翻訳ベスト50候補




上田公子訳『推定無罪』

山岡洋一

 
 

『推定無罪』(スコット・トゥロー著、上田公子訳、文春文庫)は文句なしの名作・名訳だ。翻訳出版の世界では売れ行きと翻訳の質は反比例すると言う皮肉屋もいるが、この本は例外だ。名訳がベストセラーになっためずらしい例のひとつである。

 ベストセラーになる条件は整っていた。あの『ハーヴァード・ロー・スクール』(ハヤカワ文庫)のトゥローが10年後に書き上げたはじめての小説であり、米国で大ベストセラーになり、映画化された。邦訳のタイトルもいい。原題のPresumed Innocentを直訳しただけと思えるかもしれないが、そうではない。本書がヒットするまでは「無罪推定」いう訳語しかなかった。定着した訳語をひっくりかえした。思い切ったタイトルだし、すばらしいタイトルである。いまでは「推定無罪」が当然のように使われている。

 そして上田公子の訳がいい。物語は暗い。何事もないように見える表面を一皮むくと、暗い現実がみえてくる。暗い現実の皮をむくと、さらに暗い現実がみえる。その下には一層暗い現実がある。人生と社会の暗い現実を、重い文体で描いていく。これを下手な翻訳で読まされてはかなわない。

 上田訳がとくに冴えわたるのは会話の部分だ。たとえば訳書の上巻18ページにこういう部分がある。
 

「おいおい、ラスティ」とレイモンドが言う。「われわれがさがしているのは浮浪者だ。ろくでもないシャーロック・ホームズは必要ない。殺人課の刑事(デカ)どもの鼻を明かそうなんて思うんじゃないぞ。足元をちゃんと見て、まっすぐ歩け。いいな?  早く下手人をつかまえて、おれのしがない顔を立ててくれよ」……

  'Come on, Rusty,' Raymond says. 'We're looking for a bum.  We don't need fucking Sherlock Homes.  Don't try to get ahead of the murder dicks.  Keep your head down and walk in a straight line.  Okay?  Catch me a perpetrator and save my worthless ass.' ....


 声を出して読んでみるとすぐにわかる。言葉が生きているのだ。「おれのしがない顔を立ててくれよ」か。原文から思い切り飛躍していて、しかも原文にぴったりの台詞だ。

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