翻訳ベスト50候補




村上博基訳『スマイリーと仲間たち』

山岡洋一

 

 村上博基訳『スマイリーと仲間たち』(ハヤカワ文庫)をル・カレの原文と対照させたときの衝撃は忘れられない。翻訳の理想像がここにあると思った。冒頭部分はこうだ。
 

 一見関係のないふたつの出来事が、ミスター・ジョージ・スマイリーを、そのあやぶまれた引退生活からよびもどすことになった。最初の出来事の背景はパリ、季節はうだるような八月、例のごとくパリジャンが、灼けつく日ざしと、バスでくりこむ団体観光客に、街を明け渡すときであった。

 Two seemingly unconnected events heralded the summons of Mr. George Smiley from his dubious retirement.  The first had for its background Paris, and for a season the boiling month of August, when Parisians by tradition abandon their city to the scolding sunshine and the bus-loads of packaged tourists.


 ル・カレの初期の作品は宇野利泰訳で、スマイリー三部作の第一作は菊地光訳で読んだ。宇野訳はなんとか我慢できるが、菊地訳は日本語で書かれた小説ならすぐに放り出すほど下手な文章だと感じた。第二作の『スクールボーイ閣下』からは村上訳だ。これを読むと、まるで違っていた。文句なしの名文だ。そして三部作の最後の『スマイリーと仲間たち』を読んだとき、原著と比較してみたいと思った。名文が名訳とはかぎらない。原文をかなりの部分無視した豪傑訳なら、名文を書くことは可能だからだ。

 原著と比較したとき、引用した冒頭部分で仰天した。小説はこうでなければと思えるほど見事な名文が、同時に、言葉の本来の意味で直訳だといえるほど原文の一語一句に忠実であることがわかったからだ。

 翻訳に少しでも取り組んだ経験があればすぐに気づくことだが、原文に忠実に訳そうとすると、いかにも不自然な訳文になることが多い。読者は訳文だけを読むのだからと、忠実さを犠牲にしても日本語として自然に読める訳文にしたくなる。日本語としての質の高さと原文の一語一句への忠実さを両立させるのは曲芸のようなもので、所詮無理だと思える。ところが、村上博基はこの曲芸を見事に成功させている。そしてル・カレが日本語で書いたのではないかと思えるほど、原文の文体と味を再現している。まさに名訳だ。
 
 

 ル・カレは、スパイ小説の分野から離れないので、エンターテインメントの作家だとされている。だが、『スマイリーと仲間たち』を読めば、ル・カレがプロットの面白さや読みやすさを売り物ににする流行作家とはまるで違うことがわかるはずだ。大英帝国の栄光を文学の世界で取り戻そうとするかのように、豊富な表現力と語彙を駆使する。ひとことで言えば、むずかしい。並の翻訳家ではまるで歯が立たない文章だ。村上博基以外に3人の翻訳家がル・カレの作品を訳しているが、質の違いが歴然としている。

 そこまでむずかしい原文を一語一句忠実に訳して、しかも原著者が日本語で書けばこうなるのではないかと思えるほど、日本語としてすぐれた訳文に仕上げているのだから、村上博基の翻訳には驚嘆するしかない。

 では、村上博基が『スマイリーと仲間たち』で日本語としての質の高さと原文の一語一句への忠実さを両立させることができたのはなぜなのか。おそらくは、ル・カレと少なくとも変わらないほど、表現力と語彙が豊富だからではないかと思える。

 たとえば前回に引用した冒頭部分で、by traditionを「例のごとく」と訳し、the bus-loads of packaged touristsを「バスでくりこむ団体観光客」と訳している。村上博基の翻訳が言葉の本来の意味で直訳だと思えるのは、このように、どの英和辞典にもあげられていない訳語、しかも原文の文脈のなかでみればこれしかないと思える訳語を随所に使っているからだ。ふつう、直訳といわれるのは、英和辞典と文法書に忠実な翻訳だ。だが、言葉の本来の意味で直訳とは、原文に忠実な訳のはずである。

 村上博基訳『スマイリーと仲間たち』には、このように、英和辞典にはない訳語がどの行にもあると思えるほどふんだんに使われている。この訳文を原文と対照させて読んでいくと、じつにさまざまなことがわかる。なによりも、文脈に応じた訳語が柔軟に多彩に使われているのをみて、おどろくはずだ。そして、訳文がぎこちなくなるのは、語彙が乏しいうえに英和辞典の訳語にしばられて、生きた言葉、生きた表現が使えないからであることがわかるはずだ。

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