翻訳批評
山岡洋一

芝山幹郎訳ヘイウッド・グールド著『カクテル』

  この何か月か、翻訳物の小説ばかりを読んでいる。昼間は経済、経営、金融といった分野の翻訳で生活費を稼ぎ、夜になると机に足を投げ出す か、布団に寝ころがって小説を読む。ほんとうはそんなことをやっている場合ではないのだが、生活費稼ぎの翻訳のために読んでおくべき本や文献が山ほどある のだが、かまうもんかと小説を読みつづけている。

 翻訳物の小説を読むのは仕事のためという面もないわけではないが、何よりも楽しみのためだ。だが、なかには素直に楽しめない本もある。いや、素直に楽し むことができない本の方が多いといえるほどだ。何点か連続して楽しめない本にぶつかると、だんだん不機嫌になってくる。楽しみのために読む小説が楽しくな いというのは、いったいどういうことなんだと向かっ腹すらたってくる。

 たとえば、スコットランドを舞台にしたある本では「南部〔イングランド〕」とか、「アルスター女〔アイルランド系〕」と かの馬鹿げた割注が大量についていた。別の本を読むと、〔これは間違い。原著者の記憶違いか〕という割注まであった。

 次の本を読むと、「猫のゆりかご〔日本でいう「あやとり」〕」と書かれていた。これには参った。「良い朝を〔日本語でいう「おはよう」〕」と書くような ものではないか。もちろん、原文のcat's cradleを単純に「あやとり」と訳すわけにはいかない理由があった。その後に猫の話になるのだから。だが、プロである以上、読者からお金をいただく以 上、技をみせてほしい。これではお勉強になって読書を楽しめなくなる。

 もちろん、問題は割注だけではない。だが、こういう割注をつけて平然としているのは、翻訳者の姿勢がどこかおかしい証拠なのだ。そして、その姿勢は翻訳 のすべての面にあらわれる。割注は一例にすぎない。たとえば、〔これは間違い。原著者の記憶違いか〕という割注についていうなら、間違いなら黙って直すの が翻訳者として当然の姿勢だ。戯曲の台詞に間違いがあったとしよう。俳優が舞台で戯曲どおりに台詞をしゃべり、その後に独り言のように「この台詞は間違 い、作者の記憶違いでしょうか」といったらどうなるか。この一言で、観客は白けるに決まっている。勉強会じゃないんだから、勘弁してほしいと思うに決まっ ている。翻訳は違うという理由がはたしてあるのだろうか。

 大上段に構えた議論をするなら、欧米の小説が日本に紹介されるようになって150年たったいまでも、肝心要の点が理解されていない面があるのだ。肝心要 の点とは、小説が娯楽だという当たり前の点である。これを象徴するのが「文学」という言葉だ。小説ではなく文学、そして文学ではなく、文学なのだ。日本人 の作家が書いたものは小説だが、欧米の作家が書いたものは文学だとされている。翻訳者の肩書もたとえば英米小説翻訳者ではなく、英米文学翻訳家、あるいは 英米文学者だ。文学者ではなく文学者である。もちろん、わたしは学者ですなどという人はまずいない。そこまで愚かな人はいまでは少なくなった。だが、翻訳 者が文学者であった時代、翻訳が研究のためのものであった時代に作られた慣習、たとえば割注という慣習を笑い飛ばせる人はそう多くない。小説は娯楽だと言 い切れる人はそう多くない。エンターテイナーに徹する人はめったにいない。エンターテイナーとして通用するほどの知性と教養と才能がない翻訳者の絶好の逃 げ場になっているのが、文学研究という建前なのだ。

 翻訳物の小説を次々に読んでいて、外れがいくつも続いたとき、無性に読みたくなったのが、芝山幹郎訳の『カクテル』だ。芝山幹郎が翻訳の世界に事実上は じめて登場したのがこの作品だ。殴り込みをかけたというべきかもしれない。それほど強烈な作品なのだ。原著も強烈だが、翻訳も強烈だ。

 知り合いの編集者によれば、芝山幹郎はインテリやくざなのだそうだ。まさに至言だと、『カクテル』を読みなおすと痛感する。インテリだから、しっかりと 原文を読み込んで破綻なく翻訳する。やくざだから、権威を歯牙にもかけない。訳者あとがきで芝山はこの作品を「二十世紀末をいろどる高級娯楽小説」として いる。文学ではなく娯楽なのだ。そして翻訳も、それに相応しい。日本語の高級娯楽小説として目一杯楽しめる高級娯楽翻訳だ。

 じつはもうひとつ、インテリやくざとは言いえて妙ではないかと思わせる点がある。酔っぱらっている場面、らりっている場面、悪態をつく場面、殴り合いの 場面、セックスの場面になると、筆が一段と冴える。言い換えれば、文庫本で600ページの『カクテル』全編で、芝山の筆は冴えわたる。『カクテル』はそう いう小説なのだ。筋はあるようでないようなもの。バーテンダーを主人公に、芝山によれば「地獄めぐり」のような半年間を描いた作品だ。プロットなどおかま いなし。ネタバレの心配はなし。ひたすらパワフルな文章で20世紀末のアメリカを描き、一気に読ませるのがこの小説だ。

 具体例をあげるのは容易ではない。まず、原著がむずかしい。もう15年もまえ、訳書をはじめて読んだとき、原著も読んでみようとしたが、とても歯が立た なかった。凝った表現がふんだんに使われているし、酒場から1980年代のニューヨークを描いた小説だから、俗語も多いし、あまり馴染みのない固有名詞が 大量にでてくるし、もちろん、カクテルの名前をはじめ、酒の話が大量にでてくる(アルコールが飲めない体質だから、カクテルの名前など知っているはずがな い)。辞書を引かなければちんぷんかんぷん、辞書を引いても分からない部分が多すぎた。こんな本を600ページも訳したというだけで、脱帽するしかないと 思った。いま読みなおしても、その印象はそれほど変わらない。だがもちろん、そんな部分ばかりではない。たとえば次のような文章もある。

 それでもこの仕事はやめられなかった。夕方の早い時間の酒場には、なにかがある。た と えば、窓をぬけて差し込んでくる光の矢が酒壜を射抜く。角氷を二、三個ロックグラスに落とし、それを掲げてみる。するとどうだ、グラスはプリズムになるで はないか。マティーニの縁どりは水銀のようにゆらめく。マンハッタンは幼年時代の恋人の髪のように、たそがれのなかで鳶色にゆれる。ニュージャージーのむ こうに太陽がおおいそぎで沈むと、カクテルは夕方よりもきりりと冷え、さっきより早足で脳髄にとどく。娘たちはきれいになる。今夜、もしかすると生涯の恋 人に出会えるかもしれない。そんな期待の気配を、彼女たちは身にまとうのだ。くちびるがまんなかで分かれ、身をのりだして人の話に耳をかたむけ、いつもよ り大きな声で長く笑うようになる。男たちはめいっぱい優雅にふるまおうとする。「プリーズ」と「サンキュー」と「エクスキューズ・ミー」とが店にあふれ る。こうしたカクテル・アワーに喧嘩を見かけることはめったにない。客を力ずくで店から追い出さなければならない事態も、まずないといってよい。もめごと が生じるのはもっとあと、闇の色が濃くなってからのことだ。なにもかもが有刺鉄線のようにささくれだち、娘たちの髪は乱れ、男たちはふさぎこみ……そう、 希望がすべて死に絶えてしまってからのことだ。(芝山幹郎訳グールド著『カクテル』文春文庫442〜443ページ)
    I couldn't not help it.  There's something about a saloon in the shank of the evening.  The way the light streams through the windows and hit the bottles.  You drop a few ice cubes in a rock glass, hold it up, and bingo, you've got a prism.  Martinis have a quicksilver glitter about them.  Manhattans are auburn in the twilight like the hair of your childhood sweetheart.  As the sun sinks quickly behind New Jersey, the cocktails are colder, they reach your brain quicker.  The girls are prettier. They have an expectant air about them as if this might be the night they meet the love of their lives.  Their lips are parted, they lean forward to listen with a bit more attention, they laugh louder and longer.  The guys are on their best behavior, "pleases," "thank-yous," "excuse mes," all over the place.  You very rarely see a fight during the cocktail hour, and almost never have to make a forcible ejection.  That comes later, in the dark of night, when everything goes down like barbed wire, the girls are disheveled, the guys are brooding -- and all hopes have gone for naught. (Heywood Gould, Cocktail, Pocket Books, p. 254)

 たとえば、and bingoという何でもない言葉が「するとどうだ」と訳されている。また、the cocktails are colder, they reach your brain quickerという何ということもない文章が、「カクテルは夕方よりもきりりと冷え、さっきより早足で脳髄にとどく」と訳されている。翻訳はこうでなけ ればいけない、それよりも日本語はこうでなければいけないと思える訳文ではないだろうか。

 残念なことだが、『カクテル』は絶版になっていて、古書店でしか買えない。ヘイウッド・グールドが小説を書かなくなり、『カクテル』の言葉を借りれば、 「ハリウッドに自分を売りわたしてしまった」(69ページ)からかもしれないが、アメリカでも原著が絶版になっている。

 だが、芝山幹郎が『カクテル』を「高級娯楽小説」だと言い切ったことの意味は小さくないと思う。文学ではない、娯楽なんだといっているのだ。「二十世紀 末をいろどる高級娯楽小説」をここまで見事に訳したのだから、「二十世紀初めをいろどる高級娯楽小説」ともいうべき『ユリシーズ』を芝山幹郎が訳したらど んな作品になるだろうか。これは『カクテル』をはじめて読んだときに思ったことだが、何年かぶりに読み返して、その思いがさらに強くなった。『カクテル』 はどこか、『ユリシーズ』を連想させる小説なのだ。