翻訳の作業環境
井口耕二
翻訳作業の効率化
 
翻訳の作業は、大きくふたつに分けることができます。
•    人間よりコンピューターにやらせたほうがいい部分
•    人間がやらなければならない部分
ここを上手に切り分け、適切なツールを使うと、手間を省いて効率を高めることができます。
人間よりもコンピューターにやらせたほうがいいのは「頭よりも手が意味を持つ部分」です。具体的には入力や検索作業、訳語の機械的な統一などが挙げられま す。この部分をパソコンに処理させると、スピードアップとミス低減が両立できますし、キーボードをたたく回数も減ってけんしょう炎の予防にもなります。
一方、人間がやらなければならないのは「手よりも頭が意味を持つ部分」です。訳語の適否を判断する、訳語を統一すべきかどうかを判断する、訳文を案出する などがこちらに属します。ツールややり方によってはこの部分に悪影響が出るので注意が必要です。作業効率が高くなっても、アウトプットの品質が落ちたので は何をしているのかわからなくなります。
以下、人間よりコンピューターにやらせたほうがいい部分をコンピューターに任せるための工夫やツールなど、私が実践している効率化のアイデアをご紹介しま す。

■フォント設定
まずは作業画面のフォント設定です。ポイントはふたつ。
フォントは等幅とし、プロポーショナルフォントは避けたほうがいいでしょう。フォント設定で「MS P明朝」のように「P」と付いているものがプロポーショナルフォントです。プロポーショナルフォントは見た目が美しいのですが、全角・半角の区別がつきに くく、全半角の入力ミスに気づかないおそれがあります。
もうひとつはフォントの大きさです。濁点と半濁点が瞬時に判断できる大きさにします。きちんと入力しても日本語入力ソフトの入力支援機能で濁点と半濁点が 入れかわることさえあるので、目で見てさっと判定できるようにしておくべきです。
余談ですが、フォントを大きめにするなどを考えれば、モニターサイズも大きめにしたほうがいいことになります。ノートパソコンでも、外部モニターとして大 きなモニターを接続すれば大画面で快適に作業が進められます。

■入力の工夫
日本語入力のIMEもカスタマイズで使い勝手が大きく変化します。
日本語IMEはWindowsなどのOSに付属するものを使っている人が多いと思いますが、日本語の入力についてはATOKが優れているようです。後述す る『共同通信社 記者ハンドブック辞書』が使えるのもATOKの利点です。
日本語IMEカスタマイズの第一歩は、よく使う単語の登録です。
たとえば、私が使っているATOKには、「懸濁」という単語が「けんだく」という完全な読みで登録してあります。私が訳す技術論文でよく出てくる単語なの ですが、「けん」という漢字は50字もあるのでこの登録がなかったら大変なことになります。「この漢字、前にも出すのに苦労したな」と思ったら、どんどん 登録することをお勧めします。
とてもよく使う単語は、短縮読みで登録すると便利です。私は、「地球温暖化」という単語を「きて」という読みで登録しています。「きて」とは、 「Global Warming」の頭文字「GW」の位置にある日本語キーです。私は日本語をカナキーで入力するのですが、このように「英単語の略になるキーを短縮読みと して使う」ということをよくします。頭の中で「Global Warmingは……」と考えながら「きては」とタイプして漢字変換すると、「地球温暖化は」となるわけです。
当然ながら、ローマ字入力でもこの方法が使えます。「Global Warming」なら「gw」という読みで登録すればいいし、「Active Carbon」なら「あc」という読みで「活性炭」を登録するという具合です。
「きて」や「gw」なら2ストロークですが、「ちきゅうおんだんか」では11ストローク(シフトキーや濁点にも1ストロークずつ必要)、ローマ字入力で 「chikyuuonndannka」と入れるなら16ストロークも必要になります。それが2ストロークと入力の手間が大きく減るわけですが、この方法の メリットはそれだけではありません。入力ミスが減るのです。正直な話、私には、「ちきゅうおんだんか」や「chikyuuonndannka」を、毎回、 正確にたたける自信がありません。そんな私でも、「きて」や「gw」を打ち間違うことはまずありません。
打ち間違いといえば、自分がよく打ち間違えるパターンも登録してしまうと便利です。私は、「まする」→「ます。」「あるる」→「ある。」などを登録してい ます。「。」を入力するときに左手小指のシフトキーが遅れることが多いからです。「すまる」→「ます。」などという変わった登録もあります。なぜか、 「ま」の前に「す」をたたいてしまうことがけっこうあるからです。ほかに、「ぎじゆつ」→「技術」(「ゅ」のシフトキーが間に合わない)、「けんきゅぅ」 →「研究」(シフトキーをはなす前に「う」をたたいてしまう)なども登録してあります。
よく使う記号も登録しましょう。「から」→「〜」などのほか、「どそ」→「℃」なども便利です(読みは「どC」の意味)。
ここまではMS IMEでも使えるテクニックですが、ATOKなら、別売の『共同通信社 記者ハンドブック辞書』が使えます。この辞書を登録しておくと、共同通信社の記者ハンドブックでは開くことになっている漢字や言い換えることになっている 漢字には注意をうながすメッセージが出ます。下図は、「所詮」と入力・変換したときのものです。

ATOK
 

■原稿の下準備
手の代わりをパソコンにさせて効率を高めようとする場合、原稿が電子ファイルになっていないと不便です。産業系の翻訳では原稿がWordなどの電子ファイ ルで届くのが一般的になっていますが、出版系では紙の完本しかないことがよくあります(PDFファイルがもらえることも増えていますが)。
紙しかない場合は、スキャナーで読み込み、OCR(光学式文字認識)でテキストファイルにします。やり方は、大きく2種類にわかれます。
•    完本をばらし、両面が読み取れるスキャナーでページ両面を読み取る
•    ページをコピーしてスキャナーで読み取る
私は後者の方法を使っています。具体的には、書籍の1ページがA4にぎりぎり収まるくらいまで拡大コピーしてからスキャンしています。拡大コピーしたもの は、翻訳作業中、モニター横に置いて参照します。拡大コピーで字が大きくなっているので読みやすくて便利です。
スキャナーは片面にせよ両面にせよ、ADF(自動給紙)付きのものを使います。ADFがあれば、100枚ほどを自動でスキャンしてくれるからです。
PDFファイルがもらえれば、そこからテキストを書き出せばいいので、スキャン〜OCRという処理は不要になります。
OCRしたファイルあるいはPDFから書き出したファイルは、不要な改行がたくさん入っていることがあります。この改行は、置換機能で削除してゆきます。 正規表現による置換が使えるエディターなら「\n」(正規表現で改行を意味する)を半角スペースへと置換します。Wordなら「^p」(特殊文字→段落記 号)を半角スペースへと置換します。
ただ、確認しつつ延々と置換してゆくのは大変です。そのため私はSimplyTermsという自作ツールで処理しています(SimplyTermsはウェ ブに公開しています)。
SimplyTermsの公開場所
http://homepage2.nifty.com/buckeye/software/transtools.htm
 
SimplyTerms

SimplyTermsの「整形・編集」タブにある機能を使って処理すると、段落の可能性がある部分以外は改行がなくなります。残った不要な改行は、上述 の方法で削除してゆきます。

■辞書引き
辞書は、パソコンにインストールするタイプのものを使い、Logophile(旧Jamming)などの辞書ブラウザで複数辞書の一気引きをしてしまいま す。
原文の当該部分を選択してマクロを起動すると自動で引いてくれるようにもしています。こうすると辞書ブラウザへ入力する手間が省けるほか、万が一、思い込 みで読み違いをしている場合にも間違った単語を引いてしまうミスが避けられます。
辞書引き用のマクロは、ウェブ上に各種、公開されています。秀丸エディター用なら、私のSimplyTermsにも同梱してあります。

■人名・製品名などはまとめて置換
人名・製品名など、一定の訳語をくり返すものはまとめて置換してしまい、それをコピーペーストすると、手間も省けるし入力のミスも防げます。用語リストに 従ってまとめて置換するプログラムがいくつか、ウェブ上に公開されているので、探してみてください。私のSimplyTermsでも行えます。

■コピーペーストの省力化
コピーペーストは、ドロップダウンメニューではなく、ショートカットキーで行います。範囲選択をしてCtrl+Cでコピー、貼り付ける場所へ行って Ctrl+Vでペーストです。
私はさらに一歩進め、範囲選択をしてマクロを起動すると訳文の末尾へ自動的にコピーされるようにしてあります。この機能も、秀丸用のマクロは SimplyTermsに同梱してあります。

■grepツール
翻訳作業の途中、複数ファイルの内容を検索したり変更したりしたいと思うことがあります。そのような場合、grepという機能が便利です。
秀丸でgrepを起動すると、次のダイアログが出ます。

grep
 
ここで検索条件を設定すると、複数ファイルを検索し、結果を一覧にしてくれるわけです。必要に応じて置換も行えます。
エディターのgrepは手軽ですが、ひとつのフォルダ内しか検索できないという制約があります(grepをスタートしたフォルダのサブフォルダは検索可能 です)。あちこちに分散したフォルダを検索したいときは、高機能なgrepソフトウェアを使います。私は、シェアウェアのKWIC Finder(下図)を使っています。
 
KWIC Finder


■翻訳メモリや機械翻訳ソフト
産業系では、単語単位で80%以上が一致するなどよく似た原文を過去にどう訳したかを提示してくれる翻訳メモリが使われています。このツールを使うと、過 去に訳した訳文を再利用できるわけです。
一方、新しい文もとりあえず訳してくれるのが機械翻訳ソフトです。この出力文から使えるところだけ取りだして利用する翻訳者もいます。
私としては、いずれも、「手よりも頭が意味を持つ部分」を浸食するツールであり、短期的・長期的に品質の低下をまねくおそれがあると考えています。使わな ければならない立場でないかぎり、使わないほうがいいでしょう。

■まとめ
このような工夫やツールは、いずれも、ひとつで効率を大きく高めてくれるものではありません。一つひとつの効果はごく小さなものです。でも、塵も積もれば 山となります。きちんと計測したわけではありませんが、総合して、効率が2割から3割はアップしたと感じています。
なお、今回ご紹介した工夫やツールは、ほとんどが独立に使うことができます。一度に全部を導入する必要はありません。ひとつでもふたつでも、やりやすいと ころからトライしてみていただければと思います。