名訳
須藤朱美

岸本佐知子訳『中二階』



  ニコルソン・ベイカー作の翻訳書、『中二階』を読んだとき、アメリカにはおもしろい小説を書く人がいるものだと思いました。会社勤めをする 25歳の青年が昼休み、切れた靴ひもの換えを買って昼食を済ませ、中二階にあるオフィスに戻ってくる、それだけの話です。この本を読んでいて「それで、こ の先どうなるの」という気持ちは起こりません。だというのに退屈になることもありません。主人公の青年が真剣に理屈をこねくり回している、本当にそれだけ の米国版徒然草。ありふれた日々の一コマを滑稽なほど生真面目に切り取った、風変わりな小説です。
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 原書はいたって平易な文章で書かれています。蒸気船の仕組みやドアノブの形状など、普段の生活で頻繁には用いない単語が散りばめられているものの、文章 自体に気取りがなく、読みやすい英語で書かれています。日本の読者が読んでも、英語を母語とする読者とほぼ同程度に内容を理解することができます。ただ、 同じように楽しめるかと聞かれると、即座に首を縦に振れないものがあります。

今回の作品には日用品にまつわる固有名詞が数多く登場します。この日用品というのが曲者で、米国人にお馴染みの商品であっても、日本人にはどことなく特別 な印象を与えるのです。米国人が「ああ、よくあるよね、こういうの」と思う日常も、日本人にはちょっと洒落た、非日常に感じられることがあります。日本の セブンイレブンでおでんを買うこととイギリスのマークス&スペンサーでチョコレートバーを買うのでは、同価値の行為であっても受ける印象が異なり ます。

原著を読んでいて、たとえ理解の深さが米国人と同じくらいであっても、受ける印象が違えば当然その本を楽しめる度合いは変わってきます。すぐにイメージを 喚起できない事物をさもありふれた風景のように提案されると、こちらとしては妙に冷めた気持ちがするだけで、少しもおもしろくはないのです。外国生活が長 い方ならいざ知らず、私が原書を読んだときに感じたのはそういう気持ちでした。

 それが訳書の『中二階』を読むと、おもしろく感じられるから不思議です。思い切った意訳で本の趣旨を変えているのだろうと疑いながら、原書と付き合わせ てみました。ところが派手な意訳をしている箇所はありません。この効果の原因はどうやら訳文の視点の置き方にあるようなのです。つまり訳書のもののとらえ 方が原書とはまったく異なっているのです。原文が読者に共感を求めるような文章であるのに対し、訳文はアメリカの生活を外側から眺めたような描き方をして います。

日本文化圏にどっぷり浸かった私が原書を読むと、無理して欧米人の真似をしているような息苦しさと照れ臭さがあり、いまひとつ読書に集中できません。岸本 訳『中二階』ではその意識の差を埋めるような訳文が並んでいます。読んでいる読者が背伸びをしなくてすむような雰囲気が作られているのです。文字を追う以 外の労力が減る分、読む人間は読書に専念でき、内容を楽しむ余裕を持てるのです。

 これに似た現象を世阿弥の『風姿花伝』、ものまねじょうじょう物學條々の中に見つけました。

物まねの品々、筆に つ盡くし難し。さりながら、この道の肝要なれば、その品々を、いかにもいかにも嗜むべし。およそ、何事をも、残さず、よく似せんが本意なり。しかれども、 また、事によりて、濃き、薄きを知るべし。(岩波文庫p23、一部表記修正)

「もらすことなく、等価の意味を持つ訳を志すのが本意だが、ところどころで力具合を調節すべき」とは、まさに岸本訳『中二階』が体現している、ひとつの翻 訳の理想形です。

このあと世阿弥は、ありのままの姿を映すだけでは「餘りに賤しくて、面白き所有るべからず」と述べています。翻訳の場合、すべてをむき出しにする訳文は賤 しいというより雑多な印象を与えます。たしかにありのままの素直すぎる直訳であっても、誤訳さえなければ意味は通じます。しかし読者が楽しんで読む文章で はないのです。確かな手ごたえを感じさせない文章に魅力などないからです。

原書を読んだ際におもしろいと思えなかったのは目の前に差し出された生活に実感が湧かなかったからです。米国の日常生活にトリップした感覚を、私は持つこ とができませんでした。しかし、映画やテレビドラマを観るように、外国人の生活を外から眺めることの実感は持てます。だから外から眺めるような視点で訳さ れた岸本訳『中二階』には手ごたえを感じ、おもしろいと思えるのです。

 では、例を挙げて見ていきます。

昼食前に洗面所に立ち寄ることは午前中の仕事の一環であって、私に課された他のもろも ろの雑務と同様、ひとつのルーティン・ワークなのだ。したがって、会社に何ら利益をもたらさないとはいえ、それは私の仕事の一部であり、昼休みの日光と歩 道と自由意志の一時間とは一線を画すものだ。となると、会社は私の午前中三回、午後三回、計六回の洗面所行きに対して賃金を払っていることになる。(ニコ ルソン・ベイカー著岸本佐知子訳『中二階』白水uブックスp96)

.... ; the stop at the men’s room was of a piece with the morning’s work, a chore like the other business chores I was responsible for, and therefore, though it obviously didn’t help the company to make more money, it was part of my job in a way that the full hour of sunlight and sidewalks and pure volition was not.  What that meant was that my company was as a rule paying me to make six visits a day to the men’s room―three in the morning, and three in the afternoon ....  (原書ペーパーバック版p71、72 )

 前から忠実に訳しているにもかかわらず、訳文は話し手の意識を故意に分断して訳しています。思考の流れるままに続く原文に比べ、訳文はすっきりと明確に 意味を提示しています。原文は辞書を引かずに読める簡単な英語で書かれています。むしろ文章構造から言えば訳文のほうが硬いくらいです。にもかかわらず読 んでいて容易に風景を思い浮かべられるのは日本語に訳された『中二階』なのです。

 その効果を引き出している理由のひとつは的確な訳語選択にあると思います。岸本訳『中二階』では、解釈に幅のある言葉にきちんと色がつけられ、明快に表 現されています。例えば原文1行目のof a piece withを辞書で引くと「〜と同じ内容/性格の」とあります。もしここを「午前中の仕事と同等の」などとすれば、途端に臨場感が消え、ざらついた印象を与 えます。仕事場の適度な緊張感と公共性を発揮する日本語として、訳文の「一環である」という表現はこの雰囲気にぴたりとはまっています。

 また原文5行目のin a way thatのwayは易しく思われがちな単語ですが、じつのところ誤解釈されることの多い、ひじょうに難しい単語です。わかった風な顔をしつつも、語釈しき れていない訳者はたいていこの言葉をかたっぱしから「方法」と訳していきます。すべてが間違いというわけではありませんが、「方法」一辺倒で訳している と、どうしても違和感の生じるところが出てきます。「方法」という言葉の漠然とした包容力にすべてを委ね、他の解釈を試みる手間を惜しんだがゆえに、要領 を得なくった訳文は多々あります。そういった違和感のあるwayは「状態」と解釈すると納得いくことがよくあります。この解釈はジーニアスにも第9義でき ちんと載っています。岸本訳ではここを「方法」ではなく「状態」だと読み取った上で、助詞の「の」一言で訳しきっています。

  of a piece withとwayを見ただけでも、世阿弥の言う「濃き、薄き」を心得た訳文であることがわかります。すっと頭に意味が浸透していく味わいは、意訳という派 手な一発芸に頼らない地道な積み重ねの上に、たしかな英文読解力に裏付けられた職人技のさじ加減があって実現されているように思います。

次は会話文を例に見ていきたいと思います。

「いいや、取り寄せるのさ。UPSの空輸便でな。テキサスのインディアンの職人に特別 に作らせてるんだ。アルパカと細手のツイードを縒り合わせて仕上げに防水スプレーをかけてある」
「そいつはすごい」私は言った。アベラードとうまくやっていくコツは、仕事のこと以外で彼が言うことは何一つ真に受けない、ということだった。「それ じゃ、お先に」(p134)

“I have them flown in UPS blue.  An Indian guy in Texas makes them for me.  He blends alpaca and some of the finer tweeds.  Then he sprays it with Krylon.”
    “Nice,” I said.  The secret to working for Abe was realizing that nothing he said outside of company business, was serious or true.  “Take it easy.”  (p98)

 トイレの入り口でばったり会った主人公と上司。主人公は話の流れから、上司も靴紐はコンビニで買うのかと軽い気持ちで尋ねます。上の引用部分はその後に 続くシーンです。嫌みったらしい上司アラベートのセリフは原文から離れることなく、人物像がぱっと浮かび上がる訳文になっています。それに答える青年のセ リフもとても原文に素直な訳です。しかし最後のtake it easyは日本語に引き寄せ、変化がつけられています。この状況下で「どうぞお気楽に」と、トイレに入るよううながす部下はおそらく日本に存在しないで しょう。「それじゃ、お先に」という訳は原文とにらめっこしているだけでは、けっして浮かんでこない、場の雰囲気を濃縮した訳文です。

岸本訳『中二階』は翻訳姿勢を一貫させるべく「この状況で日本人なら何と言うか」を考えながら訳されていると言えます。姿勢がはっきりしていないのだとし たら、こういう訳は絶対に出てこないはずなのです。

 岸本訳『中二階』はどこか世阿弥の能を思わせます。ひとつは前面に日本文化として君臨すべく存在していること。そしてもうひとつは異次元の世界を身近に 感じさせる力を持っていることです。能が幻の世界をこの世に現すように、岸本訳『中二階』は遠く離れた外国の日常を日本人に伝えています。破綻のない、水 晶玉のような訳文を、みなさまもぜひ一度ご耽読ください。