名訳
 山岡洋一


村上 博基訳
『女王陛下のユリシーズ号』


  
 じつは、この小説には不満が2つある。どちらも原著者や訳者ではなく、訳書の版元に対する不満だ。

 第1はタイトルだ。第2次世界大戦に題材をとった物語なのに、なぜ「女王陛下の」なのか。原題はHMS Ulyssesだから「英国軍艦」か「国王陛下の」でなければならないはずだ。当時はジョージ6世の時代であり、エリザベス2世はまだ即位していない。大 ヒット映画の『女王陛下の007』にあやかることはないのにと不満になる (実際には、『女王陛下のユリシーズ号』の邦訳出版は『女王陛下の007』の公開よりも早いので、あやかったわけではないのだが) 。

 第2は「海洋冒険小説」の代表作とされていることだ。特攻にも似た囮作戦でほんの数人を除く全員が戦死し、護衛していた船団もほぼ壊滅する物語がなぜ、 「冒険小説」なのだ。本書に似た本は何かと考えたとき、『白鯨』を思い浮かべることもあるだろう。エイハブ船長役はヴァレリー艦長、イシュメールに似てユ リシーズ号の物語を伝える役割を担うのがニコルス軍医大尉だ。だが、まず頭に浮かぶのは吉田満の『戦艦大和ノ最期』ではないだろうか。もちろん小説ではな いが、物語も印象も似ている。「徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米 今ナオ埋没スル三千ノ骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ 如何」。これを「冒険」などと呼ぶものがいるだろうか。だったら、『女王陛下のユリシーズ号』も「海洋冒険小説」ではありえないのではないだろうか。

 こんな点に不満をもつのは、『女王陛下のユリシーズ号』の感動が大きかったためだろう。小説はこうでなければと思える名作なのだ。映画でもテレビでも、 ここまでの感動はおそらく味わえない。本だからこその感動、それをわずか800円強で何度でも味わえるのだから、これほど安上がりでこれほど贅沢な時間の 過ごし方はない。

 本書の迫力を支えているのは、いうまでもなく何よりも原著の凄まじい物語と引き締まった文章だが、それと少なくとも同等に寄与しているのが村上博基の名 訳である。

 じつはこの本ははるか以前に紹介しようと考えていた。ところが、本棚をいくら探しても原著がでてこない。たぶん、誰かに貸したままになっているのだろ う。そこでもう一度買おうとしたが、絶版になっていて手に入らない。マクリーンの代表作なのに、原著が手に入らないのだ。ようやく入手できたのは、大活字 版だった。訳書はハヤカワ文庫で簡単に買えるのだから、現時点では原著より訳書の方が読まれていると考えて間違いない。この一点をみても、村上博基の翻訳 がいかに優れているかがわかる。

 翻訳の特徴や質をみるには、冒頭部分の原文と訳文を比較するのがいちばんいい。冒頭はどの著者もどの訳者もいちばん力をいれる部分だし、いちばん時間を かける部分だ。それに前がないので、訳文が文脈の影響を受けることがない。前の流れがどうだったかを無視して翻訳の質を考えられるのは冒頭部分しかない。 そこで、冒頭部分の原文と訳文を比較してみよう。

Slowly, deliberately, Starr crushed out the butt of his cigarette.  The gesture, Captain Vallery thought, held a curious air of decision and finality. He knew what was coming next, and, just for a moment, the sharp bitterness of defeat cut through that dull ache that never left his forehead nowadays.  But it was only for a moment -- he was too tired really, far too tired to care. (Alistair Maclean, HMS Ulysses, Compassion Press, p. 1)

 おもむろに、もったいぶって、スターは煙草をもみ消した。ヴァレリー艦長はその仕種に、なんとなく決断と最終的態度があらわれているように思った。彼は つぎになにがくるかを知って、すると一瞬、ひりりと刺すようなにがい敗北感が、このところ前頭部から消えぬ鈍痛のあいだをつらぬいた。が、それもほんの一 瞬だった。彼は疲れていた。意に介するにはあまりに疲れていた。(アリステア・マクリーン著村上博基訳『女王陛下のユリシーズ号』ハヤカワ文庫、15ペー ジ)

「おもむろに、もったいぶって」だけでもうぞくぞくするような訳文だ。原文がSlowly, deliberatelyであるのをみると、村上博基の筆の冴えは信じがたいほどだと思えてくる。ふつうなら「ゆっくりと慎重に」だろうか。試みに、第1 文を「ゆっくりと慎重に、スターは煙草をもみ消した」にしてこの段落を読んでみるといい。それだけでぶち壊しだ。それだけで、500ページ近くもある小説 を読もうとは思えなくなる。

「おもむろに」は思いつけないわけではないが、普通の英和辞典にはない訳語だ。もうひとつの「もったいぶって」はそう簡単に考えつく訳語ではない。だが、 村上博基の訳文を読んだ後で考えると、もうこれ以外にはありえないと思える。Slowly, deliberatelyは「おもむろに、もったいぶって」と訳す以外にない。そう思えるのだ。コロンブスの卵のようなもので、いわれてみればそれしかあ りえないのだが、ちょっとやそっとで思いつけるものではない。翻訳はこうでなければいけない。

 このdeliberatelyがslowlyの類語であることにも注目したい。ここで原著者はほぼ同じ意味の副詞を2つ並べて、意味を強めているのだ。 だから、日本語という観点に立つなら、「おもむろに、もったいぶって」としなくても、「おもむろに」だけでもよかった。日本語の本来の生理では、このよう に形容詞や副詞の類語を並べる方法はあまり使わない。だが、村上博基は律儀に訳している。ここだけではない。小説全体で一語一句を丁寧に訳している。

 翻訳というものの目的を考えるなら、原文の内容を、思想を、論理を、感情を母語で伝えるために必要だと考えることをすべて行うのが翻訳者の責任である。 この責任を果たすには、原文の一語を二語で訳そうが、十語で訳そうが、一ページで訳そうが、逆に、原文の二語を一語で訳そうが、十語を一語で訳そうが、一 ページを一語で訳そうが、翻訳者に自由が認められていなければならない。不必要な表現は削り、必要な表現を加えることぐらいは、翻訳者の自由でなければな らない。だが、日本が後進国だった時代には、翻訳者にそのような自由は許されていなかった。翻訳者は原文の一語一句を忠実に訳していくものとされていた。 先進国の仲間入りを果たしたと胸をはるようになっても、翻訳についてのこの見方は変わっていない。いまでも翻訳の発注者には、翻訳書の編集者には、原文の 一語一句と訳文とをつきあわせて抜けがないようにするのが自分の役割だと考えている人が少なくない。

 原文の一語一句を丁寧に訳してほしいといわれると、翻訳者は困惑することが少なくない。英語と日本語は違うのだといいたくなる。英文和訳と翻訳は違うの だといいたくなる。そういう苛立ちを感じたとき、村上博基の翻訳を原文と比較しながら読むと、救われるように思う。たとえばこの『女王陛下のユリシーズ 号』がそうだが、原文の一語一句をひとつも落とさず、何も加えず、丁寧に訳していく。それでいて、翻訳であることを忘れさせるように自然な日本語を書く。

 原文の内容、思想、論理、感情に忠実であろうとすれば、原文の一語一句に拘泥するわけにいかないとも思う。だが、村上博基の翻訳を読むと、原文の一語一 句を忠実に訳すことによって、原文の表現を見事に母語で再現できるのだと気づかされる。そのために必要なものはもちろん、半端ではない。英和辞典にある訳 語には頼らず、たとえばSlowly, deliberatelyを苦もなく「おもむろに、もったいぶって」と訳せる日本語力である。

 もうひとつ、『女王陛下のユリシーズ号』について触れておきたい点がある。この訳書が出版されたのは1967年だ (文庫版はその5年後の1972年に出版された) 。村上博基は1936年生まれだから、30歳か31歳のときの翻訳なのだ。もちろん、過去の例をみれば、もっと若い年齢でいまに残る名作を書いた作家が何 人もいる。だが、翻訳という仕事は違うと思う。30歳といえば、まだせいぜい二葉にすぎない。二葉より芳しといえばそれまでだが、30歳でこれだけの仕事 をした翻訳家がいることを、若手の翻訳者に是非知っておいてもらいたい。

(2003年8月号)