」という言葉と、「権力は腐敗する」という言葉です。何の関係がある のかと思われるでしょうから、少し説明をくわえます。

 まず「男芸者」について。芸者というのがどういう人たちなのかは、まったく知りません。なにしろ、これまでに一度、顔を見たことがあるだけで、話をした こともないのですから。小川高義の名訳『さゆり』をはじめ、いくつかの小説で漠然とした知識があるにすぎません。ですから、「男芸者」という表現があたっ ているかどうか、正直なところ自信はないのですが、数年前にその姿をみたとき、これは「男芸者」としかいいようがないのではと思いました。

 東京でいちばん好きな町はどこかと聞かれたら、神田神保町と答えます。新刊の書店があり、古本屋があり、中華街でもあり、こんないい町はないと思いま す。数年前、本屋をまわって何冊かの本を買い、喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら、買った本をながめていました。そのとき、隣りの席に坐っていた3人の うちひとりが、「先生は翻訳もなさるのですね」といっているのが耳に入りました。職業柄、「翻訳」という言葉に反応して、しばらく3人の会話に耳を傾けま した。

 窓際に坐っているのはたぶん30歳前後の若者。背筋を伸ばし、相手の話に短く答えるだけでした。反対側に坐っている2人は、ひとりは頭がだいぶ薄くなっ ているし、もうひとりはゴマ塩頭なので、たぶんどちらも50代だろうと思います。背中を思い切りまるめて、テーブルに頭がつくのではないかと思えるほどの 姿勢で懸命に話しています。

 しばらく聞いていて、3人の関係がみえてきました。若者が作家で、年長の2人が編集者なのです。作家といっても聞いたことのない名前で、後でインターン ネットで調べたところ、ようやく数点が出版されているだけで、いってみれば新人に毛が生えた程度のようでした。その若者に、それも息子といってもおかしく ないほどの若者に、「前作の○○はほんとうに傑作で、感激しました」とか「すばらしい詩も書いていらっしゃるし、翻訳の才能もあり、感服します」とか、揉 み手をせんばかりにお世辞を並べているのを聞いて、いったいこれは何事なのかと思いました。きわめつきは、「お原稿」です。「近くお原稿をいただけるとい うことで、喜んでおります」といったのです。この言葉を聞いて頭に浮かんだのが「男芸者」という言葉でした。

 この2人がどの出版社の編集者なのかは分かりませんが、これがほんとうに編集者なのかと耳を疑ったのは確かです。この作家は実績こそあまりないものの、 独自の作風を確立していて、少数ながら強い読者がついているようでした。いうならば、ある程度ではあっても、名前で売れる作家なのでしょう。だから、編集 者がここまで卑屈な態度をとっていたのかもしれません。

 ですが、物書きという立場でいうなら、編集者は最初の読者ですから、見え見えのお世辞など聞きたいとは思いません。それよりもしっかりと批評をしてもら いたいと思います。まして新人に近いのであれば、厳しい批評で自作を見直すヒントを与えてほしいと願うのが当然ではないでしょうか。こんな卑屈な態度を許 していては、才能があったとしての伸びないのではないかと、余計なお世話ながら心配になりました。

 編集者が勝手に訳文を変える話とどういう関係があるのかと思われるかもしれませんが、脱線ついでに、もうひとつ、「権力は腐敗する」という言葉の話をし てみたいと思います。

「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」という言葉があります。イギリスのアクトンと人の言葉だそうですが、アクトンがどういう人なのかは知りませ ん。この言葉だけで有名な人のようです。まったく無名ともいえる人の言葉が残っているのは、まさに至言だといえるからでしょう。政治権力が腐敗することを 示す実例は、世界各地でたえずあらわれていますし、政治権力の腐敗を追求して社会の安全装置になるはずのマスコミが「第4の権力」になって腐敗しているさ まは、それこそ毎日のようにみせつけられています。

 ですが、政治権力というのは、われわれのように名もなく貧しく見苦しい庶民には縁遠い話ですし、マスコミが伝えるのも、どこかの権力者が庶民には考えら れないほどの大金をせしめたといった類の話がほとんどですから、妬みや嫉みの対象にはなっても、直接に被害や苦痛を受けるような話ではないと考えるのが普 通でしょう。

 ところが権力が腐敗するとき、腐敗するのは権力者という言葉にふさわしい人物だけではないのが普通です。末端まで腐敗していきます。末端で小さな権力を 握っているにすぎない人、つまり、庶民が直接に接する人が腐敗するのです。そうなると、庶民が被害を受け、苦痛を受けることになりますが、それだけではあ りません。権力が腐敗するとき、大きな権力であれ、ごく小さな権力であれ、権力を握っている本人が悪意をもっているから腐敗する場合もあるでしょうが、そ れ以上に多いのは、本人に悪意がなくても、いつも間にか、知らず知らずのうちに腐敗していくケースでしょう。庶民といえども、何らかの立場で小さな権力を もっているものですから、知らず知らずのうちに自分が腐敗していくことにもなりかねません。だから、怖い話なのです。

 権力のある立場にたつと、胡麻すりに囲まれて、いつの間にか現実がみえなくなるという話をよく聞きますが、先程あげた若手の小説家の場合も、ひょっとす るとそうなっているのかもしれません。それほど有名でもない作家が権力をもっているというと不思議に思われるかもしれませんが、少数でも強い読者がついて いる作家は編集者にとってありがたい書き手なので、ささやかではあっても権力をもっているといえます。そして、自分の親に近いほど年長の編集者に「先生」 と呼ばせて悦にいっていること自体が、腐敗の始まりだと思います。お世辞ばかりを並べる編集者と付き合っていると、いつの間にか傲慢になり、現実がみえな くなりかねません。ほんとうに怖いことだと思います。

 この作家の場合、読者がついているといっても、おそらく多くて数千人でしょうが、テレビ番組に出演して物知り顔で話しているコメンテーターの場合には、 数万部から数十万部が売れると見込めることもあるわけですから、もう少し大きな権力をもっているといえます。小説家なら、読者の数が多くても少なくても、 本人が書いているはずですが、コメンテーターの場合には、とくに、顔が売れている人の場合には、つぎつぎに出版される「著書」をじつは本人がまったく書い ていないということも少なくないようです。簡単な打ち合わせをもとに、あるいは、講演のテープをもとに、編集者やライターが書いていることが少なくないの です。

 編集者が並べるお世辞を聞いているのが腐敗の始まりだとするなら、自分が一字も書いていない本を出版させて、「著者」として印税を受け取っているのは、 まともな腐敗です。手軽に読める本として喜んで読む読者が多いのだから問題はないと反論されるでしょうが、そう反論する人は、こうした類の本が氾濫するよ うになって、書店が荒れ果て、出版界が荒れ果て、悪臭を放つまでに腐敗しかねないことに気づいていないのです。それだけでなく、日本文化の基盤のひとつが 腐敗し、日本の社会全体にまで腐敗が広がっていきかねないことにも気づいていないのです。

 こうした「著者」はたぶん、出版という事業のルールをご存じないのだと思います。野球やゴルフにルールがあるように、出版にもルールがあります。出版の 基本を決めているのは、著作権という権利義務関係です。本の著者や翻訳者は著作権という権利をもっているから、印税を受け取れることになっています。で は、著作権とはどういう権利なのでしょうか。著作権は著作権法という特別の法律で規定されていますし、専門の法律家がいるほど大きく、複雑な分野ですか ら、全容を理解するのは簡単ではありません。ですが、いくつか、これだけは覚えておくべきだといえる点があります。たとえば、「著作者人格権」とそのひと つである「同一性保持権」があります。

 著作権にはさまざまな権利が含まれています。代表的なものは、著作物の複製を販売する権利であり、本であれば、印税を受け取る権利でしょう。この権利は 他人に売ることができます。たとえば、これは音楽の例ですが、ビートルズのCDが売れると、その印税は元のメンバーではなく、マイケル・ジャクソンらが受 け取る仕組みになっていました。これは元のメンバーが印税を受け取る権利をマイケル・ジャクソンらに売ったからです(例の裁判のときにマイケル・ジャクソ ンは資金が続かなくなって、この権利を売るという話がでていましたので、いまでは事情が変わっているかもしれません)。この例が示すように、著作権に含ま れるさまざまな権利のうちほとんどは売買ができるのですが、著作者人格権だけは例外です。著作者に固有の権利であって、売ることができないのです。つま り、著作権の核心が著作者人格権だといえるでしょう。その著作者人格権のひとつに、同一性保持権があります。同一性保持権とは、要するに、著作者の意に反 した変更、切除などの改変を一切受けないという権利です。

 著作者の意に反した変更、切除などの改変を一切受けないのですから、著者は自分の原稿を一字一句変えることなく、句読点のひとつも変えることなく、その まま出版するよう求める権利をもっています。たとえば、原稿に「コンピューター」と書いた場合には、「コンピュータ」とは表記しないよう求める権利をもっ ています。繰り返しますが、これは絶対の権利であって、売ることができない権利です。ちなみに翻訳の場合には、原作の著作権は原著者にあり、原作の翻訳権 は出版社が原著者から取得するのが通常ですが、翻訳物の著作者は翻訳者ですから、翻訳についてはやはり、意に反した変更、切除などの改変を一切受けない権 利をもっています。つまり、編集者が勝手に訳文を変えてしまうというのはあってはならないことなのですが、この点は後で触れることにして、まずはこの権利 の意味する点を考えていきましょう。

 著者や翻訳者は、意に反した変更、切除などの改変を一切受けない絶対の権利をもっています。これを逆の側からみるとどうなるか。法律論がどうなっている のかは知りませんが、常識で考えれば、答えは明らかだと思います。著者や翻訳者は一切の改変を受けることなく、そのままの形で出版できる原稿をだす義務を 負っているはずです。この義務を果してはじめて、同一性保持権を主張でき、著作者人格権を主張でき、したがって、印税を受け取る権利が生まれるのです。こ う考えるのが当たり前ではないでしょうか。では、編集者や校正者、校閲者は何をするのかと聞かれるかもしれませんが、校正や校閲はすべて、著者や翻訳者の 責任です。編集者や校正者、校閲者は著作者の校正・校閲作業を支援するだけです。繰り返しますが、校正や校閲はすべて、著者や訳者の責任です。出版社は支 援するだけです。この点については、法律上も疑問の余地はないはずです。

 簡単な打ち合わせをもとに、あるいは、講演のテープをもとに、編集者やライターが書いた「著作」で印税を受け取っている「著者」は、こうした基本的な ルールを知らないのか、知っていても知らぬふりをしているのでしょう。だから、印税を受け取る権利だけを主張して、その前提になっている義務を果たそうと しないのです。野球にたとえれば、俺がピッチャーをやっているときはキャッチャーが捕球できた投球をすべてストライクにしろと要求するようなものです。打 者のバットが届く範囲のストライク・ゾーンに投げて勝負するという基本的な義務を知らないのです。

 自分の名前で本をだせば数万部は売れるというのは、もちろん、政治権力と比較すれば何ともささやかではありますが、それでもひとつの力であり、権力で す。こんなささやかな権力をもっただけで、いい歳をして傲慢になり、腐敗するというのは、ある意味で信じがたいともいえますが、こんなちっぽけな権力で も、腐敗するものなのでしょう。こんな「著者」が世の中にはたくさんいるのですから、出版社の編集者がどのような立場でどのような仕事をしているのか、想 像がつくのではないでしょうか。

 売れ筋の本をだすためには、自分の子供にはみせられないような卑屈な態度をとって、「著者」のご機嫌をとるはずです。そして、鞄持ちをして講演会場に案 内し、テープを取り、夜の接待も終わって、翌日、二日酔いに苦しみながら、ライターに執筆を依頼するとします。そのとき、ライターに対しても平身低頭して 卑屈な態度をとるのでしょうか。誰でも容易に想像がつくように、卑屈の正反対の態度をとるはずです。鼻持ちならないほど傲慢になるはずなのです。卑屈と傲 慢は表裏一体、卑屈な人は相手しだいで傲慢になるものです。相手の側に力があると思えば卑屈になり、自分の側が権力を握っていると思えば傲慢になる。これ が普通です。

 もうひとつ、実際の編集作業をどのように進めていくのかを考えてみましょう。前述のように、著者は一切の改変を受けることなく、そのままの形で出版でき る原稿、いわば完全な原稿をだす義務を負っていますし、編集者や校正者の支援を受けて、校正・校閲を行う責任を負っています。ですが、括弧付きの「著者」 はそんな責任は負いません。ですから、執筆から校正まで、すべての作業は編集者が外部のライターや校正者を顎で使って進めることになります。もう少し良心 的で、自分で原稿を書く著者であっても、「なるべくたくさんの読者に読んでもらえるようにするのは編集者の仕事ですから」と著者にいい、内心では「こんな 下手くそな文章では本にならないから、編集者が直すしかない」と考えて、編集者が大幅に加筆訂正することになります。

 こういう安易な本作りを続けていると、出版という事業の基本的なルールがいつの間にか忘れられることになります。編集者は、そのままの形で出版できる完 全原稿を著者に要求するという当然のことをしなくなり、講演や打ち合わせをもとに原稿を書くか、不完全な原稿を修正するのが編集者の仕事だと考えるように なります。著者は、そのままの形で出版できる完全原稿を書くという当然の義務を果たさなくても印税が入ってくるものだと考えるようになります。どちらの側 も、このような安易な姿勢で出版の基盤を掘り崩す結果になることには気づいていません。著作権とその裏にある義務という出版事業の基本ルールは建前にすぎ なくなり、著作者人格権や同一性保持権という言葉すら知らない編集者が増えているのではないでしょうか。

 ここまでお話しすると、「男芸者」と「権力は腐敗する」という2つの言葉がつながり、編集者が訳文を勝手に変えてしまうこととの関連がみえてきたのでは ないでしょうか。もちろん、ここまでお話しした内容はいわば一般論ですから、全員が卑屈な態度をとるわけではないし、全員が傲慢な態度をとるわけでもあり ません。ですが、出版業界の現状では、力のあるものには媚へつらい、力のない相手には傲慢になるという悪習を抑える要因が薄れてきているように思えてなり ません。出版の理想や理念が薄れ、売れるか売れないかだけが強調されすぎているように思えるのです。数年前に『理想なき出版』という翻訳書が出版されまし たが、まさにこの本のタイトル通りの状況になっているように思えるのです。出版の理想や理念が薄れれば、ささやかな権力を握っているにすぎないものまで、 知らず知らずのうちに腐敗していくのではないでしょうか。

 誤解のないようにもう一度いいますが、以上は出版業界にみられる一般的な傾向を少々大げさにとらえたものです。編集者や著者の多くは有能で熱心で良心的 なのですが、相手しだいで卑屈になったり傲慢になったりする編集者がいるのも事実です。そして、著者や翻訳者の原稿を編集者が勝手に修正するのが、出版の 本来の姿からみればいかに異常なことなのかが認識されにくくなっているのも事実です。

 編集者の本来の立場からいえば、著者や翻訳者の原稿を勝手に修正するのはとんでもない話ですし、当然のように修正するのは、編集者が売れ筋の本の「著 者」に卑屈になる一方で、それ以外の書き手や翻訳者に傲慢になっているためだといってきたわけですが、この見方がいわば、勝手に訳文を変えられるという被 害を受けた側、やりきれない思いをした側からのものであることも指摘しておくべきでしょう。編集者の側からは、事態がまったく違ってみえるはずです。

 編集者の立場にたったとき、原稿を修正するのが当然だと思える理由がいくつかあります。卑屈になっているわけでも傲慢になっているわけでもなく、良い本 にしたいという純粋な気持ち、もっといえば責任感から、修正しなければならないと思える事情があるのです。

 第1に指摘しておくべき点は、とくに翻訳者にとって耳の痛い話でしょうが、正直なところ、出版に耐えられる品質の原稿をだしてくれる書き手が少ないこと です。編集者の立場からは、原稿の質が低すぎるから、泣く泣く直しているのです。翻訳ではとくにそういう原稿が多すぎるから、翻訳者から受け取った原稿は かならず手直しが必要になると考えるようにもなります。

 本来なら、原稿が出版の品質に達していない場合、編集者は何度でも書き直し、訳し直しを要求するべきだし、それでも品質が最低基準に達しないのであれ ば、出版を断るべきです。いくつかの手直しで出版が可能になるのなら、その箇所を具体的に指摘して、修正を求めるべきです。編集者の本来の役割はここまで であって、編集者が自分で直すようことはしてはなりません。これが原則です。編集者がこの原則を守っていれば、著者や翻訳者は必死になって原稿の質を高め ようとするでしょうし、それでも質を高められない人は淘汰されていくでしょう。出版物の質が全体に高くなり、読者にとっても、出版社にとっても、書き手に とっても、好ましい状況になるでしょう。そういう姿勢をとっている編集者もいますが、それよりも書き手に相談なく手直しをする編集者の方が多いのではない でしょうか。

 なぜそうなるかというと、編集者がいつもスケジュールに追われているからです。2ヵ月後に出版予定の原稿を受け取って、出版の品質に達していなかった場 合、出版を遅らせることができないのであれば、訳者に訳しなおすよう求める余裕はありません。編集者が自分の時間を犠牲にして修正するしか方法がなくなり ます。実際には、もうひとつ、目をつぶってそのまま出版する方法があり、実際にはこの方が多いのかもしれません。ですから、勝手に訳文を変えてしまう編集 者は、じつは、責任感がある真面目な編集者なのです。この点を忘れてはなりません。これまで、腐敗しているとか、卑屈で傲慢だとか、悪口雑言を並べてきた ではないかと思われるかもしれませんが、問題は編集者個人の性格とか人間性とかではないのです。問題は、責任感がある真面目な編集者ほど、いつの間にか間 違った行動をとるようになる、そういう出版業界の状況にあるのです。

 第2に指摘しておくべき点は、出版業界の風土病とでもいえるものです。出版業界には「表記の統一」が必要不可欠だという強迫観念があります。たとえば、 ひとつの本の3ページで「つづける」という表記が使われていた場合、同じ本の378ページに「続ける」という表記が使われているのは許しがたいことだと考 えられているのです。表記の統一がとれていない箇所があると、編集者や校正者がいいかげんな仕事をしていると思われかねないというのが、この強迫観念の背 景になっています。読者の立場では「続ける」と「つづける」が混在していても、何の問題もないのが普通でしょうが、編集者の立場は違っています。読者に何 と思われるかではなく、業界内でどう思われるかが気になっているのです。

 最近では、表記の統一をパソコンで機械的に行おうとする編集者が増えているので、問題が大きくなっています。統一のために表記を変える必要があると判断 するのであれば、ゲラに鉛筆で(つまり黒い字で)書いて、書き手に判断を求めるべきです。ゲラにする前に、データで変更を加えられると、どこがどう変わっ たのかが分からなくなるので、思わぬ間違いが起こることにもなりかねません。ゲラにする前にデータに変更を加えるのは、サッカーでいえば、レッド・カード で一発退場になるほどのルール違反です。こんな初歩的なこと、編集の「いろは」も知らない編集者が増えています。嘆かわしいことです。

 最後にもうひとつ、「読みやすく分かりやすい」文章でなれば読者が読んでくれないという強迫観念があります。だから、原稿に少しでも読みやすくないと思 える部分、分かりやすくないと思える部分があると、責任感がある真面目な編集者は文章を変更したくなるようです。この強迫観念を払拭しなければ出版業界は 現在の苦境から抜け出せないと思います。なぜそういえるのかを話しだすと、何時間もかかってしまうので、ここでは簡単な事実を指摘しておくだけにします。

 子供をみているとすぐに分かることですが、子供は「読みやすく分かりやすい」本を要求するとはかぎりません。それよりも、ひとつ上の本、ちょっと難しす ぎるのではと心配になる本を読みたがることの方が多いようです。子供の様子をみていると、人は誰でも好奇心、向上心があり、知識欲が旺盛であることが分か ります。そして、出版という事業はかなりの部分、読者の好奇心、向上心、知識欲を満たすことで成り立っているわけですから、読者の意欲を高めるように努力 すべきだと思います。そう考えたとき、「読みやすく分かりやすい」本にしなければならないという強迫観念がどういう意味をもっているかをじっくりと考える べきでしょう。

 もちろん、「読みやすく分かりやすい」文章でなければならないという見方は、強いて読みにくくし、分かりにくくしたコケ脅しが氾濫していた状況のなかで 生まれたものです。強いて読みにくくし、分かりにくくするのは、唾棄すべき堕落です。ですが、世の中や自然は複雑で、理解しにくいのが現実ですから、ほん とうに知りたいことが書かれている文章は、それほど読みやすくも分かりやすくもないとしても不思議ではありません。読者の好奇心、向上心、知識欲を刺激 し、満たすためには、「読みやすく分かりやすい」文章だけでは不十分という場合もあるのです。いまでは、強いて読みにくくし、分かりにくくしたコケ脅しが 氾濫している状況ではなくなっているので、そろそろ、「読みやすく分かりやすい」文章でなれば読者が読んでくれないという強迫観念から脱却すべきではない でしょうか。

 以上、勝手な感想を並べてきましたが、最後に問題の解決に向けた具体的な方法を示しておきます。まずは、編集者への提案から。

 第1に、著作権について学びなおすべきです。著作権は出版事業の根幹です。ヒット作はあればすぐに海賊版が氾濫するような状況では出版事業が成り立たな くなります。そうなっていないのは著作権が守られているからです。出版社が社員研修の形で取り組むべきです。

 第2に提案したい点は、ゲラというものの見直しです。現在の形のゲラは、原稿が手書きであった時代から続いているものです。現在では手書きの原稿はごく 少なく、データの形になっているのが普通でしょう。この違いは大きく、ゲラの意味や役割が変わっているはずです。

 原稿が手書きだった時代には、ゲラは2つの点できわめて重要でした。まず、手書きの原稿をもとに、植字工が活字を拾うかオペレーターが電算写植機用に入 力するのですから、間違いがかならずあり、それを訂正する作業が不可欠でした。いまでは原稿はデータの形になっているので、ゲラは書き手が入力した通りに なっているはずです。植字工やオペレーターが関与することがないので、間違いはごく少なくなっているはずです。

 つぎに、原稿が手書きだった時代には、著者や翻訳者はゲラになってはじめて、本に近い形で全文を読むことになります。原稿を書く段階では一度も見直しを せず、ゲラになってはじめて見直しをするという場合も少なくなかったようですし、そうでなくても、活字になると手書きのときとは文章の印象が変わるので、 書き手にとってゲラでの推敲は重要でした。現在では、書き手はプリンターを使って、ゲラとほとんど変わらない形で印刷できますから、原稿の段階で十分に推 敲できます。このため、手書きの時代と比較すると、書き手にとってゲラの重要性は極端に低くなっているはずです。

 ゲラにはもうひとつ、編集者と書き手の創造的な対話の機会になるという役割があります。編集者は最初の読者として、ゲラで問題点や疑問点を指摘し、改善 を促します。これは編集者と書き手の関係ではもっとも創造的な部分ですから、植字工やオペレーターの間違いの訂正、書き手の推敲という役割がなくなったと しても、ゲラは欠かすことができないと思えます。ですが、その作業をいわゆるゲラで行う必要があるのでしょうか。原稿をプリンターで印刷すれば、それを 使って可能ではないでしょうか。その方が、書き手は編集者に指摘された点を自由に訂正ができるので、効率的なのではないでしょうか。

 このように考えていくと、ゲラは大部分の役割を失っていると思えます。それでもデザインの確認などのためにゲラをなくすことができないでしょうが、初校 だけで十分ではないかと思います。校正作業、編集者の指摘などを受けて、書き手が文字通りの完成原稿、一字一句訂正する必要のない原稿をデータで納品し、 それに基づいて入稿し、ゲラは1回だけで終わりにするのが、現在では適切ではないかと思います。

 第3に、理由は何であれ、編集者が原稿を手直しすることは極力減らしていくべきです。それは書き手の仕事だからです。そこまでの力のない著者や翻訳者が 少ないことはもちろん、承知していますが、だからこそ、とくに若手の著者や翻訳者に対しては、完全原稿がだせるよう教育する立場に徹するべきです。表記の 統一が必要だと思うなら、統一するよう書き手を教育する。文章がまずければ、うまく書けるよう教育する。こうすれば、若手のなかから急速に力をつける人が でてくるはずです。力がつかない人には依頼しないようにすればいいのです。

 何よりも、相談なく原稿を訂正されたとき、書き手がどう感じるのかを考えるべきです。自分の仕事に責任をもち、誇りをもっている書き手なら、はらわたが 煮えくり返っているはずです。そうでないのなら、書き手として失格だといわざるをえません。編集者は原稿の一字を変更するたびに、一文を修正するたびに、 信頼できる書き手を排除し、信頼できない書き手を残しているのです。

 つぎは翻訳者への助言です。何よりも、当初の打ち合わせのときに、編集者にクギをさしておくべきです。完全原稿をだすように努力するので、ゲラになる前 に表記や文章を変えないようにしてほしいと伝えておきます。また、ゲラはかならず、校正者と編集者の赤や鉛筆が入ったものを送るように求めておくべきで す。そう主張しておかないと、何も書き込みのないゲラが送られてきかねません。翻訳者の赤と校正者の指摘をみて、編集者が自分で必要だと考える修正もくわ えてゲラを作る方法を取ろうとするのです。こんな方法を許してはいけません。ゲラの最終責任は編集者ではなく、翻訳者が取るべきです。そのために、校正者 と編集者の赤や鉛筆が入ったゲラを送るように求めておくのです。

 最後にもっとも重要な点を指摘しておきます。自分の名前で訳書を出す以上、一字一句にいたるまで、すべてに責任を負うことを明確にしておくべきです。編 集者には、歯に衣着せぬ意見を求め、同時に、最終的な判断を下すのは著作権者である翻訳者であることを明確にしておくのです。この点をうまく伝えるのは簡 単ではありません。そこで、必要なら以上の話をうまく使ってみてください。傲慢がボロを着て歩いているような翻訳者がいて、こんなことをいっていたと、お もしろおかしく話すのもいいでしょう。編集者が一字でも相談なく変更すると、レッド・カードを突きつけるそうだと。

(2006年10月号)