翻訳批評

『国富論』既訳の問題点
第1編第3章

山岡洋一


  アダム・スミス『国富論』の既訳を検討しながら、新訳の可能性をさぐる作業を少しずつ続けている。検討対象の既訳は以下の通りである。

(1) 竹内健二訳、東大出版会、1969年
(2) 大内兵衛・松川七郎訳、岩波文庫、1959年
(3) 水田洋訳、河出書房新社、1970年
(4) 大河内一男監訳、中公文庫、1978年
(5) 水田洋監訳、杉山忠平訳、岩波文庫、第1刷、2000年
(6) 水田洋監訳、杉山忠平訳、岩波文庫、第2刷、2002年 (上記の改訂版)

 これだけの既訳があり、それ以前にも大内訳などいくつもの名訳があるのだから、いまさら新訳を出す意味も余地もないだろうと思えるかもしれない。しかし、決定的な点で既訳には問題があり、新訳の余地が十分にあると考える。そう考える理由をあげておこう。

 上記の6つの既訳のなかでもっとも古いのは竹内健二訳であり、初版は1921〜23年に出版されている。訳者が26歳から28歳にかけて刊行されているのだ。それも、大学を卒業して会社勤めをしながら、夜に自宅で訳していたのだという。すさまじいことだと感嘆するしかない。

 その竹内健二が1955年に行った講演で、スミスの同時代人に、ローマ帝国の興亡史を書いたギボン、有名な雄弁家のエドモンド・バークがおり、「バークはわれわれに喋ることを教える、ギボンは文を綴ることを教える、アダム・スミスはものを考えることを教える」といわれたと語っている(アダム・スミスの会・大河内一男編『アダム・スミスの味』東大出版会、27ページ)。

 また、スミスの伝記を書いたハーストの言葉を紹介して、こう述べている。
 

……だから、彼はさらにつづけて、ウェルス・オブ・ネーションズというものは、普通の子供の初めに読む本以上に誰でも初学者にもっとも適当だろうと結んでおります。……「誰でも経済学の初学者に」とはいいませんで、誰でも初めて本を読む人にもっとも適する面白い本であるといっていることは、これはなかなかサジェスティブなことではないかと考えます。(同19〜20ページ)


『国富論』が経済学を論じた本ではなく、経済の見方を論じた本であることは、ある意味で常識だが、竹内はそれだけではないと語っている。「ものを考えることを教える」本であり、「誰でも初めて本を読む人にもっとも適する面白い本である」というのだ。竹内は同19ページで、「じつは独り初学者だけでなく、いな、むしろより多くの老人が読んで面白いだろうと私は思うのであります」とも述べている。

 要するに、『国富論』は経済学を学ぶ若者や老人にかぎらず、本を読み、ものの考え方を知りたいと考える人すべてに適した傑作なのだと竹内健二はいう。

『国富論』を原著で読むと、なるほどそうだと思えるはずである。たしかに250年近く前、アメリカ独立宣言の年に発行された本なので、いまの英語とは言葉が違い、文法が違う部分もある。つづりも若干だが違う。しかし、少し読み進んで慣れてくると、なんということなく読める文章なのだ。そして理論ではなく、事実を中心にして論を進めているので、決して難解ではない。思わず笑ってしまうような話もたくさんある。経済について考えるときのヒントがたくさんある。発売当時にたいへんな評判になり、その後も200年以上、読み継がれているのも当然だと思える。

 ところが、既訳の大部分はよほど覚悟を決めて読まないかぎり、とても読み進められない。文体は重く、言葉は難しく、意味不明の文もきわめて多く、楽しんで読むなどとは考えられない。

 既訳の大部分は文章のスタイルという点で、アダム・スミスの文章とは似ても似つかぬものになっている。アダム・スミス本人が読んだら、苦笑するか、怒りだすのではないかとすら思える。

 具体例をあげてみよう。第1編第3章でスミスは、市場の大きさによって分業が制限されると論じている。そして、水上輸送が使えれば、陸上輸送だけに頼るより大きな市場が開けるので、産業はまず、海や大河の沿岸で発達すると論じる。その部分に以下がある。既訳のうち、典型例をみてみよう。
 

……国の内陸部では、長いあいだ、その周辺の地方以外にはその財貨の大部分にとっての市場がなくて、海岸や航行可能な大きい河川から隔絶されていた。したがって内陸地帯の市場の大きさは、長いあいだ、その周辺の地方の富と人口密度に比例せざるえなかったし、またしたがって、内陸地帯の改善は、その周辺の地方の改善よりいつも遅れざるをえなかった。……(大河内監訳第1巻34〜35ページ)

……その国の内陸地帯は長いあいだ、そのまわりにあってそれを海岸や航行可能な大河から隔てている、周辺の地方以外には、品物の大部分にとっての市場をもつことができない。そのため内陸地帯の市場の範囲は、長いあいだ周辺地方の富と人口に比例せざるをえず、したがってまたその改良はつねに周辺地方におくれざるをえない。……(水田監訳、杉山訳第2刷第1巻46ページ)

.... The inland parts of the country can for a long time have no other market for the greater part of their goods, but the country which lies round about them, and separates them from the sea-coast, and the great navigable rivers. The extent of their market, therefore, must for a long time be in proportion to the riches and populousness of that country, and consequently their improvement must always be posterior to the improvement of that country.


 この短い文章にいくつもの問題がある。第1に、大河内訳と水田・杉山訳で「海岸や航行可能な大きい河川から隔絶されていた」の部分の解釈が違っている。竹内訳、水田訳は水田・杉山訳と同じ解釈であり、大内・松川訳は大河内訳と同じ解釈である。おそらくは水田・杉山訳が正しく、そうでなければseparateに三単現のsがついている理由が説明できない。大河内訳は間違っているとみられる。

 だが、水田・杉山訳には別の問題、第2の問題がある。「そのまわりにあってそれを海岸や航行可能な大河から隔てている、周辺の地方以外には」とはいったいどういう意味なのだろう。

 原文を読んでみると、3つの場所の関係がかなりはっきりと書かれている。まず、ここで主題になっている内陸地域がある。つぎに「周辺の地域」がある。そしてもうひとつ、海岸や大河がある。そして、内陸地域と海岸や大河の間に「周辺の地域」があるのだ。つまり、「周辺の地域」とは近くにある沿岸地域なのだ。

 ためしに、自分が住んでいる町や生まれ育った町とその周辺を思い浮かべてみる。海や大河、そこから離れたところにある町などを思い浮かべる。そして、トラックなどない時代、重いものは馬車で運ぶしかなかった時代にどうだったかを考えてみる。いまの時代にはたぶん、水上輸送より航空輸送の方が大切だから、空港、その近くにある町、空港から遠く、高速道路からも離れたところにある町を思い浮かべてみてもいい。そして、アダム・スミスがここで何を語っているのかを考えていく。

 こう考えていくと、既訳の第3の問題がみえてくるはずである。「したがって」「そのため」以下の部分が理解できないのだ。「内陸地方の改良・改善はつねに周辺地方に遅れる」では、よく言えば難解、悪く言えば支離滅裂という印象しか残らない。内陸にAという町がある。その周辺にBやCという町がある。ところがBやCからみれば、Aも周辺ではないか。どこがどこに遅れるというのか。

 だが、原文を読めば「周辺地方」がじつは、周辺にある地域のすべてを指しているわけではなく、内陸地域と海岸や大河の間にある地域、つまり沿岸地域だけを指していることがはっきりしている。「内陸地域の改良・改善はつねに沿岸地域に遅れる」と書かれているのだ。こうなら半分は分かる。内陸地域は陸上輸送に頼るしかないが、沿岸地域は水上輸送を使えるからだ。

 だがこれでもまだ、分かったような分からないようなという印象が残る。残る分かりにくさは「改良・改善」の部分だ。これはimprovementの訳語である。たしかに英和辞典に書かれている訳語だが、意味を正しく伝えているかどうか、おおいに疑問だと思える。英和辞典に書かれていようがいまいが、原文の意味を正しく伝える訳語を選ぶのであれば、おそらく「発展」か「進歩」だろう。「内陸地域の発展はつねに沿岸地域に遅れる」であれば、ほぼ分かる文になるはずだ。自分が住んでいる町や生まれ育った町とその周辺を思い浮かべて考えてみれば、なるほどと納得できるはずである。

 念のために付け加えておくが、以上の点を水田洋や大河内一男が分かっていなかったと言おうとしているのではない。原文を読めば分かる点なのだから、アダム・スミス研究者として知られた学者が分かっていなかったはずがない。意味が分からないからと解説をお願いすれば、はるかに丁寧に、はるかに深く意味を説明していただけるに決まっている。問題はまったく違ったところにある。原文を読めばスミス研究者でなくても読み取れることが、訳文を読んだ場合には読み取れないところにあるのだ。原文は外国語で書かれており、訳文は母語で書かれているのに、原文の方が意味を理解しやすいのである。

 原文を読めば読み取れることが、訳文からは読み取れない。ここに既訳の最大の問題がある。「経済学の初学者」でなくても読める本、「初めて本を読む人」に適した本のはずなのに、既訳では、経済学をよほど学んだものでなければ、あるいは解説がなければ理解できるはずもなく、「ものを考えること」を学べるはずもないものになっているのだ。

 このように書くと、おそらくすぐに反論が返ってくる。翻訳というからには解説や解釈ではなく、原文に忠実でなければならない、たとえば「内陸地域の発展はつねに沿岸地域に遅れる」というのは意訳であり、アダム・スミスはそうは書いていないという反論である。

 この反論に対しては、2つの点を指摘できる。第1の点は、「沿岸地域」と訳すのが意訳だというのであれば、「周辺地方」と訳すのも意訳であり、しかも間違った意訳だというものである。原文には、that countryと書かれている。そして、原文を読めば、このthat countryが、the country which lies round them, and separates them from the sea-coast, and the great navigable riverであることが分かる。これを「周辺地方」と訳すのは、かなりの問題ではないだろうか。

 第2の点はもっと根本的である。「原文に忠実」という言葉の意味をおそらくは間違ってとらえているというものだ。

 大河内一男にしろ、水田洋にしろ、もちろん、アダム・スミスの意図を十分に理解しているはずだ。だが、意図を理解することと翻訳することとは違うと考えている。翻訳は、原文に忠実でなければならない、だからこのような訳文でなければならないと考えているのだ。

 翻訳は原文に忠実でなければならない。たしかにそうだ。だが、忠実でなければならないのは、原文に対してであり、英和辞書に書かれている訳語に対してではないし、文法書や英文和訳の教科書に書かれている訳し方の原則に対してでもない。原文に忠実であることが至上命令である。英和辞典の訳語や英文和訳の原則を使ったのでは原文の意味を伝えられないのであれば、英和辞典の訳語や英文和訳の原則から思い切って飛躍しなければならない。これが原文に忠実ということの意味のはずだ。

 そして、原文に忠実であるとは、原文のスタイルに対しても忠実であることを意味する。「初めて本を読む人」に適した名著、「ものを考えること」を学べる名著が、解説抜きには読めない訳書になるとすれば、それは原文に忠実でない証拠だというしかない。原文に忠実に訳すというからには、訳書も、「初めて本を読む人」に適した本、「ものを考えること」を学べる本になっていなければならない。

 既訳のほとんどは、忠実であるべき相手を間違えている。原文にではなく、英和辞典や文法書、英文和訳の教科書に忠実に訳しているのである。

 以上のような観点から既訳をみてみると、いちばん古い竹内健二訳が、原文のスタイルに忠実な訳に比較的近いように思える。ただし、竹内がいう「子供の読む桃太郎や金時の本」(前掲書19ページ)のように読める本にはなっていない。論語や孟子の素読で鍛えられていなけば、なかなか読めない。いちばん新しい水田・杉山訳はおそらく、原文のスタイルからかなり遠い。大内・松川訳よりも後退しているように思える。大河内訳は竹内訳ほどではないが、大内・松川訳より原文のスタイルに比較的近い。最悪なのがおそらく、河出書房版の水田訳であり、これはもう、読むに耐えない悪訳である。

 いまの時点で新訳の余地がどこにあるのかといえば、論語の素読で鍛えられてはいないが、経済に関心をもち、日経新聞を読んでいる読者が楽しく読める訳ではないかと思う。もちろん、日経新聞の読み方の本が売られているほどだから、これは「誰でも楽しく読める」という意味ではない。だが、経済に関心をもつ読者が「初めてを読む」のに適した本、「ものを考えること」を学べる本にすることは可能なように思える。

(2003年2月号)