翻訳ベスト50候補




土屋政雄訳『アンジェラの灰』

山岡洋一

 

 2001年9月11日の夜、フランク・マコート著『アンジェラの灰』(新潮社)を読みなおしていた。土屋政雄の名訳に半ば酔いながら、子供時代の 悲惨さと滑稽さを描いた原著者の筆力に感嘆してもいた。

 著者は1930年にアイルランド移民の長男としてニューヨーク市で生まれた。父親は英国の支配に抵抗してお尋ね者になり、アメリカに逃れてきた が、当時は大恐慌時代だ。金がない、食べ物がない、小さな子供たちがつぎつぎに死んでいく。悲惨な生活のなかで、パパはせっかく稼いだ金で飲んだくれ、無 一文になって夜中に帰ってくる。
 

 二日後の真夜中、パパがタバコ探しから帰ってくる。マラキとぼくをベッドから起こす。体からウィスキーの臭いがする。ぼくたち を台所に並べ、気をつけをさせる。お前たちは兵士だ、アイルランドのために死ぬと約束しろ、という。(訳書53ページ)

Two days later Dad returns from his cigarette hunt.  It's the middle of the night but he gets Malachy and me out of the bed.  He has the smell of the drink on him.  He has us stand at attention in the kitchen.  We are soliders.  He tells us we must promise to die for Ireland.
 

 酔っぱらってというところがいかにもアイルランド人なのだが、それでも英国は800年にわたる抵抗に手こずり、この直後の1937年にとうとうアイルラ ンドを独立させている。アラブ人ならどうだろう。飲んだくれたりはせず、素面で息子や娘にこう教えているのではないだろうか。そんなことを考えながら読ん でいた。ちょうどそのとき、アメリカで大事件が起こっているとは夢にも思わずに。

 土屋政雄訳はマコートの飄々とした語り口を、みごとな日本語で再現している。何ともいえぬ可笑しみのある文章、それでいて読み進めるうちに涙で活 字がぼやけてくる文章なのだ。翻訳をしながら、土屋政雄はたぶん、原著者になりきっている。フランク・マコートというアイルランド人の子供時代ではなく、 自分の子供時代を描いているような気持ちになっている。そうでなければ、ここまで読者を感動させる訳文は書けない。名訳は何よりもまず、こういう心の状態 から生まれるのだろう。

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